🔗市島邸市島家新潟県の千町歩地主は斉藤家、市島家、白勢家(以上北蒲)、伊藤家(中蒲)、田巻家(南蒲)の五家があった。うち「越後の大地主中の大地主」と称され、越後随一の名家としてあげられたのが市島家である。水原は、蒲原郡六万石の幕領を支配する水原代官所の在ったところで、もっとも富有の土地と言われ、ここ水原は地区は狭いが、十三人衆といわれるような富豪が居を構えていた。 文化・文政期の「越後持丸鑑」と題する番付表には、全部で四百数十名の富豪が名を連ねているが、東の大関に新発田の白勢瀬兵衛、西の大関に水原和泉屋伊左衛門を配し、行司に下関の渡辺三左衛門を、勧進元に水原の市島徳次郎が挙げられている。 市島家は丹波国(現兵庫県)永上郡市島村出身で溝口氏に仕え、慶長3年(1598)高祖弥惣右衛門(治平衛)が新発田藩主溝口秀勝に加賀大聖寺より随従して越後に来在し、五十公野に移り住んだ。以来、世代を経て繁栄し、多くの分家を出した。そして同族結合の形態をとって、結合を強めていったことが、同家の成長の主動力となった。 市島家が山林経営に乗り出したのは明治30年代に入ってからである。明治40年(1907)には蒲原地帯59ヶ村内に耕地1466町歩(山林・宅地合わせて約2000町歩)という、わが国屈指の巨大地主となった。 以後次第に減少し、昭和22年(1947)農地解放の時点では1031町歩であった。 1町歩を10石と計算すると、最盛期の2000町歩は2万石となり、大名並みの石高を有していた。 (宗家)二代嘉右衛門のとき、五十公野の家を弟の六之丞(五十公野・市島家)にゆずりに、幕府天領水原町に移住し、売薬業をはじめ市島家発展の起源となった。以後、江戸時代を通じ、明治初年まで市島本家の事業は水原を根拠地として行われた。三代嘉右衛門(号は南山)は五十公野・市島家よりはいって宗家を継いだ。売薬問屋として成長。広く海陸貿易をおこない、山形・米沢にも支店を置き、京、大坂との取引も始めた。大阪との取引は、薬種のほか海産物・金物にも及んだ。こうした取引で上げた利潤は主として土地に投資した。こうして先代に百倍するという家産を築いた。天明6年(1786)には私禄3000石に達した。隠退して別楼を築き、その名を取って南山と号した。三代嘉右衛門は資産を8子に分け独立分家させた。これを南山八家(宗家・角市・丸市・入市・葛塚・金市・山市・六之丞家)という。 四代徳次郎は上方との薬種・海産物・金物などの取引を行う一方で、高利貸として、質流れにより取得した土地を集積していったが、晩年には私禄7000石と称した。 天明3年(1783)の凶作時には800両を幕府に上納、永代苗字御免となった。。 天明6年(1786)には老中田沼意次の政策になる手賀沼(千葉県)開墾費として2000両を献上、永代帯刀・三人扶持を許された。 五代徳次郎は、いったん角市島家の養子となったが、兄弟が早世し宗家に戻った。商才にたけ、山形県酒田地方の、米市場に投機し、多大の利益を得た。家を継いだ時8000石だった私禄は数万石と称するほどになった。 寛政2年(1790)、幕府は福島潟の開発を市島徳次郎ら13人に命じた。紫雲寺潟新田付近で集積を進める一方で福島潟の開発をおこなった。この後、福島潟の所有開発権の獲得は市島家の悲願になった。しかし、徳次郎らが開墾した土地は、文政6年(1823)、幕府から新発田藩に開発の権利が移ったことから、同藩に譲渡される。幾多の推移を得て、潟の全面が市島家の手に入ったのは明治44年(1911)になってからである。 六代徳次郎は、五代徳次郎の次男である。天保飢饉の際窮民救済のため、天保8年(1837)別邸継志園を築造する。天領水原の代官所から500mの距離で、丘を築いて屋敷を造り、代官所や水原の町並みを見下ろす形となった。このことが幕府に聞こえ、糺問を受けたが、難民救助ということなのでかえって賞をうけた。継志園は、次の七代徳次郎の時、これを越後府に献じ、ここに府庁が置かれたことがある。そのため、これを天朝山とも呼んでいる。 七代徳次郎は、戊辰戦争の前後の当主として、困難な時期に直面した。天領水原が会津藩の預地とされると、会津藩は本営を水原に於いた。7代徳次郎はこれに協力するため、別邸継志園を本陣に提供した。会津藩越後口総督の一瀬要人は、ここを本拠とし、各地を転戦した。 新政府軍の参謀黒田了介は新潟浜に上陸し、新発田城に入城すると、即座に、水原の征伐に向かい、これを占拠した。この戦いで邸宅は炎上焼失した。 七代徳次郎の資質は、「温厚、高雅、勤倹」であったといわれる。しかし戊辰戦争後は、昼行燈を装って新政府に対応し、困難な時期を切り抜けたといわれる。 水原の別邸宅地の全部を新政府に、越後府の用地として献納し、明治政府からも協力、名字帯刀を許されている。(☛ 水原陣屋の戊辰戦争) 第四銀行の創設にあたり、初代頭取となる。 戊辰の役の際別邸継志園が焼失したため、明治10年(1872)に天王新田に現在の市島邸を建築し移住する。天王新田は、市島家が干拓事業を進めた、当時の福島潟の湖畔にあった。土地の百姓は、市島家の本邸を「天王の御殿」と称し、その当主を「天王の殿様」と呼んだといわれる。 七代徳次郎の時代は激動期であった。市島家の一族のある者も浮沈を免れなかったが、宗家を中心によく家運を維持し、日本屈指の巨大地主として名を知られるようになる。 八代徳次郎(号は湖月、閑山)は、貴族院多額納税議員となったが、その記念事業として吉田東伍「大日本地名辞書」編纂に協力する。 九代徳厚は、1919年(大正8)の小作米36、124俵と本所第一の大地主となる。しかし九代徳厚のとき、巨大地主市島家の勢威は、太平洋戦争後の農地改革によって崩壊する。 市島家系図には、九代徳厚のあと、宗家市島家廃絶と記載されている。旧市島本邸および所蔵の美術品、古文書等は財団法人継志会が保存・管理にあたっている。 (丸市家)三代喜右衛門(南山)の子次郎八が新発田立売町に分家。薬種(寛政初年まで続く)をはじめとする海産物・金物等の問屋経営・質屋・酒造を営み、一代にして産を形成した。新発田藩御用達を勤め、新発田町準検断になった。三代次郎八のとき、藩御用達、御廻船差配方を務め、検断格三人扶持に遇される。 金市市島家および白瀬家とともに近世後期新発田藩の財政的な支柱。 ※現在の新発田市市島酒造は、丸市家を祖としている。 (角市家)三代喜右衛門(南山)の子次郎吉が下条村に分家。蝋・質屋・米相場・廻船問屋を営む。天明6年(1786)幕府の手賀沼開発に、宗家とともに500両を献じ、一世帯刀、永大苗字御免に遇される。三代次郎吉は、山市家から入って角市家を継いだ。文才があり三余と号した。新発田藩御配船差配方を務める。廻船数十艘を有し、米を売買して巨利を得る。新潟白山神社には、嘉永5年(1852)6月、三余の奉納した絵馬額があり、県の文化財になっている。 また幕府に御用金を献ずること多く、天保9年(1838)には永世帯刀御免、三人扶持に遇されている。郡中取締役を命ぜられ、嘉永6年(1853)海防費1000両を献じて五人扶持となる。三根山・村松へ融資し、其の台所を預かる、とまで言われた。 三代次郎吉には、その優れた商才について多くの逸話が残されている。水原から新潟の間に人を置き、旗をふって米価の高低を知り、急報があるとすぐさま新潟にとんで、売り買いしたなど。 四代次郎吉は幕末維新期国事に尽くし家産傾く。 五代謙吉は大隈重信の改進党に入り、「高田新聞」(明治16年(1883)創業)社長として文筆を振うも投獄される。以後重信を助け、また早稲田大学の経営にあたる。 (金市家)三代喜右衛門(南山)の子権之丞が、新発田萬町に分家。二代代権之丞は、葛塚市島家から入って金市家を継いだ。新発田藩に多額の御用金を用立て、天保2年(1831)、代官格にまで取り立てられる。 三代権之丞の時、藩の御用達をつとめ苗字帯刀御免となるが、嘉永6年(1853)に破産する。 (葛塚家)三代喜右衛門(南山)の子助次郎が葛塚に分家。質屋を営む。(山市家)三代喜右衛門(南山)の子長次郎が水原で分家。製薬・呉服・醤油を営む。(入市家)三代喜右衛門(南山)の女婿与右衛門が分家し、始め水原、後葛塚に住居。🔙戻る
市島邸戊辰戦争では天朝山にあった旧邸が戦火で焼失したが、会津藩が水原代官所から撤退するとき火をかけたとも、新政府軍によって焼き払われたともいわれている。焼失した跡地を維新政府に献じ、ここに越後府がおかれた。市島家は現在の新発田市天王新田の地に居を移したが、現在の住宅13棟の主要部は明治5年(1872)に新築されたものである。約2万6000平方メートルの広大な敷地は、福島潟をバックに蒲原平野と対峙している。邸宅は2000平方メートルに及び、13棟のうち数寄屋造りの水月庵、仏間を中心にした簡素だが優雅さを感じさせる南山亭は、大名主の邸宅よりもずっと質素である。簡素ながら優雅な作風で明治初期のすぐれた住宅建築である。(案内図) 継志園と呼ぶ広い回遊式庭園の周辺には、明治30年代に増築した湖月閣という大広間、庭園の西側に水原から移築した松村宗悦設計の茶室や説教所など豪農の生活を語ることに欠かない建物が散在する。池の水位で福島潟の水位がわかったというからその規模の大きさが伺い知れる。 園の西側外苑は植物園として整備され、昭和42年(1967)、「蒲原植物園」と名を改めた。また茶園、椿園など特色ある運営が見られる。園内には吉井勇、土居晩翠、会津八一の歌碑や市島春城、諸橋轍次の碑がある。 表門、玄関、南山亭、松籟庵、水月庵、説教所など13棟が昭和37年(1962)県の文化財に指定された。特に当初建築された水月、南山、湖月の上、中、下段の三間の付属を合わせた108畳の大広間は豪華で荘厳さを感じさせ、最盛期の模様が想像できる。 また、市島家所蔵の1万6528点の古文書は、当時の社会経済、福島潟干拓史の独自の資料として高く評価されている。農業を中心として、商業、醸造、水運、干拓、金融業ときわめて多岐にわたり、同家が越後の社会経済に果たした役割が非常に大きかったことがわかる。 平成7年(1995)4月1日に発生した新潟県北部地震で市島邸も大きな被害を受けた。湖月閣も倒壊する被害を受けたが、再建されることなく現在に至っている。 ☯2012年、川村清雄の「ヴェニス風景」が庭内で発見される ≪現地案内看板≫
新潟県文化財 市島邸 市島家は江戸初期以後三〇〇年の間、この地に巨大地主、豪農として栄えました。 現在の邸宅は明治九年(一八七六)に建造されたもので、代表的日本建築として知られております。 特に数奇屋造りの水月庵、仏間を中心とした居室部分は広大な回遊式庭園とともに近世豪農のたたずまいを今に伝えております。 本邸は昔日の記憶、栄華の回廊であります。 新発田市 🔙戻る
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市島邸 越後府跡 水原代官所 浄念寺 福島潟