街中を通る国道403号線沿いに,重厚なたたずまいを見せる椿寿荘(ちんじゅそう)は,1987年(昭和62)11月17日に,田上町の文化財に指定されている。 田上町には明治から大正時代にかけて栄えた田巻姓を名乗る二軒の豪農があった。彼らはそれぞれ代々三郎兵衛,七郎兵衛を名乗り,地元では三郎兵衛家を「本田巻家」,七郎兵衛家を「原田巻家」と呼びならわしていた。 「椿寿荘」は原田巻家7代・堅太郎が建てた離れ座敷。3年半の歳月と72,000円余りの巨費を投じて,1918(大正7)に完成した。地主の権力・財力を誇示せんと,贅を尽くした屋敷である。 「本田巻家」寛文・延宝ごろは藤左衛門と称し自作小農であったが、3代目から田巻三郎兵衛と改称し以後代々三郎兵衛を称す。5代目から地主的発展をはじめ、6代にいたって酒造業も開始、また、庄屋、御用達に任ぜられる。7代目のときに、土地所有が急激に拡大し、幕府から種々の御用金を命じられ、安政年間(1854~1859)に名字帯刀を許され、2人扶持を与えられる。1868年(慶応4)には6人扶持を与えられた。戊辰戦争では加茂の松田秀次郎が庶民を官軍側に立って組織した居之隊(きょしたい)を庇護し、また新発田藩へも多額の融資をおこなった。この功により民生局会計方御用達、通商司に任じられた。9代目の1885年(明治18)、土地所有規模は景気の影響をうけ641町歩にまで減少した。 「原田巻家」本田巻家5代の分家で、初代七郎兵衛は小倉家の養子となるが、後に復姓し、以後代々七郎兵衛を称す。3代目から土地集積が進行し、4代目の1864年(元治元)のときにおよそ1300町歩の巨大地主に発展する。幕府から1839年(天保10)江戸城西丸再建費や海防費、長州征討費その他の上金が命じられるが、その功により幕末には名字帯刀を許され、4人扶持の待遇を与えられる。明治維新に際しても5代文七郎は新政府から多額の拠出を求められ、一時土地所有規模が減少したが、明治10年代から再び拡大し、1901年(明治34)1202町歩に回復した。7代目堅太郎は1924年(大正13)田畑1204町歩に達し、地主の権力・財力を誇示せんと,贅を尽くした屋敷「椿寿荘」を建築した。「椿寿荘」屋敷を囲む土塀は,明らかに周りの建物と趣が異なり,大正期の豪農文化を物語る。庭園は京風の枯山水。京都の庭師・広瀬万次郎の手になるもので,自然の樹相を生かして深山幽谷を表現している。庭の奥に置かれた五重塔は須弥山を表現している。仏教色が色濃く反映された庭園に立つと,今でも厳かな雰囲気に包まれる。春は,上段の間の書院の明かり障子を開け,朱に染まった鮮やかなツツジに包まれる五重塔を望み,夏は,奥座敷の下を流れる清流を眺め,涼を求める。秋には,紅葉の梢越しに高床の奥次の間と庭園との美しい対比を眺め,冬は,雪をまとう屋敷の姿にしみじみと心を打たれる。四季それぞれに豊かな表情で人々の心をたのしませてくれる景色。この風景は今も昔も変わらない。 屋敷の建坪はおよそ140坪,屋敷は約880坪の広さを誇る。 建築にあたったのは,当時,日本三大名工といわれた富山県井波町の宮大工棟梁の松井角平。釘を一本も使用しない寺院様式で,材木には,吉野杉,木曽桧,会津欅など,日本中の銘木が集められた。 十数軒の打ち通しの土縁の庇の丸桁には,長さ20メートル余りの節の無い吉野杉を使用。長押にも木曾檜柾板が用いられ、総じて長い原木と檜の柾目の美しさが強調されています。また,瓦は越前瓦,玄関や風呂場には水戸産の御影石と,最高の材料が選ばれた。楠の一枚板に菊の透かし彫りを施した欄間も見事である。 中国では古来,「椿」は不老長寿の木として選ばれ,長寿・長命を表す言葉として用いられてきた。椿寿荘を建てた田巻堅太郎はこの離れ座敷をいつまでも後世に残るよう念願して,「椿寿荘」と命名したのだといわれている。 ≪椿寿荘のパンフレット≫
田上には田巻姓の二家の豪農lがあった。それぞれ代々七郎兵衛、三郎兵衛を名乗り、地元では七郎兵衛家を原田巻、三郎兵衛家を本田巻と呼びならわしていた。原田巻家は、下田の豪農五十嵐氏の末裔である本田巻家次男で、安永三年(1774)に没していた七郎兵衛を中興初代とする。四代目、五代目の幕末期には石高二千六百、面積で約千三百町歩の大地主に発展した。椿寿荘はその原他巻家の広大な離れ座敷である。椿を長寿の霊木とした、中国の故事にならって名づけられたものという。建坪は約百四十坪で、約八百八十坪の敷地に建つ。明治三十年(1897)、当時日本三大名人の一人とうたわれた、富山県井波の宮大工松井角平を棟梁に招いて構想、資材調達にとりかかり、大正三年(1914)から七年(1918)の約三年半の歳月をかけて完成した。材料は吉野杉、木曾檜、会津欅など全国から銘木を集める贅を凝らし、釘類を一本も使わず、寺院様式を取り入れたその姿は重厚な趣をかもし出している。特に畳敷二段廊下は豪快で、十一間あまりの打通しの露縁の庇を支える丸桁は吉野杉の一本物、無節・本末なしの銘木で、海路、信濃川を遡らせて運んだものである。 庭は、京都の庭師広瀬万次郎の手になるもので、京都の枯山水。三の間、二の間、上段の間と続く座敷に面して主庭が設けられ、仏道の理にかなった立派なものである。奥の五十塔の石組みは、須弥山を表したものと言われる。四季それぞれに赴きを変えるが、秋、紅葉の梢越しに望まれる高床の奥次の間と庭とのコントラストは、陶然とするほどの美しさである。また、主庭と反対側にある泉水の中庭の石垣も卓越しており、前庭のたたずまいとともに見事なものである。 田巻邸 地図 ストリートビュー |