了玄寺のつなぎがや Ryogenji's Tsunagi Kaya 田上町



樹齢700余年といわれる大樹で樹高は5mとさほど高くないが、周囲1mほどの主幹から枝が根元近くから八方に伸び広がり、130㎡ほど地面を覆っている。樹齢は同寺の伝承で約790年、一説には500年程度ともされる
葉のつき方が変わっており、ある年には葉の表裏が全く逆になる。同じ年に伸びた枝の葉は、みなこれと同じになるため、年毎にはっきり区別ができるので、裏返った葉は色が薄くよく目立ち、奇観を呈する。「お手かえしのカヤ」とも呼ばれている。親鸞の越後配流に由来する、七不思議のひとつとしての伝説がある。※ストリートビュー
越後に流され、鳥屋野に草庵を建てて下越地方を布教して歩いた親鸞は、この地を訪れた際、領主宮崎国光が酒乱好色で、悪政を行い里人を苦しめているという話を聞いた。
親鸞は早速、護摩堂城を訪れ、宮崎国光にあって話を聞き説法をおこなった。領主は親鸞の教えに目覚め門弟になり、「これは、山の名産 カヤの実です」といって、糸を通してつないだカヤの実を土産に渡した。カヤの実は農民たちが年貢の代わりに納めたり、飢饉の備えとしたもので、実の穴に糸を通し数珠のように保存していた。親鸞はその一つを記念にと庭の土に埋め「愚禿の弘むる教法、釈迦諸仏の御心に相叶へ、末世の凡夫、往生疑いなくば、この焼じたるカヤ、頓に枝葉を生ずべし」といって帰ったという。
親鸞の言葉通りカヤは根を出し、芽吹き繁茂したという。成長したカヤの葉は裏返しに生じ、どの実にも一本の穴が通っていて、糸で繋げることができたという。城主は親鸞の法力に驚き、ますます信心をあつくしたという。またこれが「ツナギガヤ」の名前の由来とされる。
護摩堂城は鎌倉時代の建長年間(1249~1256)に騒乱が置き落城した。この時、浄土真宗の信者たちは、カヤの木を浄土真宗の寺の西養寺に移植したという。
一説では、15世紀中庸に蓮如が東北に赴く途中に、不思議な現象として自生地から移植し、布教の方便としたともいわれる。
その後、西養寺が新潟の酒屋の方に移ることとなり、親鸞のカヤの木を見守るため、了玄寺が置かれたといわれている。

大正11年(1922)、国の天然記念物に指定されている。同様のツナギガヤ伝説は群馬県渋川市(旧子持村)双林寺にも見られる。

≪現地案内看板≫

国指定文化財 天然記念物
「了玄寺のつなぎがや」

ここ了玄寺は親鸞聖人ゆかりの寺で、越後の七不思議の一つ「つなぎがや」の老木がある。
この榧は基部から数本の幹にわかれ八方に伸び、地をはうように広がって百三十平方メートルにも及び、高さ五メートルに達し、樹齢七百年余と言われている。
また護摩堂山頂にも天然記念物として大正十一年十一月十七日、
国の指定を受けている、
「つなぎがや自生地」があるが、浄土真宗中興の祖と言われる
蓮如上人が護摩堂山の「つなぎがや」を、この了玄寺に移したものだとも
言われている。

平成十年 現在
田上町教育委員会
田上町公民館

ツナギガヤの自生地

護摩堂山山頂から少し下りた北側の斜面に雑木や雑草に混じって、背の低いツナギガヤが奔放に茂っている。指定面積は2688㎡。樹形は、雪の重みの影響で、枝が折れ、了玄寺のツナギガヤとは比べものにはならない。
ツナギガヤはカヤの一種で、毎年、枝条の途中で葉の表裏が反転する性質があり、「お手返しの葉」が別称となっている。
カヤの葉は枝を軸にして螺旋状に生えるが、新芽の形勢時に枝ごと回転してしまう、というのが「お手返し」のメカニズムといわれるが、未解明の部分もあるという。
大正11年(1925)、田上町の了玄庵ツナギガヤと同時に国の天然記念物に指定。当時の調査で1,480本が確認された。正式な登録名は「田上村ツナギガヤ自生地」となっている。※地図





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