三国峠 Mikunitoge Pass 湯沢町



🔗戊辰戦争 三国峠の戦い

町の南東端、旧三国街道が三国山(1636メートル)の南稜を越えるところで、上野・越後・信濃の三国国境にあたるというのでこの名があり、峠上には上野の赤城、信濃の諏訪、越後野弥彦の三神を合祀した三国権現が鎮座し、三国峠は古くから開けていたようです。すでに15世紀の末、京都の応仁の乱を避けて越後を旅した人が、三国峠を越えた記録がある。天文21年(1552)には上杉謙信が坂戸城の長尾政景に命じて峠を整備したとされています。謙信は北条氏と戦うために幾たびかこの峠を往来し、元亀2年(1571)国境警備と関東遠征の中継基地として浅貝寄居城を築城しました。その遺構は現在でも残っています。
永禄3年(1560)、謙信は上杉憲政を奉じて関東に出兵した。その際、「御坂三社大明神」に戦勝を祈願したという。また、社名を仏名の「大権現」に変えさせたといわれている。
江戸時代には参勤交代の大名から、佐渡・新潟奉行の行列、江戸への出稼ぎ人、旅芸人、佐渡送りの罪人を乗せた篭にいたるまで、数知れぬ人が行き来したようです。
こうしてにぎわった峠道も信越線の開通でさびれてしまいました。信越線の高崎・横川間が開通したのが明治18年、長野から直江津、新潟まで全線開通が明治37年です。さらに昭和6年9月に上越線が開通すると、三国峠は人跡未踏の峠道となり、三国街道沿いの宿場町も人が減り、山仕事で細々と暮らす状態になってしまいました。
それから30年経ち、昭和34年、国道17号の三国トンネルが峠の直下を貫通してからは昔のにぎわいを取り戻してきました。
現在は三国峠の道は、春は新緑、夏は涼しい風を味わい、秋には紅葉狩りのできるところですし、自然の風景ばかりではなく、道祖神や石畳 など昔の賑わいを偲ばせる歴史的な遺物も数多く残っているそうです。峠へは、越後湯沢から猿が京行きバス45分、国道17号線の三国トンネル入り口下車、頂上まで徒歩1時間30分です。 足を運んでみてはいかがでしょうか。峠上からは吾妻耶山・向山など、昔、謙信が眺めたはずの、越後・上野両国の山並みが一望できる。



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≪戊辰戦争 三国峠の戦い≫

会津藩は幕末期に幕府領地を預かり、小出島(魚沼市小出)には39ケ村2万7千石を治めるをため陣屋を設けた。三国峠から湯沢宿に到るまでは天領であったが、幕末には会津藩が警備を任されていた。慶応4年(1868)2月15日、藩の郡奉行、町野源之助(主水)が奉行として30余名の兵をともなって派遣されて来た。町野源之助は会津では鬼の佐川官兵衛と並び称される武勇の士であった。
会津藩では新政府軍の主力が高田方面にあったことから、三国峠への対応は手薄になっていた。佐川官兵衛隊を越後水原に派遣していたが、三国峠方面まで対応できなかった。

一方、当時上野国内では、大規模な世直し一揆が各地で広まっていた。新政府東山道軍が北関東に進出し、一揆鎮圧のため各藩に協力し取締を行った。一揆は沈静化したことで支援を受けた上野国内の諸藩は藩論を恭順にまとめることになった。

3月24日、源之助は、上野国内の世直し一揆による治安の悪化で、峠を越えて越後に追われて来た賊が乱暴を働いているという情報がもたらされた。諏訪神社で出陣式を行い、陣屋の一隊を率いて進発した。賊徒をを討伐し、一旦兵を小出島に退いた。

閏4月9日、町野源之助は、新政府軍動向を察知して三国峠防護のため出陣、郷村兵にも出動命令を下す。
12日に三国峠を死守するため、峠の大権現社を少し下った大般若塚(上州)※ストリートビューに陣を構えた。結集した軍勢は町野隊70余名、小千谷より増援の井深隊30余名、郷村兵合わせて300名であった。
田植えの準備時期であり、平穏を確認して13日、藩兵郷村兵150名ほど残して帰郷させ、残留組は土俵を積み上げ、木柵・掘割工事をし、大砲を据えて新政府軍の侵攻に備えた。

閏4月中旬、幕府の重臣で新政府が恐れて斬首した小栗忠順の妻道子と遺臣13名の一行が追捕を逃れ、会津藩を目指して十日町から山越えで六日町に到着する。遺臣のうち数人が町野のもと会津軍に参加の志願をした。

新政府は上野国に、東山道総督巡察使の原保太郎ならびに豊永貫一郎(土州)を軍監として派遣した。
原保太郎 1847年8月11日(弘化4年7月1日)〔生〕 - 1936年(昭和11)11月2日〔没〕
園部藩の藩士で神道無念流の撃剣家であった。園部藩を脱藩し京都に出て、岩倉具視の食客となり知遇をえた。戊辰戦争でも岩倉に随行し東山道軍に従軍した。
上州権田村に隠棲していた、幕末屈指の逸材である幕府の元勘定奉行、遣米使節目付の小栗忠順(上野介)を罪状も無いまま捕らえ取り調べもせず、4月6日、自ら斬首したといわれている。
小栗忠順が薩長からも恨まれていたことから、明治政府内でも優遇され、山口県知事などを務めている。

高崎・前橋・安中などの上州諸藩の兵士を中心として1,500人が永井宿※ストリートビューに本陣を置き、道案内を前橋藩が務め進撃を開始した。前橋藩の隊長は八木始が務めた。

会津軍は、大磐若塚を拠点とし木柵、堀切をして防御態勢を固めていた。
閏4月21日正午ごろ、永井宿から八木隊を先頭に新政府軍は進撃したが、1寸5分の釘を打ち付けた板が街道一面に敷きならべられ、落ち葉に覆われ隠されていたため、これを踏んだ兵が前に進めず一旦撤退した。源之助は早飛脚を出し、一旦帰郷していた郷兵や村兵に至急戻るように指示した。
24日、明け方より濃霧を衝き、農兵を含めてわずか270人の会津軍に対し、地理に知悉した上州軍兵は、攻撃隊を二手に分けた。一隊は大般若塚に向かう本道を進み、一隊は法師温泉から般若塚と大権現社の途中に出る間道を進んだ。濃霧の中、本道上で上州各藩兵と会津藩兵の銃撃戦が始まった。
佐野藩の砲撃を合図に一斉射撃が始まり、町野ら会津藩兵、農兵らも応射した。しかし、農兵として徴兵された百姓たちは、ろくな軍事訓練も受けてないし、そもそも会津藩のために命を懸けようという気概もなく我先に逃げ去ったという。

この様子を見て、会津藩兵の若い兵士5人が、町野の制止も聞かず、堡塁から飛び出して、白兵戦を挑もうと新政府軍兵士に肉薄した。この中に、奉行町野源之助(主水)の弟で白虎隊士、久吉(17歳)があった。宝蔵院流槍術に秀で、蒲生家伝来家重代の名鎗をふるって新政府軍兵士十数人を血祭りに挙げ、獅子奮迅の働きを見せた。前橋藩隊まで迫ったが、隊長の八木始が拳銃でようやく撃ち倒し、なお立ち上がり、向かってくる久吉を、新政府軍の兵士が取り囲み、さんざんに斬って倒したという。
久吉の獅子奮迅の戦いぶりは、新政府軍の将兵を驚嘆させた。町野源之助は弟の死にざまを20数年後に知ることができたという。通常、戦場での戦死者の様子が明らかになることはあまりないことであったが、久吉の戦い方が敵兵に与えた印象が余にも強かったことが伺える。
当時17歳で前戦にあった前橋藩砲兵指南役亀岡泰辰(後の陸軍少将)が久吉について回想している。
町野久吉が、単身槍を振って奮戦突入して来たので、前線部隊の兵は不意を食らい、応戦できない間に、奥深くまで進入した。亀岡も手をこまねいている間に、見向きもせずに傍を通過し、本道上にあった前橋藩の総指揮官たる八木始に向い、名乗りを上げて数メートルまで近づいた。八木がピストルで防戦し、近くにあった兵も銃撃したので久吉は崩れ落ちた。八木が刀を握って近づき、首をはねようとしたとき、久吉は身を起こし、槍を構えたが、取り囲んだ兵によってさんざんに斬殺された。その久吉の勇気は実に賞賛するに余りあると回想している。



久吉が振るった蒲生氏郷公から下賜されたといわれる先祖伝来の名槍「宗近」は、山形有朋の手に渡っていた。町野源之助は後日、人づてに、返還の申し出を受けたが、「戦場で敵に奪われた槍を畳の上で受け取ることは相ならぬ」と断ったという。現在、鶴ヶ城内に展示されている。
間道を進んだ新政府軍が会津兵の後方に出て攻撃を開始すると、会津軍は新政府軍の攻撃を支えきれなくなり、午後3時頃には、総崩れとなった。この戦いで久吉など会津藩士3名が戦死し、その首級は上州の永井宿に10日間晒された。久吉の首はその後、村人によって埋葬されたが、その場所は不明である。水上町にある墓は再建されたものである。

敗れた会津軍は、三国街道を退却しながら途中の宿場である浅貝・二居村に火を放って新政府軍の侵攻に支障を与えようとした。さらに三俣宿も焼いて新政府軍の侵攻に備えようとしたが、北陸道鎮撫総督軍のうち山道軍が六日町に近づいているという情報が入り、退路を絶たれることを恐れ果たせず急ぎ退却した。24日夜は、六日町付近で宿営し、25日に六日町の二日町から乗船して魚野川を下って、午後3時頃には小出島に着いた。
浅貝・二居村の建物はことごとく灰塵に帰し、当時の遺構は残っていないが、三俣宿の脇本陣「池田屋」の建物は、戦火にさらされず現在に至っている。
会津藩はこの後も、戦闘で撤退する時、必要以上に村々の民家に火をかけて焼土作戦を行っている。これが越後国内における住民の会津藩に対する評判を落とし、反感さえ持たれてしまった。戦況が会津藩に不利に転じた後は、会津藩の徴用に進んで応じる村が減じることにつながった。

25日、新政府東山道軍は、負傷し匿われた敗残兵を見つけるため、家を一軒一軒調べながら、三俣宿に至る。

26日、新政府軍の東山道軍と北陸道鎮撫総督軍支隊山道軍が六日町で合流して小出に向かう。上野国諸藩の兵士はここで帰還する。

これに先立つ22日に、山道軍は魚沼郡千手村に到着して分割され、一隊は十日町経由で六日町へ到着し小出島を目指す。もう一隊は雪峠から小千谷へ進んだ。


≪現地案内看板≫
戊辰戦役戦史
明治戊辰の役 (慶応四年四月)で会津藩鶴ヶ城攻略に向った官軍中、北上する薩長連合軍山県有朋、吉井幸輔の隊を討とうと時の会津領、越後小出島軍事奉行、町野源之助、弟久吉。家臣遠藤介、三込山良助など十六名と地方郷士・侠客など雑兵百三十余名は三国峠に陣を敷いた。
一方、官軍方は豊永貫一郎司令官をはじめ、鎮静官前橋少将等が、高崎藩、佐野藩、吉井藩等諸藩の兵六百ほどを率いて須川宿に到着、(四月二十二日)豊永司令官は諸藩の隊長を集めて翌日の作戦命令を言い渡した。
高崎藩二百を率いて永井の裏山伝いに大般若塚に向え、吉井佐野藩百八十人を率いて法師から大般若塚に向え、自らは鎮静官と共に二百人を率いて本道より向う。かくて敵陣を三方より銃撃すると、翌日は雨で進撃を止め永井の村民中から地形に明るい三人を山かせぎ姿として敵陣付近を偵察させた。
三人は夕方帰って来て「敵兵は防御工事として釘を打った板を道路に埋め、木を倒して道をふさぎ六、七尺の掩堡を築いて陣営とし葵の紋の幕を張ってあると」
会津軍の方では風反と云う所まで出て双眼鏡で官軍を監視していた。また法師から登る坂路には大木を切り倒して道をふさいで居た。
官軍はこの様子を探知して(二十三日)の夜、村人に之を取り除かせて置いたが、会津軍は是を知らなかった。かくて四月二十四日未明官軍は三方から敵の不意をつき砲撃を開始したので敵兵は大いに驚き応戦したがついに敗れて小出島まで退却した。
この時敵軍のの隊長の弟、町野久吉は官軍本隊の中に突入し、「我こそは会津藩中にて大沢流の槍の達人と呼ばれた町野久吉である。冥途の道連に誰でもきて勝負しろ」と呼ばりつゝ槍の妙技を揮って官軍を悩まし、満身に銃創、剣創をうけて戦死した。墓所は、永井駒利山にある。



官軍の死者
胸部貫通銃創 (高崎藩) 深井八弥
頭部 〃 (堀田藩) 伊島吉蔵
二ヵ所 銃創 (吉井藩) 吉田善吉
負傷者 三人 高崎 前橋 堀田 各一名

官軍の戦力
巡察副使 富永貫一郎 同 原健太郎 五〇人
鎮静官 前橋少将 三〇〇人 沼田 (土岐隼人)一二〇人
高崎 三〇〇人 吉井 八〇人
伊勢崎 (酒井) 一五〇人 安中 一五〇人
小幡(松下摂津守)一〇〇人 七日市 (前田) 八〇人
足利 (戸田) 八〇人 計一、一四〇人
外に土地の人足 多数

昭和五十七年十月一日 新治村観光協会













































  • 🔹大般若塚
    〔所在地〕 群馬県利根郡みなかみ町永井
  • 🔹町野久吉の墓
    久吉の遺骸は、村人によって埋葬されたが、その場所は不明となってしまった。一説では、久吉の働きがあまりに勇猛であったため、それにあやかろうと、村人によって解体され食されたといわれている。江戸時代までは、そのような悪弊が各地に残っていた。戊辰戦争の最終盤になって、総督府から敵兵の死骸を切り刻んで貪る行為を禁じる通達がなされている。
    この墓は、昭和35年(1960)6月、久吉を顕彰するため、町の有志によって再建されたものである。
    〔所在地〕 群馬県利根郡みなかみ町

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