(三俣宿)越後から江戸をはじめ関東各地に行くのに、北国街道・会津街道などに比して三国峠越えは最短距離のルートとして便利であったが、標高1243m、14kmに及ぶ三国峠の難所を越えなければならなかった。佐渡で産出する金銀を出雲崎から陸路江戸に運ぶためや、「目籠送り」とよばれ佐渡送りとなった罪人や無宿者の送致にも、三国街道が多く利用された。上野国へ抜ける越後側の南端の宿は浅貝宿であった。浅貝宿から越後側には二里(約8キロ)余くらいの距離を置いて二居宿・三俣宿があった。この三つの宿は「山中三宿」(三国三宿)と呼ばれた。三宿の中では三俣宿が一番大きい宿場であった。 三俣宿には長岡、与板、村松藩などが参勤交代で宿泊する本陣1軒、脇本陣本陣は大名、公用で旅をする幕府の役人などが宿泊するための施設。一方脇本陣は、大きな藩で本陣だけでは泊まりきれない場合や、藩同士が鉢合わせになった場合に格式が低い藩の宿として利用されるなど、本陣に支障が生じた場合に利用された。本陣だけに宿泊できないときに、予備にあてたのが脇本陣であった。脇本陣には一般旅行者も宿泊することもできたが、本陣より格が一段下がる。2軒があり、本陣は関新右衛門家で、脇本陣として越後屋安左衛門家と池田屋七左衛門があった。 浅貝宿の本陣は綿貫家(※地図 ※ストリートビュー)が、二居宿の本陣は富沢家(※地図 ※ストリートビュー)が務めたが、戊辰戦争で火を放たれ灰燼に帰した。二居宿旧本陣富沢家の建物は、明治2年(1869)の再建によるものである。 (池田屋)池田家の先祖は、備前岡山の城主池田輝政の子孫であると伝えられており、今でも池田屋の上段の間の欄間には、岡山の池田家と同じ定紋がかかげられている。池田屋は、もと三俣宿の脇本陣と問屋江戸時代、街道の宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締ともいった。運送業を意味する。を兼ねていた。江戸天明年間(1781-1789)のころから脇本陣を努めたことから、その当時の建築といわれる。 主屋は街道に面し、桁行10間(18.2m)、梁間6間(10.9m)、前面に8尺(2.4m)、背面に3尺(0.9m)の庇をつけている。 平入妻造りで石置柿葺(こばぶき)屋根一部2階建てになっている。左側の客室部玄関車寄せとして、妻入の屋根が出ている。 1985年(昭和60)頃、保全のため柿葺屋根の上をトタンで覆う工事を行った。 内部は左方4間(7.3m)を客室部分、ほかを居室部分にしており、前面には幅1間(1.8m)ほどの低い縁を通している。ほかに帳場、茶の間、台所、勝手水屋、板間、寝室がある。 客室は6室をとり、そのうちの一室は床框で5寸(15.2cm)高くした上段の間で床・棚・書院を備えている。客室の各部屋は天井高く書院造造り、六葉の釘隠しで飾り、欄間は透かし彫りの意匠で、各部屋は、襖・障子で仕切られていて、脇本陣としての風格を伝えている。 長岡藩主牧野家の宿札などが今でも残り、玄関をあがった客室の上部には大名、巡見視などが宿泊・休憩した宿札が掲げられており、当時が偲ばれる。 1848年(弘化元)3月8日の三俣大火では、三俣宿の半数が焼失したが、風が上手から下手に向って吹いていたため、焼失を免れた。 1868(慶応4)4月24日、戊辰戦争三国峠の戦いが行われ、敗れた会津兵によって浅貝・二居宿は新政府軍の進軍を妨げるため、放火され史跡は残されていない。三俣宿にも火をかけようとしたが果たせず退却したことによって、運よく戦火から逃れることができた。旧三国街道に現存する本陣としては唯一の古い遺構である。 1954年(昭和29)2月10日、新潟県指定文化財に指定された。 2018年(平成30)4月16日、建物が所有者池田誠司氏から町に寄贈された。 ❏〔所在地〕南魚沼郡湯沢町三俣780
❏〔アクセス〕
❏〔営業期間〕 営業期間 4月~11月 9:00~16:30(冬季休業) ❏〔料金〕 一般 300円 (2024年現在) ≪現地案内板≫
新潟県文化財 史跡 三国街道脇本陣跡 池田屋 三国街道は、江戸と越後をむすぶ江戸時代の幹線道路で、諸大名の参勤交代をはじめ人馬や物資の往来がさかんで、街道ぞいに多くの宿場があった。三国三宿とよばれた浅貝、二居、三俣にも本陣、問屋などがあったが、ほとんど失われて当時の遺構としては、この池田屋の建物だけとなった。 池田屋は、当時三俣宿の脇本陣として、諸大名、奉行代官等の宿所であり、問屋業も兼ねた豪家であった。道路に面した主屋は、桁行10間(約18M)梁間(約11M)の切妻造り石置木羽葺屋根の2階建て、内部は、向って左側の6室が客室部その他が居室部である。 全体的に木割が太く、天井の高い堅牢な造りで、特に客室は、上段の間、客室に書院床棚などをそろえた書院造で、水墨の襖絵透彫の欄間、釘隠しなどに本陣の風格がうかがわれる。客室部には荷物揚卸し場、茶の間、台所、水屋などがあり内庭には防火消雪用の「たなえ」とよぶ池がある。この建物は、江戸時代における宿場の本陣及問屋の機構を伝える遺構として、きわめて貴重な存在である。 昭和29年2月10日 新潟県教育委員会 指定 |
The "Ikeda House" in the Mitumata Ward is the site of a remaining outpost of the Mikuni Kaido,which was built more than 380 years ago during the Edo period (1603-1868). The Mikuni Kaido was a main road connecting Edo and Echigo,and during the Edo period,the passage of people,horses,and goods,including the visits of the daimyo to and from the capital,was very active. As a result,inns developed along the highway,and the "Ikeda Family" functioned as both a wholesale store and a side inn. Although Asagai,Futai,and Mitumata,known as the "Three Inns of Mikuni," had their own main inns and wholesalers,the Ikeda House is the only remaining Edo-era building on Mikuni Kaido. During the Edo period,the house was used as a residence for retainers of the daimyo council and the magistrate of Sado Island,and during the Meiji period,Aritomo Yamagata and Ogai Mori,among others,stayed there. Visitors can see valuable structures such as the lodging tags for guests and the upper banquet room,which was used by people of high rank. |
脇本陣池田屋 脇本陣越後屋 本陣関新右衛門宅跡 雪災記念碑