色部長門 新潟市



正式名 色部久長 1826(文政8)年12月14日生〜1868(慶応4)年7月29日没

米沢藩の家老。受領名が長門守であったことから色部長門の名で知られている。
幼少より藩校興譲館に学び、嘉永6年(1853年)に家督を相続し、安政6年(1859年)に侍頭兼江戸家老となる。元治元年(1864年)に奉行(国家老)となる。慶応元年(1865年)、上杉茂憲に従い京都に上洛。御所南門警護に当たる。

戊辰戦争で米沢藩は、奥羽越列藩同盟の盟主として越後方面の警備を担当、色部長門は総督に命じられ藩兵約600を率い出陣しました。本陣を新潟市にある西堀の光林寺に置き、戦略上の要地である新潟港の管理にあたる一方、前線の指揮にあたりました。
 しかし、戦況は次第に新政府軍が優勢となり、色部の守る新潟港にも薩摩藩の大軍が攻め寄せました。
7月25日午前8時、新潟町の東10km余りの砂浜の海岸太夫浜に黒田清隆の率いる新潟攻撃の部隊約1200名が軍艦2隻、蒸気船4隻、帆前船1隻、伝馬船30隻で上陸した。太夫浜は列藩同盟に加盟していた新発田藩領だが、尊王の藩風が強く、新政府軍を自領に招き入れた。新発田藩は以前から、勤皇派が大勢を占めていた。列藩同盟に参加したのは、会津、米沢に強要されたからだ。その裏では、京都、江戸に藩士を残留させて、征討軍と連絡を取り合っていたのである。
7月29日未明、新政府軍陽動隊が関屋金鉢山付近の同盟軍を包囲し攻撃。同盟軍は混乱して東西に退却。陽動隊の成功を受け、本隊の信濃川渡河が開始し奉行所を目指した。この時、新政府軍の放火で下神明町、寺町、古町等500軒の民家が焼け野原となる。苦しい戦況の中で、新潟防衛の総督、色部長門は新潟町放棄を決断。本陣となっていた光林寺前で解散命令を下し、海岸沿いを西に退却させる。午前十時頃、関屋方面では各所で退却中の同盟軍と新政府軍が鉢合わせて戦闘となっていた。その中で色部長門の一隊も平島から新潟へ進んできた新政府軍高鍋隊と遭遇して激しい銃撃戦となる。初めのうちは同盟軍が優位に立っていたが、長州藩の加勢で形勢は逆転。ここで逃げれば米沢藩の名誉にかかわると、敵の大軍に斬り込み壮絶な戦死をとげました。慶応4年(1868)7月29日、久長44歳でした。
この戦いで、新潟町から同盟軍は退却して新政府軍が占領。越後の戦局は大きく進展する事となる。
 新潟市関屋下河原の県立新潟高校の前に立つ徳富蘇峰撰文の「色部長門君追念碑(身ヲ挺シテ新潟警備ノ責ニ任ジ、其安寧秩序ヲ保持)」に、その奮戦の様子が伝えられている。
戊辰戦争の終了後、米沢藩へは藩主斉憲の隠居と4万石の召し上げの処罰が下され、戦争首謀者の調査が命じられた。  苦慮した、米沢藩は、すでに戦死した色部を届け出たため、色部家は罪を負って断絶となったが、米沢藩では処刑者は出なかった。
 昭和38年に米沢市制70周年記念事業の一環として、戊辰戦争で罪を一身に受けて戦死した色部長門久長を顕彰・慰霊する石碑が上杉伯爵邸内に建てられた。
    

墓所
〔所在地〕新潟県新潟市中央区関屋下河原町 念仏寺

色部長門君追念碑
〔所在地〕新潟市中央区関屋下河原町の戊辰公園にある
〔アクセス〕
色部長門追念碑
〔所在地〕山形県米沢市丸の内1丁目3-60


色部長門君追念碑    地図 ストリートビュー(戊辰公園)








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