色部長門 Irobe Nagato 新潟市



色部長門 新潟町征圧作戦 新潟奉行所

正式名 色部久長 文政8年(1825)12月14日〔生〕~慶応4(1868)年7月29日〔没〕

色部氏は米沢藩成立以来の家老職を務めた名門で、家禄1,666石を知行した。久長は受領名の長門守から「色部長門」の名で広く知られる。
文政8年、米沢藩家老・色部篤長の長男として米沢城下に生まれ、幼少より藩校興譲館で学んだ。
嘉永6年(1853)5月29歳で家督を相続する。若い頃から学識と事務能力を認められており、興譲館定詰から、10月異国防御の任に就くため三手組奉行を命ぜられる。
安政6年(1859)9月に侍頭兼江戸家老となる。
元治元年(1864)に奉行(国家老)となる。米沢藩の最高幹部である国家老(奉行)として藩政全般を統括した。
慶応元年(1865)、嗣子上杉茂憲に従い京都に上洛。御所南門警護に当たる。
色部長門は、冷静沈着で実務能力に優れた行政官型の家老だった。剛勇をもって前線で指揮する武将というより、藩政を統括し、藩主を補佐して政策を決定する「政治家」としての性格が強かった。侍頭兼江戸家老、さらに国家老(奉行)へと昇進した経歴は、藩主・上杉茂憲や先代藩主・上杉斉憲から厚い信任を受けていた証拠でもある。
色部長門は急進的な尊王攘夷派でも、佐幕強硬派でもなく、公武合体・藩の存続を最優先する現実主義者だった。米沢藩そのものが上杉家の存続を第一とする現実路線を採っており、長門もその代表的人物であった。

(米沢藩主導による奥羽列藩同盟成立)

慶応4年(1868)閏4月4日、仙台藩家老但木土佐・坂英力、米沢藩家老竹股美作・千坂太郎左衛門連署の「白石会談」の招請状が奥羽諸藩の家老あてに出された。
会談は閏4月11日に開かれ、22日、奥羽25藩の重臣たちが白石で会談し「盟約書」5カ条に調印した。23日、仙台藩・米沢藩・会津藩が主導して実質上の奥羽列藩同盟が成立する。
この後、閏4月29日盟約は8カ条に修正され、5月3日、改正された盟約に基づいて各藩代表が署名し、正式に奥羽列藩同盟が成立し、北越の諸藩に対しても加盟が働き掛けられた。
列藩同盟が正式に成立するに先立ち、仙台藩士玉虫左太夫・若生文十郎によって「軍議書」が起草れている。その中の「北越の処置」では、(一)薩長兵が同盟の忠告を無視して越後へ侵入した場合、米沢兵が越後諸藩と協力して迎え撃ち、庄内もこれに応援する。(二)羽州連合の諸藩も応援出兵する。そして越後口の指揮は米沢藩が取ることが明記されていた。
色部長門は国家老としてこの政策決定に深く関与し、同盟締結後は越後方面への出兵を指揮する立場となった。
閏4月29日、米沢藩は盟約に基づき越後出兵を決定した。5月1日、中条豊前大隊580名が先発隊として初めて越後に入国する。しかし、米沢藩は当時の越後国内の戦況を十分に把握しておらず、作戦行動は慎重で進軍も比較的緩慢であった。
米沢藩は会津藩救援だけを目的としていたわけではなく、新政府軍が奥羽へ侵攻すれば米沢藩自身の存立が危うくなるとの判断から、戦略的な緩衝地帯として越後を確保しようとした。そのため、長門は積極的に北越へ兵を送りながらも、無謀な攻勢ではなく慎重な進軍を選択していた。

(越後口総督)

出兵

5月10日、米沢藩国家老・色部長門(色部久長)は、奥羽列藩同盟軍の越後方面軍を統括する「越後口総督」に任命された。これは、米沢藩が奥羽列藩同盟の越後戦線における中心的役割を担うことになったことを意味する。
米沢藩は、もともと越後を上杉氏の旧領として強く意識しており、戊辰戦争において越後方面を担当することは、単なる軍事上の役割だけではなく、歴史的・政治的な意味も含んでいた。しかし、米沢藩が越後へ兵を派遣した最大の理由は、新政府軍の北進を阻止し、会津藩を中心とする奥羽列藩同盟の防衛線を維持することにあった。
出兵に際して米沢藩が掲げた名目は、「越後には大藩が存在せず、国内には不逞の者が流入して治安が乱れ、領民が苦しんでいる。しかし、これを取り締まる勢力がないため、旧越後支配者である上杉家の後継藩として米沢藩が鎮撫にあたる」というものであった。
これは、薩長を中心とする新政府軍への対抗を露骨に示すものではなく、越後国内の秩序回復という大義名分を掲げることで、米沢藩が単なる反政府勢力ではないことを示そうとしたものであった。ここには、色部長門をはじめとする米沢藩重臣の慎重な外交姿勢が表れている。
5月13日、色部長門は参謀甘糟備後、大井田修平率いる御馬廻大隊約600名を率いて米沢を出発し、越後へ向かった。色部にとって今回の出兵は、単なる軍事遠征ではなく、奥羽諸藩との協調を維持しながら、米沢藩が戦争の渦中に巻き込まれることをいかに防ぐかという極めて難しい政治判断を伴うものであった。

新津を拠点とした越後戦略

5月14日、先発していた中条豊前隊と本隊は中条で合流した。17日には一隊を会津藩本営のある水原に進め、市島徳次郎家を軍議所に定め、会津藩西郷重左衛門、軍務係秋月悌二郎、庄内藩石原多門らと軍議した。本隊は水原から新津に向かい、5月18日、新津を宿営地とし町内の宿に分宿した。 色部が新津町の何処に宿泊したか判然としないが、新津の大庄屋桂家に宿泊したとされている。
新津を本営とした理由は、軍事的・政治的な条件が整っていたためである。第一に、新津は新発田藩領に隣接し、新政府寄りの姿勢を示していた新発田藩の動向を監視するうえで重要な位置にあった。新発田藩が新政府側に転じれば、越後北部から新潟方面への進出を許すことになるため、米沢藩にとって警戒すべき存在であった。第二に、新津は阿賀野川水運と会津方面への交通路を押さえる要衝であり、会津藩との連絡にも適していた。
第三に、新津は戦国時代以来、上杉氏と深い関係を持つ土地であった。かつて新津氏は上杉景勝に仕えた武将であり、当主新津続宗も上杉家への忠節を示して越後出兵に従軍し、長岡方面で戦死している。色部にとって新津滞陣は、単なる軍事拠点ではなく、上杉家旧領越後に入ったという象徴的意味も持っていた。

長岡城落城と色部の苦悩

5月19日、色部は体調不良のため新津に残留した。その間、参謀甘糟備後は一小隊を率いて村松城方面へ向かった。
甘糟は村松で、長岡城が新政府軍によって落城したという重大な情報を得た。長岡藩は越後における奥羽列藩同盟側の有力藩であり、その敗北は越後戦線全体の情勢を大きく変えるものであった。
甘糟は急いで新津へ戻り、色部へ報告した。長岡城落城の知らせを聞いた色部は大きな衝撃を受けたという。これは単なる一城の陥落ではなく、米沢藩が想定していた越後戦略そのものが崩れ始めたことを意味していた。
この時、中条豊前は桑名藩領の加茂に向かいそこで長岡城の落城を聞いている。
米沢藩は越後戦線について十分な情報を得ておらず、兵力配置や新政府軍の進撃速度を正確に把握できていなかった。そのため、色部は戦局の急変に直面し、慎重な判断を迫られることとなった。

若林作兵衛との意見対立

米沢藩中老若林作兵衛が色部に同行していた。若林は、列藩同盟の結成時から、米沢藩が戦いに巻き込まれるを危惧して、会津藩・新発田藩・仙台藩との交渉にも出向いた。越後口での戦闘が避けられない状況となると、急進派の若手と対立した。若林が藩の長老格として、藩政の中枢にいたことから藩主もこれを無視できなかった。長岡城落城の知らせを受けた若林は、色部総督に早く帰国することを勧めた。しかし色部は加茂に進軍した諸藩兵を棄てて退くことはできないとして承知せず、正当な理由もなく帰国すれば諸藩の嘲笑を買い、御家の武名を汚す説いた。色部は、「すでに諸藩とともに軍を進めた以上、途中で兵を捨てて帰国することはできない。正当な理由なく撤退すれば、諸藩から嘲笑され、米沢藩の武名を汚すことになる」という考えを示した。ここに色部の武士的責任感を見ることができる。彼は戦争拡大を望んでいたわけではない。しかし、一度結んだ盟約と出兵の責任を軽視することもできなかったのである。
若林は納得せず、加茂の本陣にも出向いたが、参謀たちからも相手にされず、5月24日には米沢に戻り重臣会議を開いたとされる。また帰路途中、下関渡辺家に保管している鉄砲・弾薬を米沢に戻すよう命じている。加茂の米沢藩本陣も動揺したが、軍議での取り決めに従ってすでに三条に向かって進軍していた。

加茂軍議と色部の穏健姿勢

5月22日、色部は新津の宿舎に残ったが、本陣を桑名藩預り領加茂町の庄屋市川家に移した。加茂に向かった中条と甘糟から連絡を受け指示を与えていた。2人は加茂本陣に到着すると、同地に集合していた会津藩・桑名藩・長岡藩・村松藩・村上藩等の列藩同盟軍幹部達と加茂軍議に出席する。この席上、米沢藩の中条豊前を列藩同盟総督とするよう他藩から要請された。しかし、米沢藩はこれを辞退した。その理由は、米沢藩は会津藩・庄内藩の謝罪嘆願を新政府へ仲介する立場であり、自らが全面的に戦争を主導する立場ではないという考えであった。
これは色部長門の政治姿勢とも一致していた。色部は奥羽列藩同盟に参加しながらも、新政府との完全な決裂を避ける余地を残そうとしていた。そのため、米沢藩内では穏健派と見られていた。

新潟町統治の委任

色部長門が越後で果たした役割は、軍事指揮だけではなかった。越後口総督として、新潟町の行政をも担うことになる。
新潟は幕府直轄領であり、新潟奉行所が町政を担当していた。しかし、新潟奉行白石千別は大政奉還後に江戸へ退去したため、奉行所は組頭田中廉太郎や松長長三郎らが実務を執っていた。
慶応4年3月、北陸道先鋒軍が高田へ進駐すると、新潟・佐渡奉行所に対して行政資料の提出を命じ、新潟は名目上新政府の支配下に入った。しかし、新政府は会津・越後戦線への対応で手一杯であり、新潟へ実際に行政機構を置くだけの余力はなかった。そのため、新潟奉行所が従来どおり町政を維持する状態が続いた。
ところが、越後各地で戦乱が激化すると奉行所には治安維持能力がなくなった。4月1日には会津藩の支援を受けた衝鋒隊、続いて7日には同じく会津藩の援助を受けた水戸脱走軍が新潟へ進駐し、市中では略奪や暴行が相次ぎ、町民は極度の不安に陥った。軍事力を持たない奉行所ではもはや秩序を維持できないと判断した田中廉太郎や松長長三郎らは、越後へ進出していた米沢藩へ統治を委ねる決断を下した。その背景には、米沢藩が奥羽列藩同盟の中心勢力であったことに加え、上杉家がかつて越後を治めた名門として越後の人々からなお厚い信望を受けていたことがあった。
米沢藩と奉行所との最初の接触は4月21日、色部長門と奉行所役人増田勝八郎との会見であった。その後、5月28日に色部は本隊と別れて新潟町へ向かい、翌29日には奉行所で田中廉太郎と正式に会談した。この会談で、新潟町の治安維持と行政運営は奉行所から米沢藩へ委ねられ、色部長門は軍事のみならず新潟町の事実上の統治責任者となった。

指揮権を千坂太郎左衛門へ譲る

5月28日、米沢藩家老千坂太郎左衛門が藩主命令を受けて越後戦線へ到着し、色部と会談した。千坂は軍事指揮に優れた人物であり、越後戦線における米沢軍の実戦指揮を担うことになった。色部は速やかに米沢軍の総指揮権を千坂へ譲った。
これは色部が軍事的能力を欠いていたためではなく、自らの役割を政治・外交面に置き、戦場指揮については専門家へ委ねるという合理的判断であった。
千坂は会津で軍事顧問ヘンリー・スネルと知り合い、越後口米沢軍の軍事顧問として招いた。スネルは新潟町へ入り、同盟軍の近代的軍事運用に関与することとなる。

(新潟町の統治)

列藩同盟による新潟港共同統治

色部が600名の米沢藩兵を率いて新潟町へ入城した6月1日、薩摩藩軍艦「乾行」と長州藩軍艦「丁卯」の二隻が新潟沖へ姿を現した。両艦は港口周辺で沿岸測量や水深調査を実施した後、新潟奉行所組頭田中廉太郎に対し、艦上へ赴いて協議するよう求めた。
しかし田中は、「新潟町の行政はすでに米沢藩へ引き継いでおり、自分には応対する権限がない」として乗艦を拒否した。これは、新潟町の統治権が事実上米沢藩へ移ったことを新政府側へ示す意思表示でもあった。
この報告を受けた色部長門は、ただちに米沢藩兵と会津藩兵を海岸一帯へ展開させ、防備を固めた。幸い、この日は両軍艦も偵察任務を終えると沖合へ退き、武力衝突には至らなかった。しかし、新政府軍艦が目前まで来航したことで、町民の間には「近く新潟で戦争が始まるのではないか」との不安が急速に広がった。
この出来事は、色部長門が越後口総督として初めて新政府軍と直接対峙した事例であり、新潟港が日本海側最大の軍事・兵站拠点として双方から極めて重要視されていたことを示している。また、色部は軽率に交戦することなく防備を固め、相手の動向を見極める姿勢をとっており、その慎重かつ現実的な指揮ぶりは、その後の新潟防衛戦にも一貫して見られる特徴であった。
6月10日、色部長門は仙台・会津・庄内・村上・二本松・新発田各藩の重臣を新潟へ招集し、今後の新潟港の統治について協議を行った。その結果、新潟港は一藩の支配ではなく、奥羽越列藩同盟諸藩による合議制によって共同統治することが決定された。
新潟港は日本海有数の貿易港であり、外国船の寄港地として軍需物資や生活物資の流通を担う重要拠点であった。そのため、公平な合議制による運営は、各藩の利害を調整するとともに、同盟全体の結束を維持するうえでも重要な意味を持っていた。

新潟町における米沢藩への信頼

新潟町の住民は、同盟諸藩の中でも特に米沢藩に対して好意的な感情を抱いていたと伝えられる。米沢藩士は当時の様子について、
「越後の人民は会津を悪く嫌うことが甚だしく、あたかも仇敵のようだ。米沢藩を慕う心はあるが、会津藩と一緒になると我が藩に味方しない」と記している。
これは、会津藩が京都守護職として新政府から「朝敵」と見なされていたことに加え、その影響が越後の住民感情にも及んでいたことを示している。一方で、米沢藩は早くから和平交渉を模索していたこともあり、比較的穏健な藩として受け止められていた。

見附軍議と同盟軍指揮体制の再編

6月13日、会津藩の佐川官兵衛、米沢藩の千坂太郎左衛門、長岡藩の河井継之助、村松藩の堀右衛門三郎ら列藩同盟の主要指導者が見附に集まり、今後の軍事行動について軍議を開いた。
この席で、空席となっていた越後口副総督には米沢藩国家老・千坂太郎左衛門が就任し、参謀には甘粕備後が任命された。これにより、列藩同盟諸藩の兵力を統一して指揮する体制が整備されることとなった。
千坂は米沢藩国家老千坂家の出身で、藩政改革や軍制改革を推進した実務家として知られ、優れた政治力と軍事的手腕を兼ね備えた人物であった。

米沢藩の主戦論への転換

米沢藩は、会津藩とは異なり外様大名であったため、新政府との全面対決を望まず、当初は会津藩の謝罪による和平成立を目指していた。しかし、新政府はこれを受け入れず、さらに長岡城の落城など戦況が悪化したことで、和平による解決は事実上不可能となった。このため藩論は次第に主戦論へと傾き、米沢藩は国家老・千坂太郎左衛門を越後口副総督として、約二百名の兵を率いて越後へ追加派遣して、戦局の立て直しを図っていた。

新潟周辺における列藩同盟軍の配置

当時、新潟周辺には列藩同盟各藩の兵力が集結していた。沼垂には新発田藩兵約二百名、新潟町には仙台藩兵約百五十名、会津藩兵約二百名、米沢藩兵約六百名、庄内藩兵約二百名が配置され、それぞれ港湾防衛や市街地警備、後方支援を担当していたと伝えられている。
色部長門は総督として光林寺の本陣にとどまり、各藩の軍事行動を統括したが、自ら前線に出て諸隊を直接指揮することは少なかったという。これは、新潟港の管理と列藩同盟諸藩との調整という重要な任務を担っていたためであり、色部の役割は戦場での指揮官というよりも、新潟町の行政と兵站を統括する総責任者であったと考えられる。
新潟港は、長岡藩など同盟軍側の重要な軍需物資の供給源であり、会津藩は軍需物資や民生用諸物資の補給を新潟港に頼っていた。長岡を中心とする越後平野に展開された北越戦争は、長岡城を占領されたといいながら同盟軍側が有利のまま膠着状態になっていた。この同盟側の頑強な抵抗を支えていたものが新潟港から入ってくる外国の武器弾薬であったのである。
色部は、諸藩を代表して米沢藩を窓口として、エドワルド・スネル商会から武器調達を行った。また色部は越後国内の情勢の情報収集を行っていた。また、新たに新潟防衛のため、エドワルドの兄ヘンリーから指導を受けて砲台を数か所設置した。

(新潟町征圧作戦)

慶応4年(1868)7月、越後戦線は長岡城をめぐる攻防が続き、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍は一進一退の戦いを繰り返していた。長岡城は一度新政府軍の手に落ちたものの、同盟軍の反撃によって、戦線は膠着状態に陥った。この状況を打開するため、会津征討越後口総督府参謀の長州藩士山田市之丞は、新潟港を攻略して同盟軍の補給路を断つ「衝背作戦」を立案した。新潟港は日本海側最大の港湾であり、庄内・北海道方面から運ばれる兵糧、武器、弾薬、軍資金が集積され、信濃川舟運によって長岡・与板方面の前線へ送られる同盟軍最大の兵站基地となっていた。新潟港を失えば、越後戦線全体の補給が途絶え、同盟軍の戦力は急速に低下すると判断されたため、この作戦は総督府に採用された。
7月25日午前8時、新政府軍は黒田清隆の指揮のもと、薩摩・長州両藩兵を主力とする上陸部隊を新潟町東方約10キロの太夫浜へ上陸させた。海上では軍艦が上陸作戦を援護し、陸上部隊は橋頭堡を確保しながら新潟町へ向けて進撃した。これに対し、新潟町では越後口総督の米沢藩国家老色部長門が直ちに各藩へ出動を命じ、新潟会議所に集まっていた米沢・会津・庄内・桑名・村松などの諸藩兵を信濃川沿岸や町の要所へ配置した。色部は新潟町の軍政と行政を統括する立場から、各藩の兵力配置を調整するとともに、港湾施設の警備や住民の避難、火災への警戒などにもあたり、新潟港を守るための防衛体制を整えた。
翌26日夜、新政府軍は信濃川を挟んで本格的な攻撃を開始した。両軍は大砲や小銃による激しい砲撃戦を展開し、夜を徹して銃声と砲声が町中に響き渡った。戦闘は27日、28日にも続き、新政府軍は艦砲射撃の支援を受けながら渡河の機会をうかがい、同盟軍は信濃川を天然の防御線として必死にこれを阻止した。色部長門は本営で指揮を執るだけでなく、自ら各陣地を巡視して兵を督励し、各藩との連絡調整を行いながら防衛線の維持に努めた。しかし、新政府軍は海陸から兵力を集中して徐々に同盟軍を圧迫し、市街地への進出を進めた。補給や兵力で優位に立つ新政府軍に対し、防戦一方となった同盟軍は次第に劣勢となった。

(新潟町放棄と色部の戦死)

新潟町放棄と色部長門の決断

慶応4年(1868)7月29日未明、新政府軍は新潟町攻略の総仕上げとして大規模な攻勢に出た。まず陽動隊が信濃川上流で密かに渡河し、関屋金鉢山付近を守備していた奥羽越列藩同盟軍の側面を急襲した。同盟軍は背後を突かれたことで陣形が乱れ、各隊の連絡も途絶えて混乱状態に陥った。新政府軍は金鉢山を占領して本陣を設置し、ここを拠点に新潟町への総攻撃を開始した。
一方、陽動隊の成功を確認した新政府軍本隊は、広い信濃川を渡河して奉行所方面へ進撃した。当時の信濃川は現在よりはるかに川幅が広く、渡河は容易ではなかったが、海上からの支援も受けた新政府軍は着実に橋頭堡を築き、防衛線を突破していった。
この頃の新潟町には、前線へ派遣されていた兵力の多くが各地へ展開していたため、守備兵は米沢藩約300名、会津藩約50名、その他諸藩兵約50名ほどしか残っていなかったとされる。圧倒的な兵力差のなかで各所の防衛線は次第に崩れ始め、退却する同盟軍兵士の一部が敵の進撃を阻止する目的で市街地に放火したため、下神明町・寺町・古町など約500戸が焼失する大火となった。
侵攻する新政府軍の勢力に押されて敗色濃く、また逃亡兵も多く、自軍の戦闘力の低下を見る苦しい戦況の中で、越後口総督として新潟防衛の全責任を負っていた色部長門は、もはや町を保持することは不可能であり、このまま市街戦を続ければ町民の犠牲がさらに増えると判断した。色部は、新潟奉行所から「町を守ってほしい」と正式に統治を委ねられた経緯を重く受け止めており、戦術上やむを得ない焼き討ち以上に戦火を拡大させることは、自らの本意ではないと考えていた。そのため、新潟町を放棄し、これ以上の戦闘を避けるという苦渋の決断を下したのである。

光林寺での最後の命令

7月29日早朝、色部は本陣の置かれていた光林寺前の橋に全軍を集結させた。そこで残された兵糧を兵士たちへ公平に分配し、一人につき握り飯二つと二朱金二枚を与えたうえで、「各隊を解散し、それぞれの才覚によって帰藩せよ」と命じた。
この命令は敗走ではなく、これ以上無益な戦闘によって兵を失うことを避け、藩兵を一人でも多く米沢へ帰還させるための措置であった。しかし、色部の人格を慕う米沢藩兵の中には、この命令に従わず最後まで新潟に残って戦い続けた者も少なくなかったという。

関屋金鉢山での最期

午前10時頃、関屋金鉢山周辺では退却する同盟軍と進撃する新政府軍が各所で遭遇し、激しい戦闘が続いていた。
色部長門と手兵20数名の一隊も、案内人に導かれ、寺通り裏の松林の中を進み、現在の学校町にある菅原神社の裏手へ出て現在の県立商業高校下手から五十嵐浜への道をたどったが、案内人の誤りから新政府軍本陣のある関屋金鉢山へ通ずる道に入ってしまった。
そこで色部隊は、新潟町へ向かって進軍中の新政府軍高鍋藩隊約五十名と鉢合わせした。当初、新政府軍は色部隊を敗走する一隊と判断し、戦闘を避けるため空砲を放って退去を促したという。
案内人も退却を勧めたが、色部は「敵に後ろを見せることは米沢武士の恥である」として応戦を命じた。たちまち激しい銃撃戦となり、当初は地形を利用した色部隊が優勢に戦った。しかし長州藩兵の援軍が到着すると戦況は逆転し、同盟軍は次第に押し込まれた。
色部は、かつてオランダ人軍事顧問エドワード・スネルから購入したピストルを撃ち尽くすと、刀を抜いて白兵戦に加わった。しかし、新政府軍の一斉射撃を受け、胸部に銃弾を受けて重傷を負い、ついに倒れた。

切腹と首級の秘匿

家臣たちは負傷した色部を抱え、近くのナス畑まで退いた。現在の戊辰公園付近と伝えられるその場所で、色部は「敵に首を獲らせるな」と命じ、自ら切腹した。用人浦戸儀左衛門が介錯して首を落とし、従士五十嵐源次郎に託した。
浦戸はそのまま敵中へ突撃したが、銃撃を受けて戦死した。慶応4年7月29日、色部久長、四十四歳であった。

色部長門の首を守った人々

五十嵐源次郎は色部の首を抱えて逃走したが、重さのため思うように進めず、途中で念仏寺境内の藪へ隠した後、自らは川へ飛び込んで難を逃れた。
その様子を見ていた念仏寺の僧は、関屋村庄屋斎藤金衛へ事情を伝えた。当時、新政府軍は同盟軍へ協力した村々へ放火を繰り返しており、斎藤も危険を承知で色部の首を引き取った。首は一斗樽へ納めて床下に隠し、その後は瓶へ移して塩漬けにし、寺の須弥壇下へ安置して毎日供養を続けた。
関屋や新潟町の人々には、旧領主であった上杉家への親近感が強く、同盟軍というより「上杉家のために尽くしたい」という思いから危険を冒して遺骸を守ったと伝えられている。
戦乱終結後、斎藤金衛は米沢の色部家へ密かに知らせ、11月になって遺族が新潟を訪れ、首級は米沢へ帰された。一方、戦場に残された胴体は村人によって念仏寺へ仮埋葬され、その後、米沢藩本陣のあった光林寺墓地へ改葬された。

色部戦死後の米沢藩と戦後処理

7月29日、長岡城が再び新政府軍の手に落ち、さらに色部長門戦死の報が越後方面軍総督千坂高雅へ届くと、千坂は戦線維持は不可能と判断し、米沢藩全軍へ越後からの撤退を命じた。藩兵は新発田藩領を避け、八十里越を経て会津へ入り、米沢へ帰還した。
戦後、新政府は米沢藩を朝敵として四万石を減封し、戦争責任者の提出を命じた。藩主上杉斉憲は家督を茂憲へ譲って隠居するとともに、奥羽越列藩同盟の中心人物であった千坂高雅を救うため、すでに戦死していた色部長門を戦争責任者として届け出た。この措置により、米沢藩から新たな処刑者を出すことは避けられた。
千坂は、仙台藩などと共に奥羽列藩同盟の成立に尽力し、会津藩の軍議にも参加し、越後で戦端が開かれると同盟の総督として、戦線を指揮してきた。本来であれば死罪となっても不思議ではなかったが、そうならなかったのは、戦後処理に薩摩の西郷の意向が働いていたといわれる。西郷は、藩の体制が、戦争責任の追及によって根本から弱体化することは、諸外国に対峙する国力の低下にもつながり好まなかったといわれる。
長州の大村益次郎が主導した、仙台藩に対する戦争責任の追及が苛烈を極めたのとは対照的であった。
穏健派として知られた色部長門が、結果として藩の戦争責任を一身に背負うことになったのは、歴史の大きな皮肉であった。

色部家の再興と顕彰

色部家は戦後、一時家名断絶となったが、明治16年(1883)に再興が許され、長男康長が家督を継いだ。
昭和7年(1932)には、色部を救おうとした関屋村斎藤家を中心に、戦死地近くへ追念碑が建立された。また、米沢市にも顕彰碑が建てられ、色部長門は藩のため、そして新潟町の人々を守るために命を捧げた国家老として、現在まで顕彰され続けている。



(内野村庄屋渡部三郎兵衛の農兵隊)

慶応4年(1868)、戊辰戦争の戦火が越後へ及ぶと、新潟郊外の内野村(現在の新潟市西区)の庄屋渡部三郎兵衛は、郷土を戦乱から守るため、自ら農兵隊を組織した。当時の越後では、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍の対立が激化し、各地で戦闘が続いていたが、正規の藩兵だけでは広大な地域の警備や防衛を担うことは難しく、各地で有力農民や庄屋が中心となって自衛組織を結成していた。
渡部は会津藩からの要請を受け、慶応4年4月5日、内野村や周辺の村々の有力農家の子弟、自家の奉公人など四十数名を集めて農兵隊を結成した。隊員は農民でありながら銃や槍の訓練を受け、地域防衛だけでなく奥羽越列藩同盟軍の支援にも従事した。当初は会津藩の指揮下で活動していたが、同盟軍の指揮系統を統一する必要から、越後口総督として新潟町の軍政を統括していた米沢藩国家老色部長門との接触が図られた。
6月21日、渡部三郎兵衛は新潟に滞在していた色部長門を訪ね、自分たち農兵隊を正式に米沢藩へ召し抱えてほしいと願い出た。色部は、渡部らが郷土防衛のため自発的に立ち上がったことを高く評価し、その申し出を快く受け入れた。そして農兵隊を米沢藩所属の部隊として編入するとともに、自ら「精義隊」の隊名を与えた。「精義」とは義を尽くし、志を貫くという意味が込められており、色部の期待と信頼がうかがえる命名であった。
精義隊は米沢藩から兵糧や手当金の支給を受ける正式な協力部隊となり、各地の警備や連絡任務に従事した。7月27日には新潟町へ入り、会津藩兵や米沢藩兵とともに町の防備に就き、新政府軍の総攻撃に備えた。当時、新潟町は色部長門が新潟会議所を設け、米沢・会津・庄内など奥羽越列藩同盟諸藩の軍政と行政を統括する拠点となっており、精義隊もその指揮下で重要な戦力として配置されていた。
しかし、7月29日に新政府軍が総攻撃を開始すると、新潟町は激戦の末に陥落した。色部長門は町民への被害拡大を避けるため新潟町放棄を決断し、自らは関屋金鉢山付近で戦死した。精義隊は色部の命令に従って退却する米沢藩兵と行動をともにし、新発田藩領を避けながら八十里越を経て会津へ向かい、8月9日に米沢へ到着した。その後も解散することなく、米沢藩軍の一員として行動を続け、米沢藩降伏後は新政府軍に編入され、皮肉にも今度は旧主であった会津藩征討に従軍することとなった。長い戦役を終え、隊員たちが内野村へ帰還したのは11月であった。
渡部三郎兵衛と精義隊は、藩士ではなく農民でありながら郷土防衛のために立ち上がり、色部長門の信任を得て米沢藩の一隊として戦った特異な存在である。その功績は現在も内野の清徳寺に建立された「義勇碑」に刻まれ、戊辰戦争における地域住民の献身と、色部長門との深い結び付きを伝えている。※地図

(エドワルド・スネル)

エドワルド・スネル(Edward Snell、1842~1880)は、オランダ出身の貿易商・外交官代理で、幕末の日本において武器・弾薬の輸入販売を行った外国商人である。若くして来日し、横浜を拠点に欧米製の銃器や軍需品を取り扱う商社を経営する一方、オランダ領事からオランダ・スイス・デンマーク三国の副領事代理に任命され、外交官としても活動した。幕末には国内情勢の緊迫化に伴って各藩の洋式兵器需要が急速に高まり、スネルはその需要に応える有力な武器商人として知られるようになった。
慶応4年(1868)5月12日、横浜から蒸気船に銃器や弾薬などの軍需物資を積み込み、新潟港へ向かい、5月17日に新潟町へ到着した。当時26歳であったスネルは、外国人居留地のない新潟で三国の副領事代理として活動しながら、武器や西洋雑貨の販売を開始した。住居兼営業所には西堀通八番町の勝楽寺を用い、寺院に三国の国旗を掲げて商館を開設した。荷揚げした商品は当初、勝楽寺本堂に保管していたが、軍需品の取引が急増したため、6月上旬には片原通四ノ町(現在の東堀通七番町)の豪商小川屋喜兵衛宅を借り受け、住居と倉庫を移して営業を拡大した。
この頃、新潟町には越後口総督を務める米沢藩国家老色部長門が進駐し、新潟奉行所から町政と治安維持を引き継いでいた。新潟港は奥羽越列藩同盟最大の兵站基地であり、海外から輸入される武器・弾薬は越後戦線の命運を左右する重要な物資であった。色部はスネル商会との交渉窓口となり、各藩への武器調達や代金決済、輸送の調整を一元的に担当した。スネルが扱ったのはミニエー銃、エンフィールド銃、回転式拳銃、火薬、雷管、弾薬など最新の洋式兵器で、米沢藩をはじめ会津藩、庄内藩、桑名藩など奥羽越列藩同盟諸藩へ供給された。庄内藩が一万三千ドル余りの手付金を支払い、大量購入を計画していた記録も残されているが、新潟陥落によって契約は実現しなかった。
色部長門自身もスネルと親交を結び、西洋兵器の価値を高く評価していた。関屋金鉢山での最後の戦いでは、スネルから購入したと伝えられる回転式拳銃を携えて指揮を執り、弾薬を撃ち尽くした後は刀を抜いて白兵戦に臨んだという。この逸話は、両者の関係の深さと、米沢藩が近代兵器の導入に積極的であったことを示している。
しかし、慶応4年7月29日に新政府軍が新潟町を制圧すると、スネルは新潟港で新たな武器の陸揚げ作業中に拘束された。これにより奥羽越列藩同盟の海外からの武器補給路は完全に断たれ、越後戦線は大きな打撃を受けた。その後スネルは釈放されて横浜へ戻り、引き続き貿易業に従事したが、1880年に38歳で死去した。外国商人でありながら戊辰戦争に深く関与したスネルは、日本の近代兵器導入と国際貿易、さらに米沢藩や色部長門との協力を通じて、幕末史に重要な足跡を残した人物である。




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