色部長門 Irobe Nagato 新潟市



色部長門 新潟町征圧作戦 新潟奉行所

正式名 色部久長 1826(文政8)年12月14日〔生〕~1868(慶応4)年7月29日〔没〕

米沢藩の家老。家禄1600石。受領名が長門守であったことから色部長門の名で知られている。
幼少より藩校興譲館に学び、嘉永6年(1853)に家督を相続し、安政6年(1859)に侍頭兼江戸家老となる。元治元年(1864)に奉行(国家老)となる。慶応元年(1865)、上杉茂憲に従い京都に上洛。御所南門警護に当たる。

(米沢藩主導による奥羽列藩同盟成立)

慶応4年(1868)閏4月4日、仙台藩家老但木土佐・坂英力、米沢藩家老竹股美作・千坂太郎左衛門連署の「白石会談」の招請状が奥羽諸藩の家老あてに出された。
会談は閏4月11日に開かれ、22日、奥羽25藩の重臣たちが白石で会談し「盟約書」5カ条に調印した。23日、仙台藩・米沢藩・会津藩が主導して実質上の奥羽列藩同盟が成立する。
この後、閏4月29日盟約は8カ条に修正され、5月3日、改正された盟約に基づいて各藩代表が署名し、正式に奥羽列藩同盟が成立し、北越の諸藩に対しても加盟が働き掛けられた。
列藩同盟が正式に成立するに先立ち、仙台藩士玉虫左太夫・若生文十郎によって「軍議書」が起草れている。その中の「北越の処置」では、(一)薩長兵が同盟の忠告を無視して越後へ侵入した場合、米沢兵が越後諸藩と協力して迎え撃ち、庄内もこれに応援する。(二)羽州連合の諸藩も応援出兵する。そして越後口の指揮は米沢藩が取ることが明記されていた。
閏4月29日、米沢藩は盟約に基づき越後出兵を決定した。5月1日、中条豊前大隊580名が先発隊として初めて越後に入国する。米沢藩は越後国内の戦況に疎く、動きは緩慢であった。

(越後口総督)

5月10日、越後方面の越後口総督として色部長門が任命され、5月13日、色部長門、参謀甘糟備後と大井田修平御馬廻大隊600名の本隊の越後出兵が行われる。「越後には大藩がないことから、不逞の輩が国内に流入し、領民は大いに苦しんでいるが、これを取り締まる力がない。米沢藩に対しては、かつての旧領越後鎮撫のため出兵してほしいという依頼が、越後各藩から届いている」という口実での出兵であった。
5月14日、先発隊と本隊は中条で合流、17日には一隊を会津藩本営のある水原に進め、市島徳次郎家を軍議所に定め、会津藩西郷重左衛門、軍務係秋月悌二郎、庄内藩石原多門らと軍議した。本隊は水原から新津に向かい、5月18日、新津を宿営地とし町内の宿に分宿した。 色部が新津町の何処に宿泊したか判然としないが、新津の大庄屋桂家に宿泊したとされている。(※地図 ※ストリートビュー)
新津は新発田藩の領地であり、奥羽列藩同盟と一線を画する新発田藩を監視する意味もあった。また、戦国時代には、上杉景勝に仕えた新津氏の城があったところであり、上杉氏にとってはゆかりの地であった。当時の当主新津続宗は上杉氏に仕え、越後出兵に従軍し長岡で戦死している。色部は、米沢藩各隊との連絡や、打ち合わせは、新津の宿営で行っている。
5月19日、色部は体調がすぐれず新津で滞陣したが、参謀甘粕が一小隊を率いて村松城に向かう。甘粕は村松で長岡城の落城と、同盟軍側の周章狼狽ぶりを聞いた。甘糟は早駕籠を飛ばし新津の色部に急報している。一方、中条豊前は桑名藩領の加茂に向かいそこで長岡城の落城を聞いている。
米沢藩中老若林作兵衛が色部に同行していた。若林は、列藩同盟の結成時から、米沢藩が戦いに巻き込まれるを危惧して、会津藩・新発田藩・仙台藩との交渉にも出向いた。越後口での戦闘が避けられない状況となると、急進派の若手と対立した。若林が藩の長老格として、藩政の中枢にいたことから藩主もこれを無視できなかった。
長岡城落城の知らせを受けた若林は、色部総督に早く帰国することを勧めた。しかし色部は加茂に進軍した諸藩兵を棄てて退くことはできないとして承知せず、正当な理由もなく帰国すれば諸藩の嘲笑を買い、御家の武名を汚す説いた。
若林は納得せず、加茂の本陣にも出向いたが、参謀たちからも相手にされず、5月24日には米沢に戻り重臣会議を開いたとされる。また帰路途中、下関渡辺家に保管している鉄砲・弾薬を米沢に戻すよう命じている。加茂の米沢藩本陣も動揺したが、軍議での取り決めに従ってすでに三条に向かって進軍していた。

5月22日、色部は新津の宿舎に残ったが、本陣を桑名藩預り領加茂町の庄屋市川家に移した。(※地図 ※ストリートビュー)加茂に向かった中条と甘糟から連絡を受け指示を与えていた。2人は加茂本陣に到着すると、同地に集合していた会津藩・桑名藩・長岡藩・村松藩・村上藩等の列藩同盟軍幹部達と加茂軍議に出席する。この席上、米沢藩の中条豊前を列藩同盟総督とするよう他藩から要請されたが、これを断っている。朝敵に名指しされたのは会津・庄内藩であり、自藩は、両藩の謝罪嘆願を新政府に斡旋する立場であるというのが理由であった。色部の考えもこれに準じていて、米沢藩では穏健派と見られていた。藩が追加派兵を決めた時も消極的意見を具申したという。
5月28日、家老千坂太郎左衛門が、越後口の指揮を執るよう、藩主から命じられ、早馬で大面に到着した。色部は米沢軍の総指揮権を千坂に渡した。また千坂は越後に入る前に会津で軍議に参加しており、この場で会津藩の軍事顧問をしていたヘンリー・スネルを知り、越後口米沢軍の軍事顧問となるよう要請、ヘンリーはそれに応えて新潟町に入る。

(新発田城攻撃)

新発田藩は同盟に参加しながら兵を送らず、米沢藩が要求した藩主又は前藩主静山公が下関本陣の米沢藩主を訪問することについては、農民たちの妨害にあって実現できずにいた。
6月8日、新発田藩攻撃の為、米沢・庄内の藩士485人が、新発田藩領沼垂町に滞陣した際に、町民4、000人に取り囲まれる騒動が起きた。新潟町から米沢藩兵が派遣され、沼垂の町役人が説得して騒動は収まった。
6月9日、しびれを切らした米沢藩は、五十公野に集結した米沢藩兵を先鋒に、仙台、会津、上ノ山、庄内、村上等の諸藩兵を動員して新発田城を四方より囲み、大砲を城に向け、攻撃寸前の状況となった。
この時、色部長門は新発田攻略には不賛成を表明している。長岡方面で戦争中、たとえ新発田城を攻めとっても、領民と新発田藩士がいっしょになってゲリラ戦を起こすことが予想され、前後二方面に戦っては不利であり、いずれ長岡方面の戦いが、同盟軍の勝利となった暁に攻略しても遅くないとした。
6月11日になって新発田藩が出兵に応じたため包囲は解除された。

(新潟町の統治)

6月1日、新潟奉行代理の田中廉太郎が新津に滞陣する色部のもとを訪れ、奉行所の力ではとうてい治安の維持に自信が持てないとしてに色部へ新潟港の管理を委任してきた。
6月10日、色部長門は、仙台、会津、庄内、村上、二本松、新発田諸藩の重臣会議を招集し、列藩同盟の合議制で新潟港を統治することにした。
新潟町の人々も米沢藩には好意的であった。米沢藩士は「越後の人民は会津を悪く嫌うことが甚だしく、あたかも仇敵のようだ。米沢藩を慕う心はあるが、会津藩と一緒になると我が藩に味方しない」と感想を述べている。
6月13日に会津藩佐川官兵衛、米沢藩千坂太郎左衛門、長岡藩の河井継之助、村松藩の堀右衛門三郎らが見附に集まり、軍議が開かれた。
この席上、同盟軍で空席となっている総督に千坂太郎左衛門、また参謀に甘粕備後を決め同盟諸藩兵を統一して指揮させることに決定した。千坂は米沢藩の国家老の家柄で、藩の軍制改革を実行した英才であった。
外様の米沢藩は親藩の会津藩とはもともと立場が違い、新政府に対し、会津藩から謝罪させる為の止戦を求めていたが、薩長はこれに応じず、長岡城が落城するなど、もはや戦争によって新政府から譲歩を求めるしか道がない状況となった。米沢藩は、国家老の千坂を越後口副総督として、兵200名とともに追加派遣していた。
米沢藩の藩論が強硬な主戦論に傾いたことから、越後口総督色部長門は、同盟軍の指揮を、当時28歳の千坂に任せ、自分は600名の藩兵とともに新潟町総督となって赴任した。
色部は本陣を新潟市にある西堀の光林寺に置き、戦略上の要地である新潟港の管理にあたる一方、新潟町の治安の維持に努めた。
当時新潟付近の同盟軍勢力は、沼垂に新発田藩兵約200名、新潟には仙台藩兵150名、会津藩兵200名、米沢藩約600名、庄内藩兵約200名がいたといわれている。色部は、本陣に籠り、外に出て諸隊の指揮を直接行うことはなかったという。

(当時の新潟町)

新潟町は幕府の直轄領であったため、新政府に没収された。しかし新政府の支配が新潟まで及んでいなかったため、無政府状態になることをおそれ、奉行所役人が継続して統治していた。
会津藩は、新潟港が藩にとって生死の鍵を握る港であるため、新政府軍側の人間が入り込んだり、商人が新政府軍に通じたりしないよう、旧幕府の脱藩浪士の衝鋒隊や水戸藩脱藩浪士の諸生党を送り込み監視させた。しかし、これら脱藩浪士たちは、もともとあちこちから寄せ集まった集団で、治安維持の意識も、ノウハウもなかった。軍事資金を調達するため、新潟町町民に対し略奪と暴虐の限りを尽くした。
衝鋒隊が新潟町に入り込んだ際には、震えあがった町民たちは、町役人たちに至急対応をするように要望したが、この時新潟奉行が江戸にいて不在であったため、前の領主の長岡藩に頼み込んだ。河井継之助が長岡から駆けつけ話し合い、衝鋒隊を新潟から撤退させている。
その後、外国船の来航など、軍事力の後ろだてがない統治は難しいことから、奉行所は新津町に宿営していた色部長門を訪ね、米沢藩での統治を依頼した。新潟町民が上杉家にシンパシーを感じていたため依頼したという。
色部も了解し、同盟軍の代表として新潟町を管理することとなった。治安のため出兵する藩兵は米沢藩を主体として、会津、仙台、庄内から派遣され、奉行所は諸藩による会議所という扱いになった。
新潟港は、長岡藩など同盟軍側の重要な軍需物資の供給源であり、会津藩は軍需物資や民生用諸物資の補給を新潟港に頼っていた。長岡を中心とする越後平野に展開された北越戦争は、長岡城を占領されたといいながら同盟軍側が有利のまま膠着状態になっていた。この同盟側の頑強な抵抗を支えていたものが新潟港から入ってくる外国の武器弾薬であったのである。
色部は、諸藩を代表して米沢藩を窓口として、エドワルド・スネル商会から武器調達を行った。また色部は越後国内の情勢の情報収集を行っていた。また、新たに新潟防衛のため、エドワルドの兄ヘンリーから指導を受けて砲台を数か所設置した。

(エドワルド・スネル)

エドワルド・スネルは5月12日、横浜から蒸気船に武器を積み込んで5月17日に新潟町に到着した。このとき26歳であった。オランダ領事からオランダ・スイス・デンマークの副領事代行に任命されていた彼は、勝楽寺※地図 (現西堀通8番町)を住居にすると、三か国の国旗を掲げ西洋雑貨の商売をはじめた。陸揚げした商品は寺の本堂に置いていたが、倉庫もなく手狭になったため、6月上旬、片原通り四ノ町(現東堀通7番町)の小川屋喜兵衛宅(通称ヤマキ)(斎藤喜十郎商店の向かいにあった)の居宅と倉庫を借り上げ転居した。
色部は新潟町に進駐すると、エドワルドのスネル商会との取引の窓口となり、同盟軍側に大量の武器弾薬を供給することが可能となった。当時、庄内藩が大量の武器弾薬を買ったことが記録され、1万3000余ドルの手付金を払ったが、実行されないまま終戦となっていた。
新政府軍が新潟町を制圧した際も、エドワルドは新潟港で武器を陸揚げ中で、新政府軍に捕らえられた。

(新潟町征圧作戦)

新潟港が同盟軍側の軍需物資供給の基地となっており、これを制圧することによって長岡・与板周辺の膠着状態を打破することができると、長州藩士の山田市之丞が起案した新潟港征圧の「衝背作戦」を会津征討越後口総督府は採用し、決定した。
7月25日午前8時、新潟町の東10km余りの砂浜の海岸太夫浜に黒田清隆の指揮のもと上陸した。
翌26日夜から新政府軍の新潟攻撃は開始された。信濃川を挟んでの大砲や銃撃による撃ちあいが26日夜から27,28日と続いた。

(新潟町放棄と色部の戦死)

7月29日未明、新政府軍陽動隊が信濃川上流から渡河、関屋金鉢山付近の同盟軍を包囲し攻撃したので同盟軍は混乱して潰走した。新政府軍は金鉢山に本陣を構える。一方、陽動隊の成功を受け、新政府軍本隊が信濃川渡河を開始し奉行所を目指した。(当時の信濃川の川幅は現在の2倍ほどあった)
新政府軍の攻撃に押されて、同盟軍側兵士が撤退する際、民家に火を放ったことで下神明町、寺町、古町等500軒が焼け野原となる。この時、新潟町に戻って守備していたのは米沢300人、会津50人、その他50人程度だったといわれる。
侵攻する新政府軍の勢力に押されて敗色濃く、また逃亡兵も多く、自軍の戦闘力の低下を見る苦しい戦況の中で、新潟防衛の総督、色部長門は新潟の戦火の拡大を避けるため新潟町放棄を決断。
色部は新潟町民から経っての依頼を受け進駐した経緯を考え、戦術的に、民家に火を放つことはやむを得ないことではあったが、これ以上、戦火によって町民に迷惑が及ぶことは本意ではなかった。
29日の早朝、全軍を本陣の置かれた光林寺前の橋上に集め、兵糧を分け与え、隊を解散し速やかに各人の才覚によって帰藩するよう命令を下した。このとき、兵糧として握り飯2つと2朱金2枚を渡したという。
米沢藩兵のなかには、これに従わずこの地にとどまって戦い続けた者もいたという。
午前10時頃、関屋金鉢山周辺では各所で退却中の同盟軍と新政府軍が鉢合わせて戦闘となっていた。
その中で色部長門と手兵20数名の一隊も、案内人に導かれ、寺通り裏の松林の中を進み、現在の学校町にある菅原神社の裏手へ出て現在の県立商業高校下手から五十嵐浜への道をたどったが、案内人の誤りから新政府軍本陣のある関屋金鉢山へ通ずる道に入ってしまった。
関屋金鉢山方面から新潟町目指して進軍していた新政府軍高鍋隊約50名と遭遇した。新政府軍は、一隊を逃亡兵の一団と見て空砲を撃ち、やり過ごそうとした。
案内人も、いったん退却すべしと進言したが、色部長門は敵に後ろを見せては米沢武士の恥と応戦するよう命じ、激しい銃撃戦となった。
初めのうちは同盟軍が優位に立っていたが、長州藩の加勢で形勢は逆転。長門は持っていたエドワード・スネルから買ったピストルを撃ちつくした後、刀をふるって戦ったが、白兵戦の中、新政府軍が行った一斉射撃によって胸に銃弾を受けて倒れた。
色部は、銃士に支えられ、ナス畑(現在の戊辰公園)まで来ると、「敵に頭を獲しむなかれ」と命じ切腹、用人浦戸儀左衛門が介錯で首をはねた。浦戸は色部の首を五十嵐源次郎に預け、吶喊して斬り込んだが銃弾を受け戦死している。慶応4年(1868)7月29日、久長44歳だった。

(色部長門戦死その後)

従士の五十嵐源次郎は色部の首を抱え逃げたが、重い首を持っているので思うように走れず途中念仏寺の境内の藪の中に隠して、川に飛び込んで逃げた。
この様子を見ていた寺の僧が、このことを寺に避難していた関屋村庄屋の斎藤金衛に話した。新政府軍は同盟軍に協力したとして、庄屋の家屋に次々と放火していた。事情を悟った金衛は、首を持ってこさせ、一斗樽の中に入れて縁の下に隠して新政府軍の探索から守り通した。(新潟町の領民は旧領主米沢藩上杉家への親近感を抱き、同盟軍というより上杉家の役に立ちたいと考える人が多かったという。)
のち色部の首は瓶に入れ替え、塩漬けにして弥陀本尊前の須弥壇の下に移し、朝夕供養したという。戦乱がおさまると庄屋の斉藤金衛はこのことを米沢の色部家に知らせたので11月に遺族が引き取りに来て持ち帰った。
路傍に放置されていた胴体は、村民が念仏寺に埋葬した。のち、米沢藩の陣所があった光林寺の墓地に長門の遺体を埋葬した。

(内野村庄屋渡部三郎兵衛の農兵隊)

会津藩の要請で、内野村(新潟市)庄屋渡部三郎兵衛が近村の面立ちの子弟と自分の家の奉公人などを集めて、慶応4年4月5日に農兵隊を結成した。6月21日、渡部は色部長門に面会して、米沢藩の家来となることを懇願した。許されて、この四十数人の農兵隊は米沢藩の隊として行動し、色部から命名され「精義隊」と名乗った。7月27日には新潟町へ入り、米沢藩から手当金を受け取り、会津藩士と共に防備を固めていた。29日、新潟町が陥落すると、米沢藩士と共に八十里越を通り、8月9日米沢に着いた。米沢藩降伏後は、会津藩征討の一員として出動。村に帰ったのは11月であった。(清徳寺「義勇碑」※地図)
29日、長岡城が新政府軍の攻撃により再落城し、新潟の色部が戦死したことが伝わると同盟軍総督千坂は、米沢藩全軍の越後からの撤退を命じた。米沢藩兵は新発田藩領を避け、八十里峠を越え会津藩を経由して帰藩した。
戦後12月に、新政府は朝敵藩として米沢藩から4万石を召し上げるとともに、戦犯について調査を命じた。藩主上杉斉憲は茂憲に家督を譲って隠居する一方、奥羽越列藩同盟の盟主的な立場であった越後方面軍総督千坂高雅を救うため、既に死亡した色部を戦犯として届け出ている。色部に責任を転嫁したことによって、藩では外に処刑者が出なかった。
千坂は、仙台藩などと共に奥羽列藩同盟の成立に尽力し、会津藩の軍議にも参加し、越後で戦端が開かれると同盟の総督として、戦線を指揮してきた。本来であれば死罪となっても不思議ではなかったが、そうならなかったのは、戦後処理に薩摩の西郷の意向が働いていたといわれる。西郷は、藩の体制が、戦争責任の追及によって根本から弱体化することは、諸外国に対峙する国力の低下にもつながり好まなかったといわれる。
長州の大村益次郎が主導した、仙台藩に対する戦争責任の追及が苛烈を極めたのとは対照的であった。

色部長門は藩内では穏健派として知られていた人物であった。その色部が戦争遂行の全責任を負う形となったのは皮肉な結末であった。
色部家は家名断絶となったが、明治16年(1883)再興が許され、子の康長が家名を再興した。
昭和7年(1932)に関屋村斉藤家が中心となり色部の戦死した場所に追念碑を建てた。米沢でも色部を恩人として追念碑を建てている。



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