戊辰戦争 新潟町制圧作戦 新潟市



色部長門 新潟町征圧作戦 新潟奉行所

新潟町征圧作戦

(新政府軍太夫浜上陸)

7月13日、新発田藩士の寺田惣次郎と相馬作右衛門が長岡本営の参謀山縣・黒田に面会し、同盟軍側の一員として新発田藩が出兵した事情の申し開きをした。この席で、新発田藩の協力を得て同盟軍側の兵器調達基地となっている新潟港を攻略できれば、越後の征討が進むことが話し合われた。同席した総督府参謀吉井幸輔(薩摩藩)が柏崎の総督府に向かい、海軍と打ち合わせを行ったという。

会津征討越後口総督府は長岡・与板周辺の膠着状態を打破するため、長州藩士で大村益次郎から西洋兵学を学び、西郷をして用兵の天才と言わしめた山田市之丞が起案した新潟港征圧の「衝背作戦」を採用した。柏崎から新政府軍艦船に兵員を乗せ、新潟に上陸させる作戦であった。奥羽越列藩同盟の海からの補給路を完全に遮断することが目的であった。その総指揮を薩摩藩の黒田清隆にゆだねた。山田市之丞は参謀となり上陸作戦を指揮した。

新政府軍は20・21日ごろから間諜を上陸地点に放ち情報を探索していた。松ヶ崎では急に物乞いや牛博労が増えたということが伝えられている。また会津藩では、新政府軍が長岡戦線の膠着状態を打破するために腐心し、同盟諸藩領内の内部攪乱、情報探索の為間諜数百人を坊主姿にして放ったとの噂を聞き、新領内に対し怪しい者への警戒と報告を命じていた。
23日午後4時、各藩から柏崎港に集められた摂津・丁卯の軍艦2艘と、大鵬・千別・錫懐・万年の輸送船4艘に1200人程の兵士を乗せて出港し、佐渡の小木港を経由して、新潟へ向かった。
25日早暁、新発田藩領太夫浜から松ヶ崎にかけての海岸で上陸が敢行された。軍艦から小舟に乗り移った兵士は続々と上陸した。
上陸部隊の指揮は山田市之丞が担当した。黒田自らが率いた薩摩藩・長州藩・芸州藩・明石藩兵・福知山藩兵およそ430名と大砲2門で編成された一隊は、出迎えた新発田藩の一分隊と新発田城に向かった。新発田藩家老の溝口半兵衛は参謀黒田の元に駆けつけて新政府軍への恭順を誓った。

残りの薩摩藩・長州藩・芸州藩・高鍋藩兵およそ530名と砲2門の一隊は上陸しそのまま新潟に向かって進撃することとなった。

石原倉右衛門の殉難遺蹟の碑

石原倉右衛門は、庄内藩で禄三千石の重臣で中老であった。新潟町でオランダ商人エドワード・スネルとの武器・弾薬購入契約を終えて、7月25日の朝、新潟会議所を駕籠で出発、3人の従士とともに急ぎ庄内へ帰国する途中であった。西軍上陸地とは露知らず、松ヶ崎に差し掛かったところ、長州兵3名に発見され、その場で射殺された。その時、持っていた契約書など機密書類を奪われた。中には、幕府が購入を計画し、中座していたフランスからの軍艦を買い受けるための書類があったという。
42歳。戊辰戦争後、新政府から反逆首謀者の届け出を命じられた庄内藩は、すでに死亡していた石原倉右衛門を戦争責任者として届け出、家名断絶としている。
墓石は村人によって建てられ、殉難遺蹟の碑は、昭和5年(1930)松浜・庄内の有志と市により建立された。
なお、奪われた契約書は、後日 横浜のオランダ領事館で、日本初の領事裁判といわれるスネル裁判の際、オランダが中立を破った証拠として提出されたが、証拠として認められず、無罪が言い渡されている。
新潟攻略の軍は、阿賀野川右岸松ヶ崎に砲台を築き陣を張った。
沼垂町に滞陣した新発田藩隊長堀主計から、新政府軍参謀と接触する密命を受けた藩士吉田斧太夫は、寺山新田名主九左衛門を伴って舟で松ケ崎の新政府軍本陣に出向いた。参謀会議所へ案内されて会談が開かれ、新政府側からは長州の参謀福原又市、薩摩藩外城一番隊長村田勇右衛門らが出席した。斧太夫から同盟軍米沢藩兵の沼垂近辺の配置状況が説明された。新政府軍は隊を、松ケ崎から渡河し津島屋へ向かう部隊と、新崎から渡河し本所へ向かう部隊の二手に分け、斧太夫らの案内によって進撃することが決定された。

新政府軍の上陸の報を受け、米沢・新発田藩兵が迎撃のため出張し、阿賀野川左岸の本所で対岸の新政府軍と砲撃、銃撃戦が行われた。新発田藩も同盟軍の一員として本所の守備に就いたが、銃撃戦では斧太夫の打ち合わせにより空砲を撃っていたといわれる。
米沢兵が後退すると、高鍋・薩摩・長州藩兵の一隊は、阿賀野川を本所へ渡り新発田藩兵を合し、海老ケ瀬で津島屋から進撃した隊と合流、米沢藩兵を追撃した。米沢藩兵は、海老ケ瀬で、寺山からの応援を得て態勢を立て直し、新政府軍と交戦する。しかし激しい銃撃戦となったが、米沢藩兵は4人の戦死者が出て後退し、沼垂から新潟町へ引き揚げ、新政府軍は夕方には沼垂町に到着した。
信濃川河畔の沼垂に達した新政府軍は、夜から新潟攻撃を開始した。同盟軍ではこの時になって溝口家の五段菱紋の旗が新政府軍中にあるのを見てはっきりと新発田藩の裏切りを理解した。

寺山新田名主九左衛門の活躍

九左衛門は斧太夫と共に松ヶ崎の新政府軍本陣に赴き、新政府軍の進軍の道案内を勤め、新崎へ向かう隊に同行している。
信濃川渡河用の船30隻を天神尾新田名主雄吾、同村詰掛名主藤四郎、甚助らと協力して集め、さらに、27日夜、長州藩士を案内して信濃川を渡り、新潟町の敵情を偵察して帰り、29日の総攻撃の日には案内人として新潟町に渡り、戦闘の様子を新発田藩へ報告する等の功労をたてた。
新政府軍は27・28日と信濃川をはさんで砲撃に終始し、攻撃には出なかった。この間敵情を探り守備する敵兵の数を調べたり、渡河する舟を集めて準備をしていたという。
27日には、新政府軍艦隊の軍艦攝津と丁卯が新潟沖に現れ、新潟に向い艦砲射撃を開始した。新潟の陸上砲台も反撃し、そのうちの一発が摂津に命中し水夫が1人死亡した。同盟軍が築いた海岸の砲台の唯一の戦果であった。
総督色部長門は新政府軍の軍艦に対抗するため、新たに砲台を設置し、米沢藩兵に対してオランダ商人ヘンリー・スネルや奉行所役人などから、大砲の操作の軍事訓練を受けさせていた。
28日夕刻、新政府軍は明朝の信濃川渡河を決定し、兵には酒肴が配られた。

(新潟町総攻撃)

7月29日未明、新政府軍陽動隊が信濃川上流から渡河、上所島新田から白山浦へ上陸した。白山浦へ上陸した主力部隊は守備する同盟軍の陣を破って二手に分かれ、一隊は関屋へ向かい、関屋金鉢山付近の同盟軍を包囲し攻撃したので同盟軍は混乱して潰走した。新政府軍は金鉢山に陣を構える。もう一隊は寄居浜へ進み、ここで同盟軍の7人を倒して、新潟町の浜側裏手を進んだ。
一方、陽動隊の成功を受け、左翼隊が白山付近に上陸し、続いて右翼隊・中央隊の上陸が敢行され、新政府軍本隊が信濃川渡河を開始し奉行所を目指した。(当時の信濃川の川幅は現在の2倍ほどあった)
新政府軍の攻撃に押されて、同盟軍側兵士が撤退する際、民家に火を放ったことで下神明町、寺町、古町等500軒の民家が焼け野原となる。この時、新潟町に戻って守備していたのは米沢藩兵300人、会津藩兵50人、仙台藩兵その他48名程度だったといわれる。

侵攻する新政府軍の勢力に押されて敗色濃く、また逃亡兵も多く、自軍の戦闘力の低下を見る苦しい戦況の中で、新潟防衛の総督、色部長門は新潟の戦火の拡大を避けるため新潟町放棄を決断。
本陣となっていた光林寺前で兵糧を分け与え、隊を解散し速やかに各人の才覚によって帰藩するよう命令を下した。新政府軍は、午前10時頃には新潟町の中心部を制圧し、奉行所も占拠した。

出来島新田から渡河した一隊が、砲撃を受けながら平島に上陸したときには、同盟軍は陣を捨てて弥彦方面へ逃げた後であった。新政府軍は平島から大野方面に逃れる敗残兵をいったんは追撃したが、途中で新潟町へ戻ることにした。その途中、小新で20人程の米沢藩士と遭遇して、戦闘となり、米沢藩士6人が死んだ。
午前10時頃、関屋金鉢山周辺では各所で退却中の同盟軍と平島から進軍してきた新政府軍が鉢合わせて戦闘となっていた。
その中で色部長門と手兵20数名の一隊も、五十嵐浜から米沢藩本営のある加茂方面へ向かおうとしたが、案内人の誤りから平島から関屋金鉢山方面に進撃して来た新政府軍高鍋隊と遭遇して激しい銃撃戦となる。長門は負傷しその場で切腹した。
平島村に上陸した新政府軍は、同盟軍各藩の宿営地となったり、その外徴用などに協力したとして、庄屋などの民家を次々焼いた。関屋村庄屋斎藤金衛の家も同盟軍に協力したとして焼かれている。
この戦いで、新潟町から同盟軍は退却して新政府軍が占領。越後の戦局は大きく進展する事となる。またこの7月29日は、長岡城が再落城し、米沢藩越後方面軍総督千坂高雅が、米沢藩兵の総退却を命令した日でもある。
7月25日から29日までの新潟をめぐる攻防で米沢藩兵の32人を含めて同盟軍側で43人、新政府軍側で9人の戦死者があった。新潟守備の米沢藩兵は、加茂町にあった米沢軍本陣の兵と合流、米沢藩副総督千坂から全軍引き揚げの命がくだったため、八十里峠を越え会津を経て米沢に帰った。




色部長門
























山田市之丞












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