新潟奉行所と戊辰戦争 新潟市
色部長門 新潟町征圧作戦 新潟奉行所と戊辰戦争新潟奉行所設置の背景江戸時代後期、新潟港は信濃川河口に開けた越後最大の港町であり、西廻り航路を往来する北前船の寄港地として栄えた。上方や北陸から多くの物資が集まり、蝦夷地への中継港としても重要な役割を果たしていた。しかし、新潟町は長岡藩領であり、幕府は日本海有数の港を一大名に委ねることに限界を感じるようになった。天保年間にはアヘン戦争の影響で欧米列強の東アジア進出が現実味を帯び、ロシアの南下政策も活発化したことから、日本海沿岸の海防強化が急務となった。幕府は海防だけでなく、日本海交易の掌握や物資流通の監督、幕府権威の強化を目的として、天保14年(1843)6月11日に新潟町を長岡藩から上知して天領とした。同年6月17日には川村修就を初代新潟奉行に任命し、10月9日に着任させた。奉行所は長岡藩の町奉行所を引き継いで業務を開始し、日本海側における幕府支配の重要拠点となった。 新潟奉行所の施設と人員配置新潟奉行所は現在の新潟市中央区上大川前通付近に置かれ、役所の建物を中心に執務室、白洲、書庫、武器庫、牢屋敷、倉庫などを備えていた。奉行や与力、同心の役宅も周囲に設けられ、表門には番所を置いて警備に当たった。奉行所の最高責任者は奉行で、行政、司法、警察、港湾管理、年貢・運上の徴収、海防を統括した。その下に組頭、与力、同心、書役・筆者、足軽、中間、小者などが配置された。規模は長崎奉行所や箱館奉行所ほど大きくなく、役人は数十人規模であったと考えられるが、町年寄や庄屋、問屋など地元有力者の協力を得て町政や港湾行政を運営した。嘉永6年(1853)以降は外国船警備や海防体制も強化され、幕末には外交事務も担うようになった。 幕末期の外国船来航と奉行所の対応アヘン戦争後、日本海にも欧米列強の船舶が姿を現すようになり、新潟奉行所は沿岸警備を強化した。嘉永6年(1853)のペリー来航後は見張番所を増設し、異国船発見時の通報体制を整備するとともに、長岡藩や村上藩など周辺諸藩と連携して警備を行った。新潟沖へ外国船が接近すると、奉行所は船名や国籍、航路などを調査して江戸へ急報し、応接役を置いて無断上陸を警戒した。開港以前に外国船が自由に入港した例はほとんどなく、多くは沖合への来航や港湾調査にとどまった。 新潟湊の開港安政5年(1858)、日米修好通商条約によって新潟は函館・横浜・神戸・長崎とともに開港五港の一つに指定された。当初の開港日は慶応3年(1867)12月9日とされたが、港湾整備の遅れなどから幕府は慶応4年(1868)3月9日へ延期した。しかし戊辰戦争の勃発によって開港はさらに延期され、実際に新政府のもとで正式開港したのは明治元年11月19日(1869年1月1日)であった。新潟湊は近世越後最大の港で、最盛期の元禄年間には年間3,500艘以上の船が出入りしたと伝えられる。しかし、その後は信濃川の流路や河口地形の変化により川底が浅くなり、大型の千石船は艀で曳航しなければ入港できない状態となった。このため、開港にあたっては水深や航路の測量、浚渫工事、港湾施設の整備が重要な課題となった。 最後の新潟奉行・白石千別と新潟奉行所の終焉第7代新潟奉行白石千別は、慶応元年(1865)7月10日、第6代奉行榊原主計頭の病死を受けて新潟奉行に就任した。天保14年(1843)に設置された新潟奉行所は、日本海側最大の港である新潟湊を管理し、町政、司法、警察、港湾行政、海防などを統括する幕府の重要機関であった。さらに安政5年(1858)の日米修好通商条約によって新潟が開港港に指定されると、奉行所は開港準備や外国船への対応という新たな役割も担うようになった。白石が奉行に就任した頃は、まさに幕府の命運と新潟開港の成否が重なる激動の時代であった。慶応3年(1867)10月14日、徳川慶喜は大政奉還を行い、約260年続いた江戸幕府は政治の実権を朝廷へ返上した。白石は突然の政局の変化に驚きながらも、新潟では条約港開港の日が目前に迫っていたため、奉行として今後の対応を幕府に確認する必要があった。同年11月、白石は江戸へ向かい、開港準備や行政運営について幕府の指示を仰ぐこととした。 しかし、その直後に情勢は急変する。慶応4年(1868)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、新政府軍と旧幕府軍との武力衝突が始まった。敗れた徳川慶喜は大坂城を脱出して江戸へ戻り、新政府は慶喜追討を命じた。これにより、幕府主導による新潟開港は事実上不可能となり、新潟奉行所も将来の見通しを失った。 白石は慶応4年1月20日に新潟へ帰着したが、その頃には新政府軍が北陸道へ進軍を開始し、越後にも戦乱の影が迫っていた。さらに2月1日、幕府は越後国内の幕府領を会津藩、米沢藩、高田藩、桑名藩へ預地として管理させることを決定した。ただし、新潟町だけは港町としての特殊事情や開港問題を抱えていたため、どの藩にも委ねられず、名目上は旧幕府直轄地のままとされた。 3月15日、新政府の北陸道先鋒総督が高田に到着すると、越後諸藩だけでなく、新潟奉行所や佐渡奉行所にも出頭を命じ、勤王の請書や領内の簿籍を提出するよう命令した。当時、総督府は江戸城総攻撃を控えており、奉行白石はすぐには応じず、まず組頭田中廉太郎を代理として派遣した。田中は総督府に対し、「官地の処分は徳川家の意向を確認したうえで返答したい」と申し出て猶予を得ることに成功し、新潟へ戻っている。 その後、白石は自ら江戸へ赴き最終判断を仰ぐことを決意した。4月4日、奉行所の実務を支配組頭松長長三郎へ託し、田中廉太郎を伴って阿賀野川を舟で遡り、会津街道を経て江戸へ向かった。 ところが、途中の会津若松で思わぬ事態が起こる。会津藩は白石を引き留め、新潟町を会津藩預り領として引き渡すよう求めた。当時の新潟町は、日本海側最大の港であり、会津藩にとって軍需物資や生活物資を搬入する生命線であった。阿賀野川水運によって新潟港と会津は結ばれており、新潟を確保できるかどうかは戦局を左右する重要な問題だったのである。 白石は「徳川家の指示を受けなければ返答できない」として当初は拒否した。しかし、新潟町では脱藩浪士や旧幕府脱走兵が集まり始め、奉行所だけでは治安維持が困難になりつつあった。このため白石は、町を守るには会津藩の軍事力を借りるしかないと判断し、正式な引渡しではなく「仮預け」という形で会津藩の管理を認めたと伝えられている。 江戸へ到着した白石と田中は、徳川家に新潟町の処置について最終判断を求めた。しかし、すでに徳川家は恭順方針を決めており、具体的な命令は出されなかった。代わりに「御沙汰を遵奉すべし」という下知状が与えられ、新政府の命令に従うよう指示された。 これを受け、白石は4月19日、浅草千束の旧六郷家屋敷に置かれていた北陸道鎮撫総督府へ赴き、正式に請書を提出した。この行動によって、新潟奉行所は新政府への協力姿勢を示したことになる。 奇しくも同じ4月19日、新政府は新潟奉行所を正式に廃止し、新潟裁判所を設置する布告を発した。総督には四条隆平が任命されたが、この時点では新政府軍はまだ新潟を支配しておらず、実際には裁判所は機能せず、旧奉行所が引き続き町政を担っていた。 閏4月1日、白石千別は正式に新潟奉行を解任された。これにより、天保14年の創設以来約25年間続いた新潟奉行の歴史は幕を閉じた。白石は新潟奉行所最後の奉行としてその任を終えたのである。 一方、新政府は組頭田中廉太郎を「新潟奉行勤向」に任命し、新潟町の行政事務を継続させる方針を採った。田中は必要書類を受け取って江戸を出発し、慶応4年5月2日に新潟へ帰着する。しかし、その頃の新潟町には衝鋒隊をはじめとする旧幕府脱走兵や各地の敗残兵が次々と集結し、奉行所の権威だけでは治安を維持できない状況となっていた。こうして新潟奉行所は実質的にその役割を終え、以後の町政は戦乱の中で田中廉太郎、米沢藩、そして新政府へと引き継がれていくことになる。 衝鋒隊・水戸諸生党の来新と新潟町の混乱慶応4年(1868)春、新潟町は戊辰戦争の拡大によって一転して戦乱の最前線に近い町となった。白石千別と田中廉太郎が江戸へ赴いていた間、新潟奉行所には支配組頭松長長三郎以下わずかな役人しか残っておらず、町の治安維持は極めて困難な状況となった。その隙を突くように、旧幕府軍や各地の敗残兵が次々と越後へ流入し、新潟町は佐幕派勢力の重要な拠点となっていく。その代表が衝鋒隊である。衝鋒隊は旧幕府陸軍歩兵指図役頭取古屋佐久左衛門を隊長、京都見廻組出身の今井信郎を副隊長として編成された部隊で、旧幕府脱走兵を中心に約九百人を擁していた。今井信郎は後年、自らが京都近江屋で坂本龍馬を斬ったことを告白した人物として知られる。 衝鋒隊は当初、梁田の戦いで新政府軍に敗れたが、生き残った兵をまとめて会津へ入り、松平容保に拝謁した。慶応4年3月24日には部隊名を「衝鋒隊」と改め、会津藩の協力を受けながら越後方面へ進出することとなった。 当時の会津藩にとって新潟湊は生命線であった。会津は内陸に位置するため、軍需品や食糧、生活物資の多くを新潟港から阿賀野川水運によって運び入れていた。そのため、新潟町を新政府軍に奪われることは絶対に避けなければならなかった。会津藩主松平容保は古屋に対し、新潟町の治安維持とともに、新政府に通じる者の探索や町の監視を命じた。 しかし、衝鋒隊は必ずしも統制の取れた軍隊ではなかった。当初の隊士は幕府歩兵や武士が中心であったが、その後、幕府再興を掲げて広く兵を募った結果、侠客や無宿人、江戸へ流入していた者など、軍事訓練を受けていない者が多数加わった。このため規律は乱れ、部隊を統率できる士官も不足していた。一方で実戦では勇猛果敢であり、越後戦線では会津藩佐川官兵衛隊や桑名藩雷神隊と並び称される精鋭部隊として新政府軍から恐れられる存在となっていく。 衝鋒隊は3月30日に会津藩預地であった水原奉行所へ入り、今井信郎を新発田藩へ使者として送り込んだ。新発田藩が新政府寄りの姿勢を示していることを理由に圧力をかけ、多額の献金を要求し、最終的に千両を差し出させたと伝えられる。 4月1日、衝鋒隊約二百名は幕府歩兵隊の日章旗と徳川三つ葉葵の旗を掲げて新潟町へ入城し、西堀の浄泉寺を本営とした。その後、一部は隣接する正福寺にも分宿した。この時点では白石千別と田中廉太郎はまだ新潟に滞在しており、4月4日に江戸へ向かって出発している。しかし、衝鋒隊の町での振る舞いは町民を大いに苦しめた。豊かな港町であった新潟には大規模な廻船問屋や豪商が軒を連ねていたが、隊士たちは商家へ押しかけて刀や槍を振り回し、金品や食糧を要求した。要求に従わない商家には暴行や略奪を加え、時には銃撃して威嚇したという。町人は恐怖に包まれ、町の秩序は急速に崩壊した。 旧幕府の新潟奉行所には松長長三郎以下二十人ほどの役人しか残されておらず、このような武装集団を制止する力はなかった。本来であれば隣接する沼垂を領する新発田藩に協力を求めるべきであったが、新発田藩は衝鋒隊から脅迫され、さらに新潟町への道案内までさせられていたため、頼ることができなかった。 町役人たちは協議の末、かつて新潟町を支配していた長岡藩へ救援を求めた。この要請に応えたのが長岡藩家老河井継之助である。河井は4月8日、護衛も付けず単身新潟町へ入り、古町の旅籠「櫛屋」で古屋佐久左衛門と会談した。河井は衝鋒隊の武勇を認めつつ、新潟町にとどまることは町民の反発を招き、幕府再興にも利益がないことを説き、信州方面へ転戦するよう巧みに説得した。古屋は河井の人物に深く感服し、その提案を受け入れ、4月9日に衝鋒隊は新潟町を去った。 衝鋒隊と入れ替わるように、4月8日には水戸藩諸生党五百三十余名が新潟町へ到着した。諸生党は水戸藩の尊王佐幕派で、天狗党との内紛に敗れた後も幕府再興を掲げて各地を転戦していた。会津藩から軍資金の援助を受けて越後へ入り、新潟到着前には水原代官所で九日間待機している。 諸生党は衝鋒隊とは異なり、町民に対して比較的節度ある行動を取ったと伝えられる。隊士は武士としての規律を守り、略奪や暴行を行うことは少なく、組織的な行動を維持していた。約六日間新潟町に滞在した後、内野、赤塚、弥彦を経て寺泊へ向かい、さらに会津藩預りとなっていた出雲崎代官所へ移動した。 しかし、新潟町には衝鋒隊や諸生党だけでなく、各地で敗れた旧幕府軍兵士や浪士、脱藩者などが絶えず流入していた。その中には会津藩の名を騙って町民に金品を要求する者や、狼藉を働く者も少なくなかった。こうした混乱によって町民の間には次第に会津藩への反感も生まれ、町の不安は日ごとに増していった。 このように、春の新潟町は表向きには旧幕府領でありながら、実際にはさまざまな武装勢力が入り乱れる無秩序な状態に陥っていた。奉行所の行政機能は著しく低下し、町政を立て直すためには新たな統治体制が必要となった。5月2日に帰着した田中廉太郎は、この深刻な混乱の収拾という極めて困難な課題に直面することになる。
田中廉太郎の町政維持、エドワード・スネル商会、米沢藩による新潟町統治慶応4年(1868)5月2日、新政府から「新潟奉行勤向」を命じられた田中廉太郎は、新潟町へ帰着した。帰路は三国峠を越え、舟を利用して越後へ入り、新政府軍がすでに小千谷付近まで進出していたため、「新潟裁判所御用」の旗を掲げて検問を通過したという。帰着した田中は、まず奉行所に残る役人たちを招集し、徳川家が新政府に恭順した趣旨を説明した。そして、奉行所は戦いの当事者とならず局外中立を守ること、町民の生命と財産を保護して治安維持に努めること、さらに将来新潟町を引き継ぐ行政機関へ確実に事務を引き渡すことを訓示した。田中は最後の幕府役人として、政治体制が変わっても行政を止めてはならないという強い信念を持って町政の維持に努めたのである。 しかし、その前には大きな障害が立ちはだかった。白石千別が江戸へ向かう途中、会津藩に対して新潟町を仮に預けることを約束していたため、帰着早々、会津藩士が奉行所へ現れ、その約束を履行するよう強く要求したのである。 田中は徳川家が新政府への恭順を決めた以上、白石の約束をそのまま実行することは新政府の命令にも反すると判断した。新潟町を会津藩へ引き渡すことを拒否し、奉行所が行政を継続する方針を示した。その結果、会津藩との対立は避けられなかったが、最終的には違約の代償として五千両と火薬を会津藩へ引き渡し、武力衝突を回避したと伝えられている。田中は限られた兵力しか持たない中で、町を戦場にしないことを最優先に考えたのであった。一方、新潟町では国際情勢も大きく動いていた。本来、慶応4年(1868)3月9日は幕府が列強へ約束した新潟開港の日であったが、新政府は戊辰戦争を理由に開港を延期した。しかし、外国側は必ずしも延期を認めず、すでに外国人商人が新潟へ来航して商業活動を始めていた。 その代表がプロイセン出身の武器商エドワード・スネルである。兄ヘンリー・スネルは会津藩の軍事顧問として活動し、日本名「平松武平衛」を与えられ、和服姿で帯刀するほど会津藩との結び付きが深かった。さらに米沢藩からも軍事顧問への就任を求められ、越後戦線で列藩同盟軍を支援していた。 弟エドワード・スネルは5月12日、横浜から蒸気船で大量の武器・弾薬や西洋雑貨を積んで新潟へ到着した。勝楽寺を住居兼倉庫として借り受け、片原通四ノ町の豪商小川屋喜兵衛宅を店舗として「スネル商会」を開設した。寺の本堂には輸入した武器や弾薬が積み上げられ、米沢藩士が昼夜交代で警備に当たったという。 6月に入ると、エドワードは米沢藩を窓口として奥羽越列藩同盟各藩へ本格的に武器販売を開始した。長岡藩、会津藩、米沢藩をはじめ、同盟各藩の藩士が連日のように勝楽寺を訪れ、小銃や弾薬を購入した。商談が相次いだため、勝楽寺だけでは保管場所が不足し、一番堀通には新たな倉庫まで借りられた。米沢藩だけでも6月中に五万六千ドル分もの武器・弾薬を購入したとされ、新潟町は列藩同盟最大の兵站基地として機能するようになった。 こうした状況の中で田中は、新潟町を中立の立場で維持しようと努めたが、実際には町内へ次々と同盟軍兵士が集まり、自らの力だけで秩序を保つことは不可能になっていた。そこで田中は新津に宿営していた米沢藩総督色部長門を訪ね、新潟町の統治を正式に依頼した。 色部は当初、会津藩など同盟諸藩との関係に配慮して慎重な態度を取った。しかし田中は「新潟町の町民は上杉家を慕っており、米沢藩なら町民も安心する」と説得し、ついに色部も引き受けることを決断した。 6月1日、色部長門は約六百名の兵を率いて新潟町へ入城した。さらに仙台藩、会津藩、庄内藩などの代表者を集め、「新潟会議所」を設置し、新潟町の軍政と行政を統括する体制を整えた。こうして新潟町は実質的に米沢藩を中心とする奥羽越列藩同盟の管理下へ入ることとなる。 ちょうどその日、薩摩藩軍艦「乾行」と長州藩軍艦「丁卯」が新潟沖へ現れ、沿岸の測量や水深調査を行った後、田中廉太郎を艦上へ招いた。しかし田中は、すでに町政を米沢藩へ引き継いだことを理由に応じなかった。色部は直ちに米沢・会津両藩兵を海岸へ配置し、両軍艦はそのまま沖合へ去ったものの、町民は今にも戦闘が始まるのではないかと大きな不安に包まれた。 町政の引継ぎを終えた田中は、6月2日に松長長三郎らを先発させ、翌3日に自らも新潟を離れた。米沢では奉行所関係文書を引き渡し、水戸では謹慎中の徳川慶喜へ新潟町政の経過を報告する予定であった。 田中は新潟に十九人の奉行所役人を残している。この役人たちは、後に新政府が旧奉行所へ設置した民政局へそのまま採用され、町政を継続して担当した。旧幕府の行政機構は完全に断絶することなく、新政府へ円滑に引き継がれ、これが明治初期の新潟県行政の基盤となった。 一方、米沢藩の統治によって町の治安は徐々に回復したものの、戦争の影響は日に日に深刻となった。6月8日には新発田藩領沼垂で米沢・庄内両藩兵と町民との間に大規模な騒動が発生し、新潟町からも兵が出動してようやく鎮静化している。また、長岡周辺で激戦が続くにつれ、信濃川には戦死者の遺体が流れ着くようになり、町民の多くは家財を郊外へ運び出し、戦火を避けて避難を始めた。かつて北前船で賑わった港町新潟は、戦争の重苦しい空気に覆われることとなった。 新潟町攻防戦と新潟奉行所の廃止、新政府への移行慶応4年(1868)夏になると、戊辰戦争の主戦場は越後へ移り、新潟町は戦略上最も重要な拠点となった。新潟湊は奥羽越列藩同盟にとって、日本海から武器・弾薬や兵糧を受け入れる唯一の補給基地であり、長岡藩や会津藩をはじめとする同盟諸藩は、ここから軍需物資を前線へ送り続けていた。一方、新政府軍にとっても、新潟港を占領して補給路を断ち、長岡藩の背後を突くことが越後戦線を有利に進めるための最重要課題であった。米沢藩総督色部長門を中心とする新潟町の統治体制は整いつつあったものの、軍事的緊張は日ごとに高まっていった。新潟港には奥羽越列藩同盟の諸藩が頻繁に出入りし、エドワード・スネル商会を通じて輸入された大量の小銃や弾薬が陸揚げされていた。これらの兵器は長岡藩や会津藩などへ送られ、新政府軍との激戦を支える重要な軍需物資となった。新潟町は商業都市から一転して、列藩同盟最大の兵站基地へと姿を変えていた。 しかし、新政府軍もこの状況を看過することはなかった。長岡城攻略を確実なものとするためには、新潟港を制圧し、同盟軍への補給を断つ必要があったのである。新政府軍は陸路からの攻撃だけでなく、日本海からも兵を投入する作戦を立案し、新潟町への上陸準備を進めた。 7月25日、新政府軍約一千人は太夫浜へ上陸した。上陸部隊は二手に分かれて新潟町へ進撃し、一隊は信濃川河畔へ到達して砲撃を開始した。港町に砲声が響き渡ると、町民は家財を抱えて避難し、町中は大混乱となった。商家は戸を閉ざし、北前船で賑わった湊は一転して戦場と化した。 これに対し、米沢藩をはじめ会津藩、庄内藩など奥羽越列藩同盟の諸藩は防戦に努めたが、新政府軍は近代的な兵器と海陸からの挟撃によって徐々に町へ迫った。長岡方面での戦局も同盟軍に不利となり、新潟を守り続けることは困難になっていった。 7月29日、新政府軍はついに新潟町を占領した。町の防衛を指揮していた米沢藩総督色部長門は戦闘の中で戦死し、奥羽越列藩同盟による新潟町支配は終焉を迎えた。新潟港は新政府軍の手に落ち、同盟軍は最大の補給基地を失うこととなる。このことは越後戦線全体に大きな影響を与え、その後の長岡藩や会津藩の敗北を決定づける一因となった。 新政府軍が新潟町を掌握すると、旧幕府の新潟奉行所による統治は名実ともに終了した。もっとも、新潟奉行所はすでに4月19日の時点で新政府によって廃止が布告されており、新潟裁判所の設置も命じられていた。しかし、その時点では新政府は新潟町を実効支配しておらず、実際の行政は旧奉行所や田中廉太郎、さらに米沢藩によって維持されていた。そのため、7月29日の新潟町占領こそが、新潟奉行所の実質的な終焉と位置付けられる。 占領後、新政府は旧奉行所の施設をそのまま利用して民政局を設置し、新潟町の行政を開始した。民政局は名称こそ新政府の制度へ改められたものの、実務を担ったのは田中廉太郎が残していった十九人の旧奉行所役人であった。彼らは町の戸籍、租税、港湾管理、治安維持などの事務に精通しており、その経験を生かして行政の空白を生じさせることなく町政を継続した。 このように、新潟奉行所は政治的には幕府とともに消滅したものの、その行政機構や人材は新政府へ円滑に引き継がれた。旧幕府の役人たちは新政府の地方官吏として採用され、後に設置される新潟府、さらに第一次新潟県の行政組織の基盤となっていく。天保14年(1843)の設置以来約25年間、日本海側最大の港町を支え続けた新潟奉行所は、幕末の動乱の中でその役割を終えた。しかし、その制度と行政経験は明治政府へ受け継がれ、近代新潟県の行政制度の礎となったのである。 川村修就 👉詳細白石千別 田中廉太郎 松長長三郎 👉詳細 |
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新潟奉行所と戊辰戦争
