新潟奉行所 新潟市



色部長門 新潟町征圧作戦 新潟奉行所と戊辰戦争

(新潟奉行所の設置)

天保14年(1843)6月11日、幕府は、新潟が日本海沿岸の海上交通の重要地点であり、異国船に備えた海岸防衛を強化し、商品の流れを把握し、幕府権威の再確認をするという理由をつけ、長岡藩から上知し天領とした。天保年中の新潟町は、戸数5,700余、人口30,000余といわれている。
天保14年(1843)6月17日、川村修就が初代新潟奉行として任命され、10月9日に着任する。長岡藩の新潟町奉行所の建物などはそのまま引き継ぎ利用された。
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(新潟奉行所と戊辰戦争)

(新潟湊の開港)

新潟湊は安政5年(1858年)修好通商条約締結により、函館・横浜・神戸・長崎と並び、日本海側で唯一開港五港の一つとして指定され、慶応3年(1867)12月9日が開港日とされた。しかし開港準備が整わない等の理由で、幕府は慶応4年(1868)3月9日に変更すると布告した。(実際の開港日は戦争の影響などで、明治元年(1869)11月19日であった。)
新潟湊は、信濃川河口左岸に位置し、近世越後最大の湊であった。もっとも栄えたのは元禄の頃で、湊には年間3,500艘以上の船が出入りしていたという。然し、その後、川の流れの変化や海底の変化がおき、川底が浅くなり、千石船は艀に引かれなければ、自由に入港することができなくなっていた。随って、開港するためには、湊の水深や航路などの調査が必須不可欠となっていた。

(最後の奉行白石千別)

第6代目新潟奉行であった榊原主計頭が病死した為、白石千別は慶応元年(1865)7月10日に7代目新潟奉行に就任した。白石千別は、幕府が大政奉還をしたことに驚き、間近に迫った開港の準備もあり、幕府の指令を仰がんと、慶応3年(1867)11月に江戸へ向かった。
慶応4年(1868)1月に入ると、鳥羽伏見の戦いが起こり、徳川慶喜が大坂から逃げ帰り、慶喜に対して討伐の勅命が出る事態となった。もはや、徳川家主導での新潟開港はできない情勢となった。
慶応4年(1868)1月20日に白石が新潟へ帰着した時には、新政府軍の北陸道への進撃が始まっていた。
慶応4年(1868)2月1日、幕府は越後国内の幕府領を会津藩、米沢藩、高田藩、桑名藩に預地として管理を任せた。新潟町については、どの藩にも任せずそのまま旧幕府直轄領となっていた。
3月15日北陸道先鋒総督が高田に到着し、越後11藩の重臣を呼んで、藩主に勤王の請書・領内の簿籍等の提出を命じた。新潟奉行所・佐渡奉行所に対しても出頭の上、勤王の請書・領内の簿籍等の提出を命じている。
総督一行は、江戸城総攻撃のため、3月19日高田を発って江戸へ進発していた。組頭田中廉太郎が奉行白石の代理として総督一行を追いかけ、3月23日信州坂城で追いついた。田中は官地の報告については、主家の徳川家の意向を聞いたうえで返答するとして、猶予をもらいいったん新潟に戻った。
4月4日奉行の白石千別は、後事を組頭の松長長三郎に託して、田中を伴って阿賀野川を船で登り会津路を通って江戸へ向かった。
途中、会津城下で白石が会津藩に拘束された。白石は新潟町で押し込み強盗や騒動を起こす脱藩浪士などの対応を会津藩に相談したと考えられるが、会津藩は、新潟町を預り領として引き渡すよう要求した。白石は、徳川家の意向を聞かなければ返答ができないと応じなかったが、会津藩の力を借りなければ町の治安を維持できないと考え、最後は仮引き渡しを承諾したという。
江戸に着いた白石と田中は、新潟の処置について徳川家に指示を仰いだ。徳川家からは直接の下命はなかったが、「御沙汰を遵奉すべし」という下知状があたえられたことから、4月19日、浅草千束の旧六郷家の邸に滞在していた北陸道鎮撫総督府へ請書を提出した。
この同じ4月19日、新政府は新潟奉行所を廃止したうえで新潟裁判所を設置し、四条隆平を総督に任じる通達を出しているが、形だけの通達でたな晒し状態となった。
閏4月1日、新政府は白石千別が職を辞したことから解任し、新潟奉行所の組頭だった田中廉太郎を召喚し、これに新潟奉行勤向(つとめむき)という役目を命じた。田中は赴任に必要な書類を総督府から受領し、閏4月23日、江戸を出発し新潟に向かった。
田中は帰りは三国峠を越え、舟を利用して5月2日に新潟町に戻っている。時期的に、小千谷まで新政府軍が制圧しており、舟には新潟裁判所御用と旗を立てて通過したという。
白石と田中が不在の間を見透かすように、衝鋒隊をはじめ、佐幕をうたう有象無象の兵たちが町に入り込み、新潟は反薩長の中心地となっていた。

(衝鋒隊ほか佐幕派浪士たちの流入)

衝鋒隊は幕府陸軍の歩兵指図役頭取古屋佐久左衛門が、直心影流免許皆伝で、京都見回り組のとき坂本龍馬を斬ったと後に告白した今井信郎を副隊長とし、幕府脱走兵およそ900名で部隊を結成した。梁田の戦いで官軍の奇襲攻撃を受け敗北するも、残兵をまとめて3月22日に、会津に入り松平容保に謁見し、24日には部隊名を衝鋒隊に改めていた。
内陸藩である会津藩は、軍需物資や生活物資を新潟湊から阿賀野川の水運を利用して運んでいた。新潟町は戦略的重要拠点であり、新政府側に落ちることは、会津藩には見過ごしにできることではなかった。容保は古屋に命じ、会津藩と協力して、新潟町で新政府に内応する住民を洗い出したり、新政府側の人間が町に入り込まないよう徹底的に取り締まるよう命じた。新潟町の廻船問屋の中には薩摩との取引を行うものもおり、薩摩に誼を通じるものがいることも考えられた。
部隊はミニエー銃を備え、隊士は詰襟の赤色の軍服姿で、血気盛んな急進佐幕派の若者が中心となっていたが、その後、幕府再興の折には旗本に取り立てるとして徴募したところ、ヤクザ者や地方から江戸に流れ込んできた者など、軍事教練もろくに受けたことのない兵が混じる構成となり、統率の取れない一見荒くれ者たちの部隊となった。部隊を束ね指揮できる兵士が不足していた。
しかし、その後の越後戦線では、桑名藩雷神隊や会津藩佐川官兵衛隊と並び称されるほど恐れられる存在となった。古屋と今井の盟友関係は五稜郭の戦いで古屋が戦死するまで続いている。
3月25日には、若松城下を発ち越後に入り3月30日、会津藩預地水原奉行所に進駐した。今井を使者に立て新政府寄りと見られていた新発田藩に脅しをかけ1000両の献金を脅し取る。
4月1日、幕府歩兵隊隊旗の日の丸と徳川家の三つ葉葵の旗を押し立てて、200人が新潟町に入り、西堀浄泉寺に宿陣した。その後うち100人は浄泉寺の隣、正福寺に移った。白石と田中が江戸へ向け出発したのが4月4日であったので、衝鋒隊が乗り込んできたときにはまだ新潟町にいたことになる。
湊町として潤っていた新潟町には大きな廻船問屋が多くあった。大店に乗り込んで槍や刀を振り回して、脅迫・暴行・略奪などをおこなった。云うことを聞かない商家に対しては、店に向かって銃撃を行って脅したという。この時、新潟町の治安を預かっていた旧幕府の奉行所には松長長三郎以下役人が20人ほどしかいなく、非力で抑えることができなかった。
本来、新潟町に接する沼垂を領地とする新発田藩に対応を相談する所であったが、献金を脅し取られたうえ、新潟町まで道案内するなど全く頼りにならなかった。そこで対応に困った町会所に集まった町役人たちは相談し、組頭松長長三郎がかつての領主長岡藩に解決を依頼した。
4月8日、河井継之助が単身新潟町に乗り込み、古町(現在の古町通り6番町付近)にあった旅籠「櫛屋」に入り、隊長の古屋作左衛門を呼び出し、町を出て信州に向かうよう言葉巧みに説得した。古屋は旧幕府から、新政府に組する信州を鎮撫するよう幕府歩兵隊組頭に任じられていた。古屋は河井という人物に感銘を受けたという。河井の説得を受けいれて、4月9日、衝鋒隊は新潟町を出発した。

先立つ4月8日 衝鋒隊と入れ替わるように、市川弘美(三左衛門)に率いられた水戸藩諸生党530人余が会津藩預り領水原から新潟に入り込んだ。
水戸藩諸生党は衝鋒隊と同様、新潟に入る前に、幕府再興を願って会津藩に向かったが、当時の会津藩はまだ朝廷に謝罪の嘆願をしており、表面上朝廷から討伐の勅命の出ている市川勢の若松城下への侵入を許さず、藩領通過のみを許した。しかし、水面下では、越後の水原に向かい、しばらく越後国内の動向をみるように依頼している。
3月24日には津川に、29日には水原代官所に入り、ここで9日間を過ごして、4月8日新潟湊に到着した。諸生党はもとは水戸藩士たちで、会津藩から軍資金の援助を受けており、町民に傍若無人な対応はせず、武士らしく組織立って行動していたという。新潟に6日間滞在して、その後、内野、赤塚、弥彦に立ち寄り4月16日に寺泊に入り、会津藩預領となっていた出雲崎代官所に向かった。(☛ 水原奉行所)

他にも各地で敗残した旧幕府や諸藩の兵たちが、越後に逃れてきた。平和だった町中がにわかに騒然としてきた。苦しい戦いにすさんだ兵たちの乱暴も多く、治安が悪くなったが、天領新潟奉行所の手薄な人数ではどうにもならなくなった。
これら乱暴を働く者の中には、会津藩の意向で行動しているとして無理強いをする者や、会津藩士を語って狼藉を働く者がいたので、町民の中に会津藩に対する反感が大きくなっていった。会津藩に進んで協力する者は少なかった。

会津藩士等による乱暴

2月に入ると、会津藩の越後国内での兵力増強が活発となり、2月20日ごろには、勅使に不敬を働く者が無いようにという名目で、大砲組・備組・番頭組・会津藩遊撃隊などを越後に出兵することを各藩に通知した。これによって越後諸藩に圧力を加え、諸藩が新政府に走るのを監視しようとした。酒屋陣屋には300人を置き、新潟町にも300人を派遣していた。
会津藩の進駐に伴って、駐留する会津藩兵士や会津から流れてきた浪人たちが、人々に金品を要求したり、強奪したりする事件が相次いだ。瑞光寺駐留の会津藩士3人が新潟町で縮緬を盗んだり、金銭を強奪したりして、3月29日に死刑に処されている。同じ日、内野の村人が5人の強盗を竹槍で囲んで捕らえた。この5人は会津藩の浪人と自称したので、4月1日に会津藩によって公開で打ち首にされた。(一味の首領は佐藤一郎といい処刑された地で現在のJR越後線の団九郎踏切の近くに墓が残る※地図) 5月になると越後各地の村々へ会津藩士が回り、庄屋や金持ちに借金を強要する事件が多発していた。

(田中廉太郎の新潟町帰着)

5月2日、総督府から新潟町政を任された田中廉太郎が新潟に戻って、配下の支配組頭松長長三郎を使って町政の運営を行った。
田中は配下の者たちを招集し、徳川家恭順の趣旨を細説し、奉行所の局外中立と治安維持、次の新潟町管理者への確実な行政事務の引継ぎなどを訓示した。
しかし、白石が新潟町を会津藩に引き渡すとした約束を実行しろと、会津藩士が奉行所に乗り込み、要求を突き付けて来た。
田中には白石が、新潟を会津藩に仮渡しを約した事実を解消すべき義務があった。そうでないと徳川氏の意志に背き北陸道総督府の命に違うことになるのである。
田中は白石の約束を反故にして、会津藩の預かり所とすることを中止した。この違約の代償として、新潟奉行所は会津藩へ5,000両と火薬を引き渡したという。

(エドワードスネル商会の設立)

慶応4年(1868)3月9日は、幕府が外国に約束した新潟開港の日であったが、新政府は戦争状態であるとしてさらに開港を見送った。しかし、プロシアなどはこの開港延期を認めず、既に外国人は来港して町で商売を始める者もいた。
越後で激しい攻防戦がくりひろげられたのは長岡周辺の中越地方であったが、その裏には主戦力である長岡藩への豊富な武器弾薬補給が新潟湊から行われたことで可能になった。
戦線の延長につれて、武器弾薬の供給がまにあわなくなりがちとなった新政府軍に対し、列藩同盟軍は有利に戦闘を続け、戦闘はかなり長く膠着状態が続いた。
新政府側にはイギリス商人が武器の売却を行っていたが、イギリスと対立するフランスや、プロイセンの商人たちは、戊辰戦争では中立の立場をとるという名目で、旧幕府側にも武器売却を行っていた。
プロイセン人の武器商人ヘンリー・スネルとエドワード・スネルの兄弟が新潟に上陸した。
ヘンリーは会津藩の軍事顧問をしていた。松平容保から平松武平衛という日本名を貰い、衣類も着物を着て帯刀していたという。5月24日の軍議の席で、初めてヘンリーと面識を得た米沢藩総督千坂太郎左衛門は、米沢藩越後口軍の参謀となるように依頼した。これに応じてヘンリーは5月末に新潟へやって来た。
一方、弟のエドワード・スネル(オランダ国籍も取得していたのでオランダ人と紹介される場合もある)は、5月12日、横浜から蒸気船に武器を積み込んで新潟町に到着した。勝楽寺を住居としスネル商会を設立。陸揚げした荷物は寺の本堂に置き片原通四ノ町(現東堀通7番町)の小川屋喜兵衛宅(通称ヤマキ)を店として西洋雑貨の商売を始めた。米沢藩士が昼夜4人ずつエドワードの警備にあたったという。
6月に入って、エドワードは米沢藩を通して奥羽列藩同盟に参加した諸藩へ武器弾薬を売りまくった。これらの武器は前線に運ばれ、新政府軍に対抗できるだけの兵器を同盟軍は手に入れた。入れ替わり立ち替わり諸藩の藩士が訪れ商談を成立させたので、勝楽寺では手狭になり、一番堀通りに倉庫を新たに借りている。米沢藩の色部は6月だけで56,000ドル(米価換算で約21億円)分の小銃や火薬を購入し支払いを済ませている。
7月26日、新政府軍が新潟町の制圧を目指して上陸した時には、エドワードは2隻のイギリスの蒸気船から、取り寄せた新式銃や弾薬を伝馬船で陸揚げしている所であった。エドワードは危うく新潟を去ったが、膨大な武器弾薬や雑貨が残された。新政府軍はこれを戦利品とした。僅か2か月半の間にエドワードが新潟に運び込んだ商品は、14万4417ドル(米価換算で約54億円)に上り、この略奪された商品だけで3万6516ドル(約13.5億円)あったと、後に、エドワードが新政府に対して賠償を請求した際に算出している。

(米沢藩による新潟町の管理)

新潟町の治安は乱れたままであった。思うような統治ができない田中は、新津町に宿営する米沢藩総督の色部長門を訪ね新潟町の統治を依頼する。色部は最初会津藩などを気遣い躊躇したが、田中は新潟町の町民は米沢藩上杉氏を慕っていると説得した。最後に色部も了承し、6月1日、600名の兵を率いて新潟に入った。色部は仙台・会津・庄内の各藩の代表を集め新潟会議所とした。こうして色部長門を責任者とし新潟町の新しい支配がはじまった。
この引継ぎの日、新潟に薩摩藩の砲艦「乾行」と長州藩の軍艦「丁卯」が沿岸の地形を調査したり、水深をはかったりした後、田中廉太郎を艦に呼んだ。田中は米沢藩に新潟の管轄を任せたことを理由に、出頭しなかった。色部が米沢藩兵と会津藩兵を海岸に配置すると、軍艦はそのまま離れていった。新潟の町の町人たちは今にも戦いが始まるかと大騒ぎとなったという。
田中廉太郎はさっそく江戸引き揚げに着手し、2日、組頭松長長三郎ら4人を先発させ、それを見届けて、その翌3日田中は役宅を引き払って、坂田と陸路米沢から水戸を経て江戸に帰る旅に立った。米沢では、新潟町奉行所関係の書類の引き渡しを、水戸では謹慎中の慶喜に新潟湊の取り扱いの報告をしたかった。
新潟には役人19人を残留させた。この役人たちは、新政府の民生局ができるとそのまま採用され、以降、明治新政府で第一次新潟県の役人となり、新潟町の町政を継続して担当している。
6月8日、新潟町の守衛に向かった米沢・庄内の藩士485人が、新発田藩領沼垂町へ着陣した際に、町民4、000人に取り囲まれる騒動が起きた。新潟町から米沢藩兵が派遣され、沼垂の町役人が説得して事なきを得た。この騒ぎは6月に入って、同盟軍に兵を送らない新発田藩に業を煮やした米沢藩が、同盟諸藩と連携して新発田城を攻撃するため城を攻囲したことに町民が抗議し、騒動となったものである。
新潟町の町政は、田中が新潟に残した19人の役人が、米沢藩色部の意向を受けて統治した。乱れていた新潟町の治安は米沢藩によって回復した。しかし、以前の新潟町の活気は失われ、戦禍が近づくにつれて町は沈滞していった。信濃川には上流の戦場から死骸が流れて来た。町民の中には、近在の親戚の所へ家財道具を運び出す者や、避難する者もいた。

新政府軍は戦局を一気に打開して優位に立つための、新潟港を抑えて列藩同盟の補給路を断ち、対戦している長岡藩の背後を突く戦略を採用した。
7月25日、新政府軍は太夫浜に新政府軍兵士1000人が上陸し、二手に分かれ、新潟町に向かった一隊は信濃川河畔に到達し、砲撃を開始した。砲撃による攻撃が激しくなる中、
7月29日、新潟町は新政府軍が占領し、色部は戦闘で死亡している。名ばかりではあったがこの日をもって、幕府新潟奉行所による統治が終了した。新政府は、旧奉行所に民政局を置いて統治を開始した。

🤩田中廉太郎

文政11年(1828)5月26日〔生〕 - 明治19年(1886)8月31日〔没〕58歳
本名 光儀 廉太郎は通称である。
文政11年(1828)5月26日、代官手代八戸厚十郎の子として武蔵国で生まれる。
嘉永4年(1851)、浦賀奉行所御番代の田中信吾の養子入り。
嘉永6年(1853)、下田に黒船で来航したマシュー・ペリーとの交渉に尽力した。
嘉永7年(1854)4月10日、田中家の跡を継ぐ。
文久3年(1864年)、第2回遣欧使節(横浜鎖港談判使節団)に、勘定格調役として随行。
廉太郎はその経歴からもわかるように、先見性にすぐれ、困難な状況でも時機に応じた対応能力に優れていた。
慶応元年(1864)、白石千別奉行の下で、組頭として江戸から赴任する。
慶応4年(1868)閏4月1日、新政府から新潟奉行勤向に任じられる。
6月1日、米沢藩への新潟町の預領仮渡しも、会津藩には絶対に渡せないという、政治的な判断から生まれた策である。
引き渡しが終わると、田中は時機を置かず、江戸へ向け出立した。
6月2日には、組頭松長長三郎と広間役小宮山藤太郎、増田勝八郎、並役氏家春之助の4人を先行させて米沢藩に向け出立させた。
6月3日、田中廉太郎は、並役坂田鉄太郎を同行し米沢に向かい、先行組と米沢で合流する。米沢では、新潟仮引き渡しの書類を手交し、徳川慶喜の謹慎している水戸に向かい出立した。
6月28日、安藤家の磐城平藩に到着すると、磐城では新政府軍と同盟軍が激戦を繰り広げていて、この先進むことは困難な状況であった。
田中は、自身は列藩同盟側の安藤家の平城※地図に入ることとし、松長長三郎ら5人に対しては、一旦新潟へ戻り、便船を得て江戸へ帰るよう指示した。
7月13日、平城は落城したが、田中は、それまでに機を見て脱出したという。海辺に出て、一隻の漁船を手ずから操り海に逃れ、波頭のうちに漂流していたが、英国汽船に認められ、救助されて難なく横浜に赴き、上陸して無事江戸に帰還し隠居した。
明治政府の下で、大隈重信から行政能力を認められ、大蔵省監督大佑として出仕、その後久美浜県(現京都府)権大参事、同県大参事、統合により豊岡県権参事、同県参事を歴任し、明治8年(1875)7月に官を退いた。

🤩松長長三郎

文政9年(1826)?〔生〕-慶応4(1868)年7月28日〔没〕42歳

実父は八王子の千人同心頭の原半左衛門であった。松長の家の養子となり、8代目長三郎信美を継いだ。
慶応元年(1864)、白石千別奉行の下で、組頭として江戸から赴任する。
慶応4年(1868)6月28日、安藤家の磐城平藩で、田中廉太郎と組頭松長長三郎以下4名の一行は別行動することとなった。松長たちは、田中の指示で新潟に戻ることとなった。
松長たちは、7月13日に新潟町に辿り着いた。新潟湊には、新潟に荷物を降ろし、横浜へ向かう外国船が入ることがあったが、折悪しく、松長たちが着いたときには、出港する船の予定はなかった。
同盟軍側では、新潟を一度は出て行った松長たちが、なぜ舞い戻ったのか不審に思った。同盟軍側に投じて、新政府軍と戦うよう求めたが、松長らは、田中から徳川家の意向として、局外中立の立場をとるよう指示されていると弁明し、応じなかった。同盟軍では「定めし内通の事あるに相違ない」として7月17日から松長を拘束した。
7月28日、松長が仮菩提寺に定めた法音寺に行くと言って出かけ、途中、空き家となっていた村松藩の蔵米を管理する陣屋で自決した。配下の小宮山宛に遺書を託した。遺書には、自決の理由に触れておらず、その意図は判明しない。
ここからは推察であるが、松長家は三河で徳川家康に仕え、家名は、初代長三郎信武が家康からつけてもらったものであった。それ以来徳川家に仕え、長三郎信美は8代目であった。
徳川家存亡の折、本心では同盟軍側に投じて、官賊の薩長に一戦し報いたい思いが強かった。しかし、表面上は田中廉太郎からの指示もあり、また田中が去った後、奉行所の最高責任者という立場であり、自分勝手な行動はとれなかった。
新政府軍側からの砲撃が激しくなる中、明日にでも新潟町が蹂躙される事が考えられた。
徳川家のために何も行動できない長三郎は、祖先に対する自責の念からか、徳川家に対して忠節を尽くすためか、自身の心の中だけで折り合いをつけ、自決するに至った。残された遺書には理由は触れられていないが、立場上書けなかったものと思われる。何も書かずとも残された家族には長三郎の気持ちは十分伝わると考えたと思われる。遺体は、法音寺※地図に仮埋葬され、その後家族によって火葬され、法清寺に埋葬された。
余談であるが、配下で長三郎と行動を共にした広間役小宮山藤太郎、増田勝八郎、並役氏家春之助、坂田鉄太郎は、その後、新政府民生局に採用され役人としての職務を継続している。

松長長三郎

  • 〔墓所〕 東京都台東区下谷1丁目8−22 法清寺 ※地図

第6代目新潟奉行 榊原主計頭




色部長門












戊辰戦争






田中廉太郎

古屋佐久左衛門

今井信郎

市川弘美(三左衛門)

黒田清隆

E.スネル







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