村松藩と戊辰戦争 五泉市
【村松藩】釘抜き紋 この時、直竒の二男直時が加増された安田の3万石を分地し、安田藩を立藩した。直定も寛永19年(1642)3月1日にわずか7歳で早世した。跡継ぎに直時を擁立する動きもあったが認められず、無嗣断絶となり、村上藩は廃藩となった。この時、直奇の功績を惜しみ、支藩である安田藩の存続は許された。 正保元年(1644)、安田と村松の領地替えが行われ、二代直吉は村松の上杉氏古城を改修して陣屋を新築し、安田から移り、村松藩と改めた。領地は越後国蒲原郡のうち、村松・下田・七谷・見附地方の山間部にあり、財政的に安定しているとはいえない小藩であった。 財政改革という名目での百姓からの収奪が行なわれたため、文化11年(1814)には村松藩全土で百姓一揆が勃発した。 第9代藩主・堀直央の時代である嘉永3年(1850)2月に城主格が与えられ、村松陣屋は城に改修されることとなった。直央は嘉永6年(1853)から藩政改革に取り組み村松縞をはじめとする織物・紙・筆・茶そして村松焼などの生産を奨励し、産業の振興を図る。幕末には尊王を主張する正義派と旧守派が対立、正義派7名が処刑された(村松七士事件)。正義派は12代藩主直弘(なおひろ)を擁立することに成功、直弘は新政府に帰順した。1871年(明治4)の廃藩置県により、村松県を経て新潟県に編入された。 村松藩堀氏の系譜村上藩主堀直竒の父直政は元は尾張中島郡奥田庄の出身。奥田氏は、もとは鎌倉末期から建武の新政、南北朝時代にかけて足利尊氏のもとで活躍した斯波氏の一族であった。直政の父直純が堀秀政の祖父堀利房の娘の婿となったことから、奥田姓から堀姓に名乗りを改めた。しかし直政は由緒あるこの奥田姓を捨てず使用していたという。 直政は従弟となった堀秀政の執政となりこれをささえ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と乱世を渡り歩いた。直政は堀秀政の死亡後もその子秀治を支え、秀治は越後に領国を与えられるほどの大名となっている。(☛ 越後堀家・堀直竒) 【村松城】二代直吉は、上杉謙信時代、土地領主の居館であったものを改修して陣屋を新築し、安田から移った。寛延3年(1750)、直吉は新たに書院、広間、内証を普請したが、下って嘉永3年(1850)2月九代堀直央の時、城主格が与えられ、再び陣屋の改修を行った。主郭の周囲には帯曲輪を巡らせ、郭内に枡形門や大砲座も築くなど、新規築城に匹敵するものであった。そしてこの改修後、村松陣屋は村松城と公称された。 内堀にかこまれた方形の主郭の内部に、一部二階座敷をもつ御殿建物などを配し、主郭の南には御外庭を造園し、南御殿などを設けた方形の一郭があった。※写真 慶応4年(1868)、村松藩は藩論が二分したまま初めは奥羽列藩同盟に参加するが、新政府軍に攻められて藩主直賀は城に火を放ち米沢に逃亡、残った恭順派は義弟直弘を12代藩主に擁して藩の存続を図った。 陣屋は昭和62年(1987)に村松城址公園として整備され、村松城の歴史資料を展示する村松歴史資料館や民具資料館が立つ。堀跡と土塁が遺構として残されている。 【戊辰戦争】(堀直賀の藩主就任)第10代藩主直休は安政4年(1857)父直央の隠居により家督を相続した。しかし、万延元年(1860年)在位僅か3年で死去する。直休には嗣子の徳次郎直張がいたが、死去の時、当歳であったため、直賀が養子となり、直張が元服するまで、藩主を勤めることとなった。村松領内では直張が元服するまでの中継ぎであり、仮殿様と呼ばれ、直張は若殿様と呼ばれていた。(恭順派と佐幕派との藩論分裂)村松藩は尊王攘夷を主張する近藤貢を中心とした正義派(恭順派)と、主席家老堀右衛門三郎を中心とした保守的な佐幕派に分裂して藩論は二分し大混乱を極めた。もともと藩士達の中には尊王思想が広まっていたが、会津藩からの外圧もあり、佐幕派が藩政の主流をなすようになった。村松藩は幕末から会津藩の影響を最も受けていた小藩であった。そんな中、慶応2年(1866)11月、恭順派の藩士7名が処刑されるという事件が起きた(村松七士事件)。 慶応4年(1868)1月6日、会津藩の使者木村熊之進、芝守三の両名が村松を訪れ8日間村松に滞在した。家老堀右衛門三郎、軍事方矢部万平、奥畑伝平衛等と会談し、会津藩は朝敵となり表立って行動ができないので、村松藩から徳川家存続のため越後諸藩に対して働き掛けを行い、同盟して嘆願書を提出してほしい旨申し入れをしている。村松藩では、会津藩の意向を受け越後諸藩に対して働きかけを行い、各藩の動向を探ろうとした。 1月8日、堀右衛門三郎は稲毛源之右衛門を「軍事掛」に任命し、今後の非常事態に備えて藩の軍事体制の整備に力を入れた。 1月23日、稲毛配下の軍事掛下役坪井静作を会津藩に派遣、庄内藩士を交えての三者会談するなど、会津藩と連絡を密に取り合っている。 会津藩が、新潟湊の取り扱いについて諸藩で会談を行いたいと、新発田藩に案内状を送付した際も、村松藩の軍事掛斎藤久七が長岡藩士・会津藩士と共に名前を連ねている。この酒屋会談は2月2日に開かれた。 この前日の2月1日、旧幕府がその支配地を会津・米沢・高田・桑名四藩の預地とすることを命じた。これにより会津藩の越後での活動が更に容易に活発になった。村松藩では佐幕派が主流派として力を得たが、地政学的に会津藩と長岡藩に藩境を接するため、長岡藩の意向も無視できず、長岡藩の政治情勢がはっきりしない中では、恭順派も一定の力を持ち藩論はいまだに流動的であった。 2月13日、新政府の勅書が到着すると直ちにこれを受け入れ、3月10日老臣野口彦兵衛を高田に派遣し、請書を提出させた。その際、野口は途中長岡に立ち寄り同藩と協議を行ったうえで、高田へ同道している。村松藩の新政府に対する態度は他の越後諸藩と同様きわめて曖昧なものであった。 3月16日、激動する政治情勢を把握するため、軍事方の稲毛源之右衛門、坪井静作を長岡藩に派遣し協議している。 3月24日以降、藩士の軍事訓練が重視され、村松藩では高島流銃砲稽古が実施された。また藩士の訓練とは別に、領内各組ごとの高島流銃砲稽古にも力を入れ、4月から指導役を廻村させるようになった。 3月下旬会津藩の秋月悌次郎が幌役(参謀役)に任命され、越後口総督の一ノ瀬要人に従って越後水原に入っている。また4月1日、旧幕府歩兵隊隊の衝鋒隊が新潟町に入る。 4月3日、衝鋒隊古屋作左衛門、会津藩参謀秋月悌次郎、長岡藩家老河井継之助、村松藩士片岡九左衛門が新潟に集まり、徳川慶喜の助命と徳川家の存続を新政府に嘆願するための会談を古屋が議長となって行った。(古屋の記録のみで、実際には行われていない可能性がある) 閏4月5日、北陸道総督府から越後諸藩へ会津征討に参加せよととの通達があった。村松藩では藩士を新発田・村上両藩に派遣して、協力して会津征討への参加を遅らせる事を話し合っている。この頃、会津藩から、列藩同盟に参加し会津藩赦免の嘆願書提出するよう要請があった。 5月6日、新発田藩で、米沢藩を交えて村松・新発田・村上・三日市・黒川の五藩が集まり会津赦免願の件で会議がもたれたが、この席で、米沢藩からの強い要望で、奥羽二五藩と行動を共にすることとなり、奥羽越列藩同盟が成立する。(長岡藩は5月4日に加盟を表明。新発田藩は当初加盟を断っていたが17日に加盟。) (同盟軍の一員として長岡派兵)5月10日、藩の危機的場面にいたって、奥羽列藩同盟への加入をめぐって勤王派から強い反対意見が出て激論が戦わされた。家老堀右衛門三郎が反対派の藩士たちに従来の経過を説明して説得し派兵に至った。勤王派の中心人物は近藤貢、狩野与右衛門、小玉牧太、水野伹見、鈴木半蔵、伴郷右衛門、林九八郎、児島達らであった。5月13日、列藩同盟の成立に従い、村松藩に対し同盟方から出兵の催促があった。 5月14日、本格的に長岡方面に出兵し、総督笹岡豹五郎、軍目付奥畑伝平衛、剣持多官、軍事方坪井静作、林弘助と松井隊・松尾隊・工藤隊およそ150~200名が、長岡城下安善寺・正覚寺に宿陣し、16日、長岡城下の草生津・妙見方面で守備についた。 (長岡城落城)5月19日長岡城が落城。この時、村松藩兵は、長州兵が信濃川を渡河し攻撃してきた際、長岡藩兵を誤射するという失態を犯している。総督笹岡豹五郎、軍目付奥畑伝平衛らは兵をまとめて長岡城に籠城して、防戦したが、落城のためその日の内に村松へ引き上げた。村松藩兵は帰城すると直ちに書院大広間に於いて政府軍に恭順か抗戦かの大評定が開かれた。総督として参戦した笹岡豹五郎や近藤貢らは、軍事的には到底同盟軍の勝利の望みがないから、無益の騒乱を避け降伏し、恭順尊王の実効をあげんことを主張した。 藩の家老堀右衛門三郎、軍目付奥畑伝兵衛ら主流派は、藩が奥羽列藩同盟に加盟している関係上降伏恭順を拒み戦争を続行することを決定した。 しかし家老堀右衛門三郎は表面上大義のために戦うことを主張しているが、今同盟軍の傘をはなれては、村松藩は存立できないという思いが実情であった。 この19日には、米沢藩の本隊が長岡を目指して南下していたが、そのうちの一隊甘糟隊は水原から村松を目指した。村松城下のただならぬ様子から長岡城の落城を知り、非常な驚きと共に、新津に駐留する色部総督に連絡するため、早駕籠で村松をたったという。 5月20日、村松藩は新政府軍の侵攻に備えて、士分二小隊と卒三小隊を黒水、鹿峠、長沢方面へ出兵させ警備を命じた。 (加茂軍議)5月22日・23日、同盟軍は加茂会議所(米沢藩本陣)において、同盟軍の兵力配置や兵糧の運送方法に関して軍議を開いた。村松藩からも家老森重内、用人田中勘解由、近藤貢、稲毛源之右衛門らを出席させた。米沢藩の甘糟参謀の提案で、同盟軍を三分し、米沢藩兵は中条豊前を総督として大面から見附へ進軍する。会津藩一ノ瀬要人は会津・桑名・村上・上ノ山等の兵を率いて与板を攻略する。河井継之助は鹿峠で長岡・村松兵の総督として黒水・長沢より見附へ進撃することを決定した。 この席上、近藤貢と田中勘解由は長岡藩総督河井継之助と意見が合わず激論が戦わされた。河井は、二人に対して、長岡での戦いの折、村松藩は戦闘において尽力せず先ず走り、隊長以上に一人の戦死者もない。また敵の遺棄せる武器に往々堀氏の紋章が見られた。その有様は二心ありと疑うに十分であると舌鋒鋭く責め立て、村松藩がどこまで同盟軍に忠誠を誓っているか疑わしいなどと厳しく非難した。会津藩もまた、これに同調し、村松藩に対する激しい疑念をあらわしたので、これに耐えかねて田中勘解由は席上で自刃を企て、参会者に止められるという事態になった。結局、米沢藩の甘粕継成らのとりなしでこの場は収まった。これにより村松藩は同盟軍と命運を共にすることを新たに宣言することになった。継之助のいう堀氏の紋章とは、新政府軍の一員として参戦した、村松堀氏と同族の信濃須坂藩の堀氏の遺棄したものであったという。 しかしながら、同盟軍に味方することに頑強に反対しながら藩命で参戦していた近藤貢は黒水の本陣に帰ると、長子安五郎及び家来を集め「勤皇の大義を忘るる勿れ」の語を残して自刃して果てた。これに続いて、郡方下役五十嵐関八、吉田又内も藩の同盟軍への参戦の非を憤慨して次々と自刃して果てた。(村松三士という) この事件があったことで、村松藩はこの後、微妙な立場に立たされる。 5月24日 、嗣子堀徳次郎直帳が、遊学の名目で矢部万平らに守られ米沢に旅立つ。6月2日には米沢に到着し、直江兼続創建で米沢藩子弟の学問所となっている法泉寺に入った。同盟軍に対する態のよい人質であった。 (村松藩裏切りの流言)
5月19日、長州藩による信濃川渡河が行われたが、上陸してきた長州藩兵と、内川橋をはさんで、長岡藩少年兵との間で銃撃戦が行われていた。この時内川橋北方の安善寺に宿陣していた村松藩兵が敵兵と誤って、少年兵たちを背後から銃撃したので、少年兵たちは村松藩が裏切ったと慌てて潰走した。 村松藩が裏切ったという流言が、長岡藩兵の敗走を早め、しいては落城を早めてしまったと河井継之助は考えていた。また一旦栃尾に兵を撤退したのも、北方の村松藩から攻撃を受けると、新政府軍との間で挟み撃ちになることを恐れたからである。 継之助が加茂軍議の席上、このことを持ち出し村松藩を責めた。村松藩から出席していた用人の田中勘解由は、疑いをかけられた主家の汚名をそそぐため、その場で自刃を図った。また恭順派であった軍監の近藤貢は、黒水の村松藩本陣で自刃した。 (要衝赤坂峠の攻略)長岡に出陣し妙見の前線に出撃していた片岡隊は、長岡城落城後、長岡・会津・桑名の藩兵とともに山道を経て杉沢に引き上げ、5月23日、長岡から敗退してきた兵も合わせて塔ヶ峰・堀溝に陣を敷いた。5月24日、これに対して長岡城攻略の勢いに乗り見附から進んだ薩長などの兵は、杉沢を占領し、25日は赤坂峠を攻撃してこれを破り、松代藩兵に守備を命じた。(☛ 杉沢の戦い) 同盟軍は、鹿峠まで撤退する。そして28日、同盟軍は鹿峠・長沢方面に兵力を終結させ、赤坂峠突破の作戦を立てた。 6月1日朝、赤坂峠の新政府軍に総攻撃をかけることになった。この戦闘には村松藩の主力が参加し、死者7名を出したといわれている。この戦いでは、継之助に「村松藩では隊長以上で戦死した者がいない」と言われ、自殺的な戦死を遂げた者もいた。恭順派の藩士たちは『忠義とは自分の命を捨ててでも、仕えている主君と主家を守ること』と考えることで、戦闘を遂行し続けた。 この時、河井継之助は今町を奇襲してこれを占領した。この結果、赤坂、杉沢にあった新政府軍が退却した為、この付近にいた村松藩兵は本陣を見附に移し、各方面の同盟軍に援兵を派遣することが出来るようになった。(☛ 赤坂峠の戦い詳細) 7月25日、新政府軍は同盟軍側の警備の手薄な新潟近郊の松ケ崎浜、太夫浜に上陸した。 7月27日、新政府軍が新潟に上陸し、村松藩に危機が迫ったので、村松藩は再び大混乱に陥った。藩主は、藩主・藩士の家族に避難を命じた。この日、前藩主堀直休の奥方仙寿院(弘子の方)と直休の弟で9歳になる貞次郎(直弘)は蛭野の慈光寺(※地図 ※ストリートビュー)に退避した。 この頃米沢藩士松本精蔵が村松へ来て藩主以下に面会し、直ちに米沢へ投ずべきことを勧めた。 (長岡城再落城と村松城炎上)7月29日に長岡城が再落城し、米沢藩が越後からの撤退を命令するなど、同盟軍が総崩れとなる中、村松藩は敗兵を見附に集結させ全軍村松へ引き揚げた。藩ではこのまま同盟軍に従うべきか、即時に新政府軍に恭順するか、藩論は二分し、最後の苦しい決断を迫られた。8月1日、城中で、大評定を行い藩の態度を協議した。その結果、村松に藩の力だけでは城を防御することは不可能であると判断し、衆議の結果、藩家老堀右衛門三郎ら抗戦派家臣団は、米沢藩の勧めもあって、藩主堀直賀の村松撤退、米沢避難を決定した。 藩主堀直賀は家老堀右衛門以下百名の家臣に伴われて、ひとまず谷沢村(東蒲原郡阿賀町)に退いた。谷沢村は会津藩領で会津藩の本営が置かれ、越後国内の戦況情報が入って来た。 慈光寺に避難していた仙寿院、貞次郎らは佐幕派の家老堀右衛門三郎から米沢に向かうよう強く求められたが寺にとどまった。 同日、勤王派の水野但見以下150~160人は、当時蟄居中の小川平治右衛門と談合して滝谷慈光寺に赴き、仙寿院・貞次郎を擁立することとした。 一方近藤安五郎はこの時見附にいたが逸早く新政府軍の軍営に赴き投降、勤王派の貞次郎を藩主として認めるよう嘆願して承諾を得た。安五郎は直ぐに慈光寺に向かいその旨を告げた。反主流派の村松藩士は貞次郎を擁立して、村松藩の存続をはかろうとひそかに新政府軍に接触していたのである。 他方会津・桑名藩の兵士たちは同盟軍総崩れの後も、新政府軍との戦闘を続けていた。8月2日三条で敗戦後、会津藩越後口総督一ノ瀬要人の指揮で村松城で新政府軍の侵攻を防ぐ作戦をたてた。 8月3日、この情報が谷沢村に入ると、会津藩に促される形で、村松藩の森隊・野口隊・青木隊が村松に引き返した。 8月4日、新政府軍は水原本陣から阿賀野川左岸に残っている会津兵の残兵を掃討するため、三国街道(山手通り)分田宿の船着場※地図 に兵を送り出した。阿賀野川を渡河し五泉方面に進撃、五泉の沼津藩陣屋を制圧し、五泉町庄屋吉田延之助方に本陣(官軍会議所)を設営した。(※地図 ※ストリートビュー) 同盟軍側は、五泉方面から進軍してきた新政府軍と戦闘状況になり、村松城は落城、同盟軍側が焼土作戦をとったので、城下は焼失した。藩主堀直賀一行は、会津藩領谷沢村を出て津川町を経て、越後口視察のため野沢宿本陣※地図に出張中の松平容保へ面会の上、檜原峠を経て、8月14日米沢に入った。青蓮寺を本陣と定め東源寺・禅透院等それぞれ市中に分宿 した。 (正義派による降伏恭順)同じ4日、仙寿院と貞次郎らは、会津、桑名藩兵同盟側によって、刺客を送られることを恐れ、新政府軍に投じるため慈光寺を離れる。8月5日、仙寿院と貞次郎は小川平次右衛門、近藤安五郎、水野伹見ら家臣200人を率いて五泉の新政府軍本陣に降伏を申し入れ、謝罪書を提出する。貞次郎らは直ちに五泉の沼津藩陣屋(現在の五泉市本町6丁目付近にあった)で謹慎を命じられ、新政府の保護下に置かれた。 8月8日、新政府軍五泉会議所は「正義党」を会議所用掛・村松市中取り締まり方に登用するとともに、翌9日には村松藩兵の軍事編成を認めた。 8月11日、村松軍は水野隊、長野隊、箕浦隊を組織し、近藤安五郎を参謀、水野鼎輔を監察として勤王の実意をあらわすために津川口征討の先鋒を命ぜられ、会津藩越後口総督一ノ瀬要人に率いられた会津藩兵の防御する沼越峠※地図を懸命に攻撃した。会津藩兵は五十島方面へ撤退した。村松藩兵はこの後、新政府軍の一員として会津征討に向かい、村松藩兵が国元へ帰ったのは10月13日であった。 8月15日に、貞次郎は新政府軍本陣を訪ね、五泉に到着した会津征討越後口大参謀西園寺公望に面会し、西園寺から沼越峠での戦いの功績から、村松藩兵の勤王の志が確認されたとして、貞次郎(直弘)の謹慎が解かれ、新政府より貞次郎(直弘)を第12代藩主として家名存続、本領安堵を許された。 8月17日、堀貞次郎(直弘)、仙寿院は小川平次右衛門等家臣と共に村松に帰り、南御殿に入る。城下は喜びに溢れたという。 8月28日、米沢にあった村松藩兵は米沢兵と共に藩境大里峠の守備に就いていたが、新政府軍からの説得に応じ、米沢藩が降伏の申し入れを北陸道鎮撫総督府に行った。 9月17日、堀直賀は堀右衛門三郎・稲毛源右衛門と謀り、笹岡豹五郎をして謝罪書を米沢に進駐した政府軍参謀土佐藩板垣退助に進達せしめ、降伏を申し出、武装解除される。堀直賀は貞次郎にお預け謹慎を命ぜられた。 10月11日、堀直賀ほか抗戦派兵士たちは、新発田藩兵の護衛で村松に送り返されたが、途中、矢部万平は自刃して果たさず後病死し、稲毛源右衛門は五十公野にて自刃、軍事方坪井静作は五泉にて自刃、同じく前田又八は村松城帰城後自刃した。 抗戦派藩士の帰還が送れたのは、村松藩が会津征討の一員として藩士を送り出し、藩の受け入れ態勢が整っていなかった為といわれる。 10月19日に至って直賀は村松に帰城、翌日交戦派藩士も村松に帰り、清水寺・正福寺等に収容された。 明治元年(1868)12月7日、新政府は奥羽越の”朝敵諸藩”に対して一斉処分を発令した。村松藩に関しては、堀直賀に対して家督を貞次郎に譲り、隠居するように命じている。 堀右衛門三郎・片岡九左衛門は明治2年東京に護送され弾正台(後の司法省)の取り調べを受けたが、九左衛門は死を免れ、右衛門三郎は罪科最も重き故を以て再度村松へ送り返された。 明治2年(1869)5月24日、右衛門三郎と軍事掛斎藤久七は戦犯として斬首され、ほかにも4名が獄死した。 村松藩では7士を入れて20名の殉難者を出している。 軍事方稲毛源之右衛門の最後新政府軍の一員として戦った新発田藩は、米沢城下に入城後の9月14日、会津藩や庄内藩攻撃のため兵を振り分け、米沢城下に残った一隊は、同盟軍として藩主と共に米沢にあった村松藩士の武装解除を行った。その人員「423人 刀416腰 小銃118挺」といわれている。米沢城下で降伏した村松藩士は、新発田藩兵に護送されて国元へ帰ることとなった。 国元の正義党は「堀左京亮(直賀)謝罪の嘆願」を総督府に提出した際、罪に問うべき徒の名簿を同時に提出した。 この中に軍事方稲毛源之右衛門も挙げられていた。一行は国元へ護送の途中、新発田城下五十公野来迎寺※地図に一泊した。稲毛は村松へ帰って極刑を受けるよりはと思ってか、10月18日、来迎寺の便所で割腹自刃した。 その際、はらわたを掴みだし、振り回したのであたり一面天井や、腰板、戸の表面まで鮮血に染まった。 現在も寺の便所にはその血痕が黒々としみついて残っているといわれる。 稲毛は急進的な佐幕派で、家老の堀右衛門三郎の側近であった。七士事件でも藩の中枢が躊躇する中、強硬的断罪を主張している。 鳥羽・伏見の戦い後、会津藩士が村松藩を訪れるなど、その影響が強まる中、家老堀右衛門は軍制の整備を進めた。慶応4年(1868)1月8日、稲毛は軍事掛りに任じられている。 会津藩・米沢藩との連絡調整に中心的な役割を担い、同盟軍の一翼として作戦行動を指揮していた。 長岡城落城後加茂で開かれた軍議に田中勘解由などと共に軍事方として出席し、同盟諸藩との連携を模索している。 ☛村松藩の戊辰戦争(2) 村松七士事件 へ ☛赤坂峠の戦い |
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