村松藩と戊辰戦争(2) 五泉市



村松七士事件

万延元年(1860)3月3日、桜田門外で大老井伊直弼が暗殺された。襲撃者の内大関和七郎・森五六郎・杉山弥一郎・森山繁之介の4名は熊本藩・細川家へ趣意書を提出し自訴した。
3月7日に襲撃者を各藩に分けて禁錮させ、取り調べが行われることとなった。村松藩はこのうち水戸浪士杉山弥一郎を預かることを命ぜられた。
下野勘平がその監視を命ぜられ、堀祐元、佐々耕庵も医師として、杉山から尊王の思想を聞き、大いに感銘を受けたという。これを機に8人の同士が集まり尊王の方向に意見が一致したという。

万延元年(1860)11月1日、堀直賀が先代藩主・直休の末期養子として家督を継ぐ。直賀は側用人稲垣覚之丞を通して尊王の士の話を聞き、大いに同感したという。直賀が尊王の士の背中を推した形となり、尊王思想は村松藩の藩士の間に広まり、下野勘平、岡村定之丞、稲垣覚之丞、山崎弥平、中村勝右衛門、佐々耕庵、泉仙介らは「村松七士」といわれた。ただ、直賀は、当時、幕府や薩摩、会津などが中心となって進めていた公武合体の政策を進める範囲内で尊王思想に対する理解を深めようとしていた。

文久2年(1862)、藩主直賀は幕府から参勤交代の制を緩められ、武備の充実をはかるよう指示される。
直賀は、一度京都へ行き朝廷に公武合体の大義をのべようと欲したが、京都近辺の事情ががわからず元治元年(1864)3月、佐々耕庵、泉仙介らを派遣した。かれらは京都で紀州里見次郎、長州高杉晋作、筑後真木和泉などの尊王の志士たちと交わりを結んだ。
元治元年(1864)7月19日の禁門の変が起こり、長州藩は敗れて逆賊となった。幕府側で主要な役割を担う会津藩は、文久2年(1862)8月1日から京都守護職を務め、徳川幕府に反する尊王派浪士を徹底的に取り締まっていた。
公武合体論は、各藩の思惑が優先して、絵にかいた餅となり、幕府と朝廷のどちらかを優先させるかで、対立が激化していく。
村松藩は会津藩と藩境を接し、その意向を無視することはできなかった。藩論は急速に佐幕的となり、堀右衛門三郎が藩内における主導権を獲得することとなった。

翌慶応元年(1865)5月、蒲生斉助が直賀に尊王の大義を説くと、堀右衛門三郎は蒲生済助の罪を糺し、自宅で謹慎の処分にした。
慶応2年(1866)11月、尊王派を処断する具体的な名目が無く処置に困った堀右衛門三郎は稲毛源之右衛門の「長谷川鉄之進は聖護院宮の御内と称しているが実は長州の残党である。長州藩は現在京都守護職として幕府権力の中枢にある会津藩と敵対しており、この賊と結ぶことは大罪である」という献策を入れ、尊王派の弾圧に乗り出した。下野勘平、佐々耕庵、岡村定之丞、稲垣覚之進、山崎弥平、泉仙介の6人を、幕末の勤皇家で長州・薩摩と深い関係のあった長谷川鉄之進と密議したかどで捕縛した。

慶応3年(1867)5月19日、堀右衛門三郎は、下野らを処刑する際に、藩内の動揺を抑えるため会津の手を借りるのが良いと考え、斎藤久七、前田又八等を会津に派遣しその処分を請わしめた。会津藩は木村兵庫、茅野安之助、土屋鉄之助を村松に派遣した。

下野らの罪状は「反賊ト交通シ、其逆謀ニ興ス」というもので佐々耕庵、泉仙介は牢屋で斬首、下野勘平以下は家老の堀主計の邸で切腹に処せられた。中村勝右衛門は最初その罪を問われなかったが自身が同盟者たることを自訴し刑を受けた。蒲生済助は謹慎中であったので難を逃れた。佐々耕庵は医師、泉仙介は足軽であったため切腹を認められなかった。
尊王七士が処刑され、尊王論者たちは大打撃を受けた。村松藩はこれ以後、藩論が佐幕派にまとまり、北越戦争への道を突入していくのである。

村松七士之碑

  • 〔所在地〕 新潟県五泉市村松甲5958 住吉神社
    碑に刻まれた七士の名前
    稲垣覚之丞・佐々耕庵・下野館平・岡村定之丞・山崎弥平・中村勝右衛門・泉仙助


村松三士

村松七士の事件以降、村松藩内における勤王論は大きな打撃をうけたが、下級武士の間で浸透し、堀右衛門三郎ら主流派に対して、反主流派をなし、右衛門三郎もその影響を無視できなかった。
近藤貢は郡奉行として、勤王の実効を主張していた。
5月22日の加茂の同盟軍会議所へ家老森重内の用人田中勘解由、軍目付稲毛源之右衛門ららとともに出席した。この席上で、近藤貢は長岡藩の総督河井継之助と大激論となる。
河井や会津藩は、薩摩と長州が朝廷を利用し、権力を我が物にしようとして、是まで朝廷に尽くしてきた会津藩を誅伐しようと兵を進めている。その実質は官軍ではなく官賊であると主張した。
5月23日、近藤貢は黒水の本陣に帰り部下を集めて「大義ヲ忘ルルコト勿レ」と遺言して自刃した。41歳。
6月2日、郡奉行の下役五十嵐関八は堀右衛門三郎に会い出兵の非を諫言したが顧みられず、その後上役の郡奉行野口嘉内の家で論争となり、五十嵐はその家で自刃して果てた。46歳。
同じ日、吉田又内は一隊の輺重を率いて出兵していたが兵糧の欠乏を藩に報告し、すみやかに恭順することを進言した。藩の重臣たちは一顧だにせず論争となり、自宅で自刃している。57歳。
近藤貢、五十嵐関人、吉田又内が相ついで出兵の不可を論じて自刃した。これを村松三士とよんでいる。




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