米沢街道~米沢藩の戊辰戦争 関川村



 米沢街道 新発田藩の戊辰戦争

≪梨の木峠の戦い~ 榎峠の戦い≫


新潟湊での米沢藩兵の敗退と新発田藩の新政府軍への帰順を知った米沢藩は、8月1日、長尾権四郎を大隊頭とする部隊を下関から出動させ、新発田藩討伐を開始した。長尾権四郎は下越方面に展開する米沢藩兵の中心的な指揮官であり、その下には飯田与惣右衛門らの諸将がいた。8月5日には軍監小川源太郎が、豊野金七隊、福王寺松次郎隊、山下桂助隊、加藤運吉隊、山岸哲蔵隊の5個小隊を率いて中条方面へ進出し、庄内藩中村隊、村上藩兵と合流して新政府軍を攻撃した。新政府軍側は芸州藩兵と新発田藩兵を中心に中条を守っていた。
8月7日未明、米沢藩小川源太郎隊を中心とする同盟軍は中条の新政府軍陣地を急襲した。新政府軍では芸州藩兵半小隊を率いていた川村常之進が戦死し、新発田藩兵も敗れて三日市方面へ後退した。しかし、新発田城を本営とする新政府軍は薩摩・長州を中心とした増援部隊を投入し、戦力を立て直した。
このころ米沢藩側では、中越戦線の敗北と新潟陥落の報を受け、当初の「新発田藩討伐」から「米沢藩境の防衛」へと作戦方針を変更した。下関を直接守るのではなく、下関へ通じる要地に兵を配置して新政府軍の進撃を遅らせ、その間に中越戦線から帰還する主力部隊を再編するという遅滞戦術である。
新政府軍は新発田から米沢藩領へ向けて二方面から進撃した。本道軍は米沢街道を中条・佐々木・花立・貝附から下関へ向かい、間道軍は菅谷・鼓岡・坪穴・梨ノ木峠を経て下関へ向かった。史料によって編成には違いがあるが、間道軍には新発田藩兵、高鍋藩兵、徴兵隊十二番隊、岩国藩建尚隊一番隊などが配置された。徴兵隊十二番隊の隊長は岡村喜兵衛、岩国藩建尚隊一番隊も進撃部隊として行動した。

梨ノ木峠の戦い

米沢藩側では軍監登坂右膳が数個小隊を率いて坪穴・夏井・梨ノ木峠・黒俣方面に陣地を構築した。8月8日にはさらに4個小隊が援軍として到着したとされ、梨ノ木峠周辺の防衛態勢を強化した。小川源太郎隊の一部である山岸哲蔵隊もこの方面に展開し、山岸哲蔵は大筒隊を率いて新政府軍の渡河攻撃に備えた。
8月10日、新政府軍の菅谷道軍は鼓岡を出発し、胎内川へ進出した。先鋒には岩国藩建尚隊一番隊、中央には徴兵隊十二番隊、左翼には新発田藩兵1個小隊が配置された。徴兵隊十二番隊を率いた岡村喜兵衛、岩国藩兵などが胎内川を渡河して夏井方面へ攻撃を開始すると、米沢藩兵は番人山や天王様裏山などに構築した陣地から激しく抵抗した。
しかし、岩国藩兵と徴兵隊の攻撃によって夏井の陣地が突破され、続いて新発田藩兵も渡河攻撃に移った。これを迎え撃った米沢藩側の山岸哲蔵は自ら大筒隊を率いて奮戦したが戦死し、山岸隊は梨ノ木峠方面へ退却した。これによって坪穴方面の陣地も失われ、米沢藩兵は梨ノ木峠へ集結した。
梨ノ木峠は下関へ通じる重要な防衛線であった。ここを突破されれば下関まで大きな障害となる地形が少なく、新政府軍が容易に進出できるため、米沢藩兵は峠を最後の拠点として防戦した。
ここで新政府軍は部隊を交代させた。攻撃の中心となったのは、薩摩藩外城一番隊、長州藩千城隊七番隊・八番隊である。外城一番隊の隊長は村田経芳、千城隊七番隊の隊長は岡部富太朗、八番隊の隊長は山中梅二郎であった。これら薩長の精鋭部隊が梨ノ木峠へ攻撃を開始した。
薩摩藩外城一番隊は3門の砲を備えていたとされ、砲撃によって米沢藩陣地を動揺させた後、歩兵を前進させた。米沢藩兵は高所を利用して抵抗したものの、薩摩・長州両藩兵が正面の山道だけでなく斜面を直接よじ登って攻撃したため、ついに陣地を維持できなくなった。こうして梨ノ木峠は新政府軍の手に落ち、米沢藩兵は下関方面へ敗走した。
この戦闘によって夏井集落は大きな被害を受け、住民が退去させられたうえ、家屋が焼き払われたと伝えられる。焼失を免れた大欅は、現在も「焼け残りの大欅」としてこの戦いを伝えている。また、坪穴の「米沢様」、須巻の千人塚、小長谷の百人塚などには、この戦闘で戦死した米沢藩兵を供養したと伝えられる場所が残っている。梨ノ木峠は現在の国道290号が通る場所で、頂上付近には戊辰戦争の激戦地を示す碑がある。

下関から榎峠へ

梨ノ木峠と貝附方面の陣地を失った米沢藩兵は、下関を守り切ることが困難になった。長尾権四郎や飯田与惣右衛門らは、平坦な下関村で新政府軍を迎え撃つよりも、沼村方面へ後退して地形を利用して防戦することを決めた。
8月11日早朝、米沢藩兵は下関から撤退し、沼村を本陣として、その前面にある榎峠・鷹ノ巣峠などの要害に兵を配置した。同日、新政府軍は下関を占領し、米沢藩の本営となっていた渡辺家を接収して本営とした。新政府軍の米沢方面軍には薩摩・長州・芸州・岩国・新発田などの部隊が編入されていた。総指揮を担ったのは薩摩藩の黒田清隆で、米沢藩討伐の現地指揮・作戦協議には芸州藩寺本栄之助、長州藩奥平謙輔、薩摩藩村田経芳らも関与した。
一方、米沢藩は中越戦線から帰還した兵力を再編成し、藩境防衛のため、甘糟継成・斉藤篤信らを中心とする精鋭部隊を越後方面の藩境へ派遣し、関谷八ヶ村や片貝、榎峠などの要地に配置した。この方面の参謀には甘糟継成と斉藤篤信が置かれ、大隊長として横山与一、香坂勘解由らが加わった。また、斉藤新右衛門隊、山崎貢隊、関谷忠右衛門隊の3個小隊も援軍として派遣された。甘糟継成と斉藤篤信は、ともに中越戦線で戦った経験を持つ米沢藩の歴戦の指揮官であった。
(👉渡辺家)

榎峠の戦い

8月12日、新政府軍は榎峠に対する攻撃を開始した。新政府軍の本道軍は、徴兵隊十二番隊、芸州藩兵2個小隊と大砲2門、新発田藩兵1個小隊を第一陣とし、第二陣に薩摩藩外城一番隊半隊と長州藩千城隊七番隊半隊、さらに同じ部隊を予備隊として配置した。また右翼・左翼には芸州藩遊撃隊と岩国藩建尚隊が配置された。右翼の指揮には綿貫小平次、左翼には栗原主計の名が伝えられている。
榎峠の米沢藩陣地は、峠の地形を利用して胸壁を築き、銃撃によって新政府軍の進撃を阻止した。先鋒の徴兵隊・芸州藩兵・新発田藩兵は峠道を進んだが、米沢藩兵の激しい抵抗を受けて容易に突破できなかった。
この状況を見た薩摩藩外城一番隊長の村田経芳は、自隊を前進させるとともに芸州藩の大砲を自ら操作して砲撃を開始した。これまで高所を占めて有利に戦っていた米沢藩兵は、薩摩側の砲撃によって陣地を崩され、さらに薩摩・長州の兵が正規の峠道だけでなく斜面を直接登って攻撃したため、次第に防戦が困難になった。
最終的に米沢藩兵は戦死者12名を出して榎峠を放棄し、藩境の大里峠方面へ退却した。榎峠には現在も当時の胸壁跡などが残り、米沢藩と新政府軍が激しく戦ったことを伝えている。榎峠の敗報が米沢に届くと、世子上杉茂憲は全軍を督励するため自ら出陣し、小松に屯営した。米沢藩は大里峠を最後の防衛線と定め、長尾権四郎を総大将、甘糟継成、斉藤篤信、飯田与惣右衛門らを参謀として防衛態勢を整えた。その後、米沢藩は大里峠から玉川方面に本陣を移し、長尾・甘糟・斉藤を中心とする藩境防衛体制を構築することになる。
このように、梨ノ木峠から榎峠に至る戦いは、米沢藩が越後での攻勢を断念し、藩境を守る防衛戦へ移行していく過程に位置する。梨ノ木峠では登坂右膳、小川源太郎らの下越方面部隊が防戦し、榎峠では長尾権四郎を中心とする米沢藩兵に、甘糟継成・斉藤篤信ら中越戦線帰りの精鋭が加わった。しかし、新政府軍は薩摩の村田経芳、長州の岡部富太朗・山中梅二郎らが率いる精鋭部隊を投入し、砲兵を伴う攻撃を展開したため、米沢藩兵は次第に藩境へ追い詰められていったのである。
(👉米沢街道



(米沢藩の降伏)

榎峠陥落と米沢藩の藩境防衛

8月12日、新政府軍は榎峠を攻撃し、米沢藩兵の激しい抵抗を排して峠を占領した。米沢藩兵は戦死者を出して榎峠から後退し、藩境の要害である大里峠方面に防衛線を移した。新政府軍はさらに前進して米沢藩領への入口に迫り、沼村に本陣を置いた。しかし、榎峠を突破したにもかかわらず、米沢藩領へ一気に攻め込むことはしなかった。新政府軍側では、武力によって米沢藩を屈服させるよりも、藩主・重臣に恭順を促し、戦闘を終結させる方針が次第に強まっていた。
米沢藩は大里峠を中心に兵を配置して藩境を固めたものの、越後方面の戦線はすでに大きく崩れており、軍事的に戦局を逆転させることは困難な状況になっていた。

土佐藩による最初の恭順勧告

米沢藩に対する恭順工作は、土佐藩からも進められた。米沢藩主上杉斉憲の正室貞姫は、土佐藩主山内豊資の三女であった。この縁戚関係から、土佐藩を中心とする東山道先鋒総督府は米沢藩に対して恭順を勧める書状を送ることとなった。
8月18日、二本松に滞陣していた土佐藩の参謀片岡健吉らは使者を送り、対峙していた小坂村の米沢藩軍に対して降伏を勧告した。
米沢藩ではこの申し入れを受け、藩内で対応について協議した。そして8月24日、重臣会議で恭順の意思を固め、その旨を記した書状を持たせた藩士を二本松の総督府へ向かわせた。

安芸藩と米沢藩の縁戚関係

米沢藩に対する恭順工作には、土佐藩だけでなく安芸藩も関係した。新発田方面から先鋒部隊として進撃してきた安芸藩(広島藩)の藩主浅野家と、米沢藩主上杉家との間には縁戚関係があった。
上杉斉憲の父で前藩主であった上杉斉定の継室は、安芸藩主浅野斉賢の娘である美代姫であった。ただし、斉憲は側室の子であったため、美代姫との直接の血縁関係はない。
このような両藩の縁戚関係も、米沢藩に対する恭順工作を進めるうえで無視できない要素となった。

沼村・船山家での降伏交渉

8月28日、沼村の船山久助宅(※地図 ※ストリートビュー)において、米沢藩と新政府軍との間で正式な会談が開かれた。新政府軍側からは薩摩・安芸・長州・土佐・岩国などの諸藩の代表者に加え、その他諸藩の重役を合わせて11人が出席した。これに対して米沢藩からは、重臣の黒井将監と参謀の斉藤主計が出席した。会談で斉藤主計らは、米沢藩がこれまで奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦うに至った事情を説明し、これまでの行動について弁明するとともに謝罪の意を表した。これに対して新政府軍側から、米沢藩が恭順するための三つの条件が提示された。
第一は、藩主または世子が自ら総督府へ出向き、直接謝罪すること。
第二は、米沢藩兵を撤退させ、兵を米沢へ引き揚げて謹慎すること。
第三は、米沢藩領へ通じる沿道に築いた塁壁・陣地をすべて破却すること。
これらの条件は、単なる休戦ではなく、米沢藩が軍事的抵抗を完全に停止し、新政府軍に恭順することを意味していた。
なお、会談が行われた船山久助宅は、戦火によって沼村の家々が焼失する中で、焼け残った数少ない民家の一つであったと伝えられている。

世子上杉茂憲の決断

新政府軍から提示された三条件は、米沢藩の前線にいた世子上杉茂憲のもとへ伝えられた。茂憲は軍議を開き、藩の置かれている軍事的・政治的状況を検討した。その結果、これ以上の戦闘継続は藩領を危険にさらすだけであるとして、新政府軍の条件を受け入れることを決定した。
8月29日、米沢藩と新政府軍との間で和睦が成立し、米沢藩兵には全軍を引き揚げる命令が出された。これによって、米沢藩は越後方面から撤退を開始した。
新政府軍も8月30日にはいったん下関村まで兵を引き揚げ、戦闘は事実上終結した。

藩主上杉斉憲の謹慎と謝罪

9月2日、米沢藩主上杉斉憲は謹慎した。
さらに9月4日、藩主の謝罪と恭順を願う嘆願書を家老たちに持たせ、新発田に置かれていた新政府軍総督府へ提出した。
こうして米沢藩は、軍事的な抵抗を停止するだけでなく、藩主自身の謹慎と謝罪によって正式な恭順手続きを進めることになった。

9月11日、米沢藩の正式降伏

9月11日、世子上杉茂憲は新発田城に赴き、会津征討越後口総督である仁和寺宮嘉彰親王に謁見した。
茂憲はここで米沢藩を代表して謝罪し、正式に恭順の意を表した。
これをもって、米沢藩の降伏は新政府側から正式に認められた。
米沢藩は奥羽越列藩同盟の主要藩の一つとして新政府軍と戦ったが、越後方面での相次ぐ敗退、榎峠・大里峠方面への後退によって軍事的抵抗の継続が困難となり、最終的には武力による徹底抗戦ではなく、恭順によって藩の存続を図る道を選択したのである。

降伏後の米沢藩と会津攻囲

米沢藩の降伏が認められた後、米沢藩は処分を受ける一方で、ただちに軍事的役割を失ったわけではなかった。
新政府軍は米沢藩に対し、今度は米沢方面から会津若松城を攻囲する軍勢の先鋒を務めるよう命じた。
それまで新政府軍と戦っていた米沢藩兵が、今度は新政府側の命令を受けて会津攻略に加わることになったのである。これは、米沢藩が戦争の敗北を受け入れ、新政府への恭順を明確にしたことを示す大きな転換点となった。

降伏勧告の背景と西郷隆盛

米沢藩への降伏勧告は、前線にいた安芸藩だけの判断で進められたものではなかった。
米沢藩はなお大里峠に兵を配置し、戦闘能力を維持していたため、降伏勧告という重要な方針を実行するには、新発田方面の新政府軍本営における了承が必要であった。
新発田本営の参謀であった黒田清隆も、この問題に関与したとされる。また、黒田は当時新潟に滞陣していた薩摩軍の総差引(司令官)西郷隆盛に対応を相談したとも伝えられている。
西郷は、いたずらに戦闘を拡大するよりも、米沢藩の恭順を受け入れて平和裏に事態を収拾する方向を望んでいたとされる。
そのため、榎峠を突破して米沢藩領への道を開いた新政府軍が、さらに大軍を投入して米沢へ攻め込むのではなく、恭順工作によって米沢藩を降伏させる方針を採った背景には、前線諸藩の判断だけでなく、新政府軍上層部の政治的判断もあったと考えられる。
(👉 西郷隆盛

渡辺利左衛門への恩賞

米沢藩の降伏に至る過程で、危険を冒して大里峠本陣へ降伏勧告を伝えた渡辺利左衛門の功績は、米沢藩側からも評価された。
戦乱が終結すると、米沢藩は利左衛門を召し出し、敵味方が一触即発の状況にあった中で降伏勧告を大里峠本陣まで伝えた功績を賞し、酒肴を与えた。
さらに明治2年(1869)5月には、越後府からも生涯五人扶持と小判百枚が与えられ、その功績が改めて賞された。
渡辺利左衛門の行動は、単なる使者としての役割にとどまらず、戦闘が続けば多数の犠牲者が出る状況の中で、米沢藩と新政府軍との間を取り持ち、降伏交渉を前進させる役割を果たしたものといえる。

米沢藩降伏の意義

榎峠の陥落によって米沢藩の軍事的劣勢は決定的となった。しかし、新政府軍は直ちに米沢藩領へ大軍を進めるのではなく、土佐・安芸両藩などと米沢藩との縁戚関係も利用しながら、恭順工作を進めた。
土佐藩による8月18日の勧告、安芸藩寺本栄之助による8月20日の密使、8月28日の沼村・船山家での正式交渉を経て、8月29日に和睦が成立した。そして9月11日、世子上杉茂憲が新発田城で仁和寺宮に謁見して謝罪し、米沢藩の降伏が正式に認められた。
こうして米沢藩は、越後方面での戦闘を終え、奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍に抵抗した立場から、新政府に恭順して会津攻囲に加わる立場へと転換したのである。



  • 🔶夏井の大欅
    〔所在地〕新潟県胎内市夏井

  • 🔶梨木峠
    〔所在地〕新潟県胎内市 坪穴 国道290号

  • 🔶千人塚
    〔所在地〕新潟県胎内市須巻

  • 🔶百人塚
    〔所在地〕新潟県胎内市鍬江 国道290号

  • 🔶無名戦士の墓
    戊辰戦争時に榎峠で激戦を繰り広げ戦死した、米沢藩兵12名と新発田藩兵1名の供養塔である。
    この供養塔は、戦没者の供養のため、明治元(1868)年ニ蛇喰村弘長寺ノ第63世順誉良成和尚と集落の人々により建てられた。高さ約110cm、塔身は約44cm角の供養塔。
    戦死した米沢藩士斎藤新右衛門の名がある。片貝の陣地の守将であったが、陣を破られ、沼村まで退いてきて戦死した。
    〔所在地〕 新潟県関川村大字片貝

















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