米沢街道~米沢藩の戊辰戦争 関川村



 米沢街道 新発田藩の戊辰戦争

≪梨の木峠の戦い~ 榎峠の戦い≫


新潟湊での米沢藩の敗走と、新発田藩の裏切りの報を得て、裏切った新発田藩討伐のため、8月1日米沢藩は長尾権四郎を大隊頭とする藩兵及び農兵隊を下関に繰り出した。
新政府軍の先鋒として進軍した芸州藩・新発田藩を中心とした一隊は中条方面に本道軍を、菅谷・鼓岡方面には間道軍の二手に分け北進、8月6日、中条町を経て胎内川左岸追分に着いた。7日未明、米沢藩長尾大隊軍監小川源太郎は庄内・村上藩の応援を得て本道軍を強襲してこれを破り、大砲一門を奪って勝鬨を挙げた。新発田藩兵は敗れて三日市まで撤退したが、芸州藩兵は抵抗を続け、隊長の川村常之進が戦死している。
新発田城の新政府軍本営では会津口と庄内口攻撃の体制が整い、米沢藩への本格的な攻撃が8月10日に始まった。
浜通り中条口を進撃した本道軍は薩長藩を主力とし、最新鋭の銃砲を備え進撃したことから、同盟軍は荒川流域まで退却した。このとき黒川藩は新政府軍に帰順する。貝附・花立では激戦となる。
菅谷から進んだ間道軍は鼓岡から胎内川を渡って対岸の夏井を制圧し、梨木峠を越え、下関まで進撃した。
梨木峠は鼓岡と夏井、坪穴集落の小長谷を結ぶ、小さな峠である。米沢軍は胎内川を挟んで梨ノ木峠附近の夏井集落の番人山、坪穴集落の天王様裏山に陣地を構築して対峙した。
間道軍は敵陣が砲隊の射程内に入ると胎内川の渡河を開始、執拗に抵抗する米沢軍に手を焼き、夏井集落住民に立ち退きを命じて全家屋を焼き払ったという。欅の大木が1本だけ焼け残り「焼け残りの大欅」と今も伝えられている。米沢軍はこの梨の木峠の戦いで多くの戦死者を出して総退却した。
峠の道は今も国道290号線が通っていて、頂上には記念碑が立っている。このあたり一帯には米沢軍の死闘の跡が多く残されている。峠の近くに「米沢さま」と呼ばれる石地蔵が、須巻集落の入り口には千人塚という石塚が、小長谷集落には百人塚があり、多くの米沢藩の戦死者を弔っている。
新政府軍は梨ノ木峠を超えて追撃戦に移り、下関で中条から荒川沿いに東進してきた本軍と合流した。

この下関は、米沢藩が奥羽越列藩同盟の盟主として、越後勢への加勢の為、越後街道(米沢街道)を進軍した。6月6日から13日まで藩主上杉斉憲自ら米沢藩領下関の渡辺家に本営を置き督戦していた。
ここに至って督将長尾権四郎は諸将を集めて会議を開き、下関村は平坦地で守りがたい地形であるとして、沼村に退いて守ることに決し夜陰に乗じて退却した。藩境の防護に方針を切り替えた。下関村から撤退した米沢藩兵は下関村と沼村の中間に位置する難所の榎峠の頂上付近に胸壁を造り守りを固めた。
米沢藩は越後中越戦線から撤退してきた米沢藩兵の主力部隊を再編成し、藩境防護のため越後方面軍の参謀だった甘粕継成と斉藤篤信(主計)が率いる精鋭の3個小隊を援軍として派兵し、関谷八ヶ村を守らせ、また片貝・榎峠の陣地に兵を送った。
慶応4(1868)年8月11日、新政府軍は米沢軍が撤退した下関を制圧し渡辺家を本営とした。
8月12日、榎峠に到着した先鋒の新発田藩兵を先頭に芸州・長州・薩摩藩兵は米沢藩兵に攻撃を開始する。一方榎峠を突破されれば米沢藩領への侵入を許してしまうと、必死の思いで守りを固めた米沢藩兵の防戦により、中々突破する事が出来なかった。状況を見かねて、薩摩藩外城一番隊や長州藩千城隊が、犠牲を恐れず多勢で峠を登り攻撃をすると、米沢藩兵は遂に戦死者12名を出して敗退し、藩境の要害大里峠まで後退した。榎峠には今も胸壁の跡など、激戦が戦われた痕跡が残る。
米沢藩はここを最後の防衛線として軍精鋭を置き、総大将に長尾権四郎、参謀に甘糟備後、斉藤主計、飯田与惣右衛門を命じ、米沢に逃げ込んでいた村松藩兵をも大里峠に送り込んだ。
13日に榎峠の敗報が米沢に届くと、世子茂憲は全軍を励ますため自ら出陣、小松に屯営した。




(米沢藩の降伏)

新政府軍は一日の攻撃で榎峠を攻め落とし藩境まで進出し、沼村に本陣を移したが、米沢藩内に一気呵成に攻め込まなかった。総督府は対応を恭順工作に切り替え、あらゆる方面から、恭順するよう勧めた。
藩主の正室貞姫が土佐藩藩主山内豊資の三女であったことから、土佐藩が主導した東山道先鋒総督府は藩主宛に恭順を勧める書状をしたためた。8月18日、二本松にあった土佐藩の参謀片岡健吉らは使いを送り、対峙する小坂村の米沢軍に降伏を勧告した。これに対して、24日、藩では重臣会議で決定し、恭順したい旨の書状を持たせた藩士を二本松の総督府へ向かわせている。
一方、新発田から先鋒として進軍した中国地方の大藩安芸藩(広島藩)の淺野家と米沢藩上杉家とは縁戚関係があった。上杉斉憲の父親で前藩主上杉斉定の継室は安芸藩主浅野斉賢の娘美代姫であった。斉憲は側室の子で直接の血のつながりはない。
安芸藩の参謀寺本栄之助は土佐藩深尾三九郎、長州藩奥平謙輔、薩摩藩村田勇右衛門等とともに8月10日に下関の本営渡辺三左衛門家に入っている。
米沢藩は大里峠に陣を置き、藩境を固めたがもはや大勢は決していた。安芸藩寺本栄之助は20日密使を派遣して降伏を勧告した。密使として派遣されたのは、上関村で宿場の問屋を営んでいた渡辺利左衛門であった。
米沢藩も、勝機の見えない状況下に置かれており、米沢藩ではこの勧告を受け入れ対応を決することに日時を費やした。
28日、沼村本陣(船山久助宅※地図 ※ストリートビュー)で薩・芸・長・土・岩国の諸将とその他諸藩の重役11人が出席、米沢藩から重臣黒井将監と参謀斉藤主計が出席する会談が開かれた。斎藤らは米沢藩の今日までの事情を弁明して謝罪の旨を申し述べた。これに対して三条件が新政府側から提示された。三条件とは①藩主若しくは世子自ら総督府に至って陳謝する、②兵を撤去し米沢に謹慎する、③沿道の塁壁をすべて破却する、であった。会談が行われた船山宅は沼村が戦火で焼かれ一軒残った民家であった。
この条件は玉川にあった世子茂憲に伝えられ、茂憲は軍議を開いてこれを了承、29日には和睦成立と全軍の引き揚げが令せられ帰還を開始した。新政府軍も30日ひとまず下関村に全員引き揚げた。9月2日斉憲は謹慎、9月4日、藩主の謝罪嘆願書を家老たちに持たせ、新発田の総督府に提出した。9月11日世子茂憲が新発田城において、会津征討越後口総督仁和寺の宮に謁して謝罪し、正式に米沢藩の降伏が総督府に認められた。一方で米沢藩は、米沢方面よりの会津若松城攻囲軍の先鋒を命ぜられた。
降伏の勧告の方針は前線の安芸藩だけで決定できない事項である。当然新発田本営の参謀黒田の意向も聞いた上で実行している。黒田はこの時新潟に滞陣していた薩摩軍の総差引(司令官)西郷隆盛に対応を相談したといわれる。この決定には、西郷の平和裏に事を進めるという意向も働いていたものと思われる。
戦乱終結後、米沢藩は利左衛門を召し、一触即発の緊張状態にあった中で、降伏の勧告を大里峠本陣に伝えたその功を賞して酒肴を与えた。明治2年(1869)5月、越後府も生涯五人扶持、及び小判百枚を与えてその功を賞した。




  • 🔶夏井の大欅
    〔所在地〕新潟県胎内市夏井

  • 🔶梨木峠
    〔所在地〕新潟県胎内市 坪穴 国道290号

  • 🔶千人塚
    〔所在地〕新潟県胎内市須巻

  • 🔶百人塚
    〔所在地〕新潟県胎内市鍬江 国道290号

  • 🔶無名戦士の墓
    戊辰戦争時に榎峠で激戦を繰り広げ戦死した、米沢藩兵12名と新発田藩兵1名の供養塔である。
    この供養塔は、戦没者の供養のため、明治元(1868)年ニ蛇喰村弘長寺ノ第63世順誉良成和尚と集落の人々により建てられた。高さ約110cm、塔身は約44cm角の供養塔。
    戦死した米沢藩士斎藤新右衛門の名がある。片貝の陣地の守将であったが、陣を破られ、沼村まで退いてきて戦死した。
    〔所在地〕 新潟県関川村大字片貝

















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