米沢街道(十三峠街道) Yonezawa Highway 関川村



  榎峠の戦い

中世~伊達時代

新発田城下から加治・中条を経て坂町から荒川の谷をさかのぼり、関川盆地から大里峠越えで小国盆地に出て米沢城下に達する約29里(116km)の十三峠街道は「米沢道」とよばれた。鷹の巣峠から諏訪峠まで13の峠があることから名づけられた。この道は中世以来、越後国と米沢を中心とする出羽国の置賜地方(山形県)とを唯一結ぶ、経済・文化の流通路としたて重要視された。村上藩では村上城から平林にでて新発田からのコースを辿る道を米沢街道と呼んだ。
標高487mの大里峠の開削は古く大永元年(1521)、伊達氏14代稙宗(政宗の曽祖父)が開削したのが始まりとされる。室町時代に出羽国に勢力を広げた伊達氏は、康暦2年(1380)から210年あまりに渡って置賜地方を支配。大永元年(1521)、稙宗は、日本海の海産物移入するため、出羽・越後国境の大里峠を開削した。米沢と越後を最短距離で結ぶ道を整備したのである。その後、米沢を本城とし、城下の発展を図った。当初は稙宗が越後進出を画策する為の軍事的な要素も強かった。

江戸~上杉時代

江戸時代、米沢藩主上杉氏は、街道の宿駅を整備する。冬の置賜地方は、牛馬も通行できない豪雪地帯であり、雪に閉ざされる前に塩や魚などを城下に蓄える必要があったため、藩は、物資を円滑に輸送するため、最初の宿駅である上小松宿に、藩内最多の38疋の駅馬を置くなど、各宿駅に多数の駅馬を配した。また険しい山岳道路のため、運搬には、山道に強い牛が活躍した。小国は、街道のほぼ中間に位置し、交易の中心地として発展。米沢からは、米をはじめ、米沢特産の青苧(青麻)、漆、蝋などが越後へ、また越後からは、塩や魚、織物などが運ばれ、街道は人馬、文物の往来で賑わった。
越後と米沢を結ぶ街道は参勤交代路ではなかったので、伝馬制の敷かれた宿場町は発達しなかったが、江戸時代中期以降になると、商業の活性化とともに大里峠は産業道路となる。
また、米沢藩は、米沢城下と、日本海を結ぶ最短経路として重要視し、米沢街道を利用して下関宿まで荷を運び、そこから川運船に荷物を積み、荒川湊で大坂や江戸に向かう北前船に積み替えていた。
下関はその物々交換的市場町として繁盛した。越後側の商取引の中心は関川盆地の下関・上関宿で、上関宿では荷改め番所も置かれた。

越後の下関宿からは大里峠の山越えで、小国盆地に抜けたので、谷口の大内淵には越後側の口留め番所があった。県境の古い鉱山町沼を経て峠道の山中難所を下り、米沢藩の玉川番所で米沢領に入った。下関宿と玉川宿との間は4里27町で他の宿駅より距離が長く、大小3ヶ所の峠を越えた。

下関宿は荒川船運の拠点として大きく発展し、大商人となった渡辺家は、財政難で苦しんでいた米沢藩に幕末まで融資をして、米沢藩勘定奉行格の待遇を受けた。
江戸時代後期になると、米沢藩の財政難から街道は荒廃したが、渡辺家の九代目渡辺三左衛門は嘉永年間(1843~54)、私費を投じ、人員延べ5000人を動員し、大里峠の峠道に切り石を敷設。藩に代わって街道の整備に尽力したのであった。

戊辰戦争の際は米沢藩が奥羽越列藩同盟に参加し、越後勢への加勢の為に米沢街道を利用して進軍、渡辺家は藩主上杉斉憲の本陣にもなった。また沼で、米沢藩と新政府軍の間で、戊辰戦争の講和会議が行われた。

明治以降

その後、明治18年(1885)には小国・越後間に新道が開通。旧街道は衰退したが、急坂の続く黒沢峠には今も近世の石畳が残り、旅人たちを悩ませた峠道の面影を宿す。
伊達政宗や五郎八姫、良寛などがこの米沢街道を利用したといわれており、今でも所々に石塁が残り、訪れるハイカーに昔の面影を伝えている。

🌌十三峠

①鷹巣峠(標高155m)~②榎峠(標高187m)~③大里峠 ( おおりとうげ )(標高487m:県境)~④萱野峠(標高278m)~⑤高鼻峠(標高170m)~⑥貝淵峠(標高175m) ~⑦黒沢峠(標高426m)~⑧桜峠(標高435m)~⑨才ノ頭峠(標高316m)~⑩大久保峠(標高370m)~⑪宇津峠(標高491m)~⑫朴ノ木峠(標高398m)~⑬諏訪峠(標高290m)

🌌大里峠 標高487m

山形県川西町小松と新潟県関川村下川口の全長約60kmの間には大小13の峠が存在する。宇津峠(491m)に次いで高い峠。
〔所在地〕 新潟県関川村大字畑

🌌沼金鉱山跡

沼集落内の沼川沿いに「猿ヶ城」と呼ばれる美しい山がある。この山は近世のはじめ金堀りで賑わった所である。最盛期には2950人の掘子が就労していたが、寛永16(1636)年ころ金は底つき、廃山となった。今でも、山の中腹に横穴を確認することができる。
〔所在地〕 新潟県関川村大字沼

🌌上関口留番所跡

慶長3(1598)年、村上頼勝の命により清水右近次が上関口留番になったという。以後、幕末 まで清水氏が番所役人を務め、通行人や荷物な どを取り締まった。遺構などは残っていない。

🌌大内淵口留番所

万冶元(1656)年「女川組本田畑検知寄目録」に大内淵口留番所金子仁右衛門・飯塚次右衛門の名があり、口留番所の所在を知ることができる。後ろは荒川の断崖、前には山地を控え「抜け荷」のできない好適の場所である。

🌌渡辺家





















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