渡辺邸 Watanabe residence 関川村



山形との県境に近い関川村は荒川を利用した舟運の街として栄え、江戸時代には旧米沢街道沿いに「豪農の館」が軒を連ねた。渡辺家住宅と佐藤家住宅、丸谷家住宅(旧津野家住宅)があり、旧米沢街道18世紀以降の宿場町の面影が色濃く残っている。
その内の1軒が渡辺邸である。敷地面積3000坪、周辺に堀と塀をめぐらした広大な住宅は、近郷の農家を代表する規模と格式を備えている。

初代儀右衛門善高(1594-1669)は、村上藩主松平大和守直矩 ( なおのり )の家臣で郡奉行をしていたが、上州前橋へ国替えのとき、病身であることから家督を嗣子に譲り、寛永5年(1665)に桂村(関川村桂)に隠居、同7年(1667)下関村に転居定住したと伝えられる。渡辺家の屋号の「本桂家」は善高と桂村との縁によるものである。

2代目三左衛門善延(1642-1724)は養子で、延宝4年(1676)には回船業を営み、大阪と交易したと伝えられ、また酒造を創業、隣村上関村弥兵衛の株を借りて米三石を酒造したという記録がある。小規模の地主・酒造家であった。
享保5年(1720)に、米沢藩に750両を融資しこれが米沢藩への金融の始まりとなった。

3代目三左衛門善久(1670-1732)は、享保11年(1726)には、田畑合13町6反4畝余で、奉公人や日雇を雇って自ら経営する手作地主であった。土地所有の増加に伴って酒造業も発展したが、まだ平凡な村方地主であった。

4代目三左衛門善永(1693-1765)は、江戸中期以降広範にわたって米沢・長岡・村上・新発田・会津などの諸藩や幕府に対する武家金融を行い、隆昌期を迎える

6代目三左衛門善富の時代(1749-1785)、明和4年(1767)、上杉鷹山が米沢藩の家督を継いで初めての貸し付けが行われた。その後の上杉鷹山治政下で17年間で27,000両を融資した。幕末までに渡辺家が米沢藩に融資した総額は10万両以上に達した。
当初は貸し付ける一方で、返済の時期や金額を当てにできる貸付ではなかった。やがて鷹山の藩政改革の成功と共に返済は順調となり、渡辺家の資本が活発に回転するようになったのである。渡辺家は江戸の三谷・酒田の本間と共に重要な金主として鷹山施政を助けたのである。
米沢藩では、日本海を結ぶ最短経路として米沢街道が重要視され、下関宿まで陸路で荷を運び、そこから川運船に荷物を積み、湊で大坂や江戸に向かう北前船に積み替えていた。
下関宿は荒川船運の拠点として大きく発展し、渡辺家は米沢藩の財政に大きく寄与していた。上杉家からは郷士待遇を受け名字帯刀を許され、代々大庄屋を務めるかたわら、物資の流通の要となり豪商となったのである。

7代目三左衛門善映(1776-1832)の時代、天明6年(1786)に米沢藩から勘定頭格の待遇を受け、450石の秩禄が与えられた。7代目が上杉鷹山公より拝領した弓矢と鷹山公直筆の書幅が渡辺家に文化財として保管されている。
潤沢な資本の蓄積が進むにつれて、城塚新田(紫雲寺潟新田の一つ)を一村ぐるみ購入するなど、土地集積が急速に進み、さらに各地の新田開発に積極的に取り組み、幕末には700町歩の大地主となるに至った。
渡辺家の全盛期は75人もの使用人を雇い、約1000haの山林を経営。700町歩の水田からは1万俵の小作米を収納したと伝えられる。

9代目三左衛門善一(1829-1879)が当主の時、慶応4年(1868)戊辰戦争で、米沢藩は列藩同盟の盟主として、越後各地で戦ったが、その兵糧等の手配のため渡辺家は奔走した。
6月6日に米沢藩主上杉斉憲が列藩同盟軍を督励するため、支藩米沢新田藩の上杉勝賢、国家老竹俣美作、中里丹下などと共に1,000余名を引きつれて出陣し、渡辺家に宿泊し本陣とした。米沢藩が越後から撤退すると、新政府軍の本営に使用された。上杉家の降伏の交渉では、新政府との間の取次を行い、上杉家のために奔走している。

10代目三左衛門善郷(1870-1933)の時、明治22年(1889)酒造業を廃業した。明治 27年(1894)の土地所有高はは396町歩となっている。

(建物)

現存の住宅は天明6年(1786)の火災後、文化14年(1817)の再建である。大工棟梁は、村上城下で代々大工として続いた板垣伊兵衛であった。
3000坪の敷地に塀と堀をめぐらせた500坪の邸宅に、金蔵をはじめ6棟の蔵を備えた堂々たる構えで、旧米沢街道に表玄関 ※ストリートビューを開いている。
邸宅は平面的に見ると、T字形で鐘を打つ撞木のような形をしているので撞木 ( しゅもく )造りという。すなわち切妻の2つの棟を直交させた構造である。梁間10間の大切妻屋根と、道路沿いの長い切妻屋根の軒線が力強い正面を構成している。
雪や地震に強い構造である屋根は、一部瓦葺き・柿葺であるが、ほとんど石置栩葺である。約15000個の石をのせた屋根が壮観で、日本最大の規模を誇っている。

大型の乳型鋲が打たれている正面の大門扉をくぐって母屋に入ると、真中を南北に貫通する広い土間が開けている。
土間に沿って茶の間と納戸があり、大屋根の下に囲んだ空間には大きな梁が縦横に走り、見る者を圧倒させる。また茶の間※ストリートビューから台所まで床が一段ずつ低くなり、それぞれの上り口に四つの沓脱ぎが並び身分により昇降の場所がきめられていた。
高い天井には欅の巨木良材を使った、太く重々しい梁組が交差し、厳選された無節の柱、丸桁、板敷きなどが随所に惜しみなく用いられ、特に廂は、はね木で支える特別な工法が施されている。
道路沿いの棟には西から大座敷※ストリートビュー、二の間、玄関、広間が一列に配置され、奥の大座敷には米沢藩重臣や文人墨客が訪れた際に利用された。この座敷からは池泉回遊式庭園が眺められるようになっている。
また、米や味噌などのための6つの土蔵(米蔵、味噌蔵、金蔵、宝蔵、新土蔵、裏土蔵)は、火災や盗難にも備えた万全の造り。柱の間隔を狭め、厚板、鉄桟を使用し、丈夫ななまこ壁に仕上げるなどの、いろいろな配慮がされている。(※案内図)

(庭園)

広さは1275平方メートルで回遊式になっている庭園は、京都より遠州流の庭師を招いて構築した。※ストリートビュー
剛毅・繊細両面をうまく組み合わせた配置で京風の庭に心字型の池を形どり、池の西側に一の山、二の山、三の山築山を設け、一の山に不動石を立てて枯れ滝をあらわしている。東側には化粧玉石を敷き詰めた州浜があり、多数の庭石や飛び石を使っている。北側に井戸囲い、座敷側には手水鉢を設けるなど巧みに見せ場を作り出している。また、渡邉家が廻船業を営んでいた影響もあり、石材の多くは小豆島・紀州・京都鞍馬山等関西方面のものが使用されている。
作庭の年代は明らかな記録はないが、4代三左衛門善永在世の明和年間(1764-1772)、弟儀右エ門の造園と推察されている。昭和38年(1963)3月国指定の名勝に指定されている。

平成7年(1995)、NHKドラマ「蔵」のロケ地となり全国的に知られる。
2009年~2014年の6年間に渡って、総工費8億円をかけた「平成の大修理」が行われ、母屋・外塀・土蔵が修復された。










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