▲TOPへ戻る

村松藩と戊辰戦争~赤坂峠の戦い 五泉市



赤坂峠の戦い

5月30日長沢村の米沢藩本陣において同盟軍は軍議を開き、6月1日朝、新政府軍に対し総攻撃を敢行することを決定した。
6月1日2時頃、同盟軍は、赤坂峠・堀溝・大平方面で総攻撃をかける。
赤坂峠は、加茂や会津方面から見附、栃尾方面に入る要衝で、村松藩兵は駒込の石動社と観音堂に滞陣した。新政府軍も本陣を峠の向かい側杉沢に、前線を赤坂峠とし主力の薩摩藩兵・長州藩兵・松代藩兵が守備していた。
村松藩は速水隊・青木和銃隊の二小隊を先鋒として会津・米沢藩兵はこれに続き、駒込稲葉入より平手を越えて狐塚を通って進撃した。
山は霧が深く視界が効かないような状態であった。未明赤坂山の下において、速水隊は伏兵(松代藩兵)に会い接触したが苦戦に陥った。これを見た青木隊が横手より突撃、青木隊の来援により速水隊も反撃に転じ、会津・米沢藩兵も到着、敵を敗走させ峠を占領した。しかし新政府軍も杉沢村から長州藩奇兵隊四番隊が援軍に駆けつけ、松代藩兵も態勢を立て直し再び反撃に転じたので激戦となった。しかし村松藩兵はやがて弾薬尽き銃は裂ける状態となり、抜刀して敵中に突入し戦ったが、同盟軍は敗退し、長沢村まで撤退する。また堀溝・大平方面でも新政府軍の守りが硬く、敗退し撤退している。
青木隊長ほか多くの死傷者を出したが、この戦いは、村松藩が一藩で新政府軍と交戦した特異な戦いとなった。
この時の軍監奥畑伝平衛の戦いぶりは後々まで敵味方ともに語り伝えられたほどであった。伝平兵は敵兵を叱咤し、たちどころに十数人を斬ったが、長州干城隊山本作蔵の狙撃により倒れた。42歳であった。
村松藩兵は、長岡城下での失態を取り返すべく勇猛な戦いぶりであった。新政府軍を敗走にまで追い込むことはできなかったが、薩長の主力を足止めしたことにより、6月2日に行われた河井継之助が指揮した今町の戦いでの同盟軍の勝利に結びついた。(☛ 今町の戦い)
6月3日、村松藩では、大平、大平新田、鹿峠各方面に藩兵を派遣して踏査させた。赤坂・杉沢には一兵の敵もないことが判明。4日、長沢村の本陣にいた同盟軍は全員見附に進軍した。

この戦いで、村松藩では隊長青木剛八、軍監奥畑伝兵衛ほかの7名が戦死した。他に米沢藩小隊長の山下太郎兵衛ほか多数の死傷者を出した。赤坂峠にはこの時戦死した兵士の墓がある。
また大正14年(1925)、赤坂に一基の碑が建立され、その史蹟を後世に伝えている。その中に、戦死した青木剛八、奥畑伝兵衛、金子喜兵衛、内藤伝太郎、船山石平、皆川亀治、渡辺延平の氏名が刻まれている。

赤坂古戦場

〔所在地〕新潟県三条市駒込
<現地案内看板❶>
赤坂峠古戦場
慶応四年(明治元)、大政奉還をめぐる新政府軍と同盟軍が戦った北越戊辰戦争の下田郷における最大の激戦地跡である。
五月、長岡城落城により、両軍の戦線は県内各地に広がった。そのうち村松藩を主力とする同盟軍五百は、長岡・見附から後退し駒込の石動神社から観音堂に滞陣した。新政府軍の本陣は、峠の向かい側杉沢におき前線は赤坂にあって対峙した。
六月一日朝鹿峠・長沢の同盟軍陣地を背景とし、赤坂の敵に総攻撃を敢行した。村松藩は米沢・会津藩とともに松代藩を加えた相手方と激戦。大地を震わす砲声、天に閃く砲火硝煙、白刃交わる死闘となった。村松藩はこの戦いで隊長青木剛八が戦死、軍監奥畑傳兵衛は十数人を切り倒したが、狙撃で倒されてまた立ち上がり、その勇猛な戦いぶりは後世に語り継がれた。同藩の戦死者は他に金子喜兵衛(墓石は当地にある)、皆川亀治、内藤伝太郎、渡辺延兵、船山石平の七名であった。
背景にある松の植生する峰が、当時の赤坂峠で激戦の場所である。大正十四年、峠の下にあるこの地に古戦場記念碑が建てられ、また、赤坂峠も矢山の峰伝いの道から現在の道に新たに拓かれたものである。
平成二十三年四月
下田郷文化財調査研究会

<現地案内看板❷>
赤坂古戦場
慶応四年六月一日当時の赤坂の戦いを古老は次のように語っていた。
大砲の打ち合いが始まり地元の人は弾の届かない駒込、大平の沢の二手に分かれて避難した。観音堂陣地から見通しが悪いと焼かれた家は、繁右衛門、市兵衛、清三郎、和太八、伝十郎、多右衛門、栄次郎、次郎八、権之十、関左衛門、茂右衛門、辰五郎、小左衛門、新佐衛、兵七の十五軒。幕府軍は赤坂峠の新政府軍に早朝より総攻撃をかけた、まさに銃声山岳に響き、大地を震わせた。
しかし村松藩の一部には勢いにまさる新政府軍に味方する者も現れ、同じ藩同士が憎しみあってのすさまじい戦いとなった。その為、目玉をえぐったり、片手片足を切ったり残酷な殺し方となり、戦死した者たちの死体は、堀の中などにゴロゴロと重なっていた。
数日後、村松藩の人が両軍の戦死者の片付けに来たそうだが、あまりにも多くの死体で地元の人たちも駆り出され片付けた。しかしその資金も無かったので戦死者が身に着けている物は全部持って行っても良いとの事だった。三百とも四百とも言われる戦死者の始末についての状況は、今まで分かってはいなかったが、最近になって分かってきた。
当時(百五十年前)は階段を登った所に赤坂峠の街道(峠道)が有りその道を利用して死体の始末をしたようだ。今でも直径二メートル位の穴の形がある。
赤坂の戦いより百五十年(平成三十)を迎え有志により改めて古戦場全体を供養いたします。
赤坂古戦場保存会一同
平成二十九年十月














一十郎とお蘭さま(2)

一十郎とお蘭さま(2)

  • 作者:高見まこ/南條範夫
  • 出版社:リイド社
  • 発売日: 2008年07月

























赤坂古戦場の碑