直江兼続 南魚沼市



(会津移封)

慶長3年(1598)1月10日、秀吉の命令で景勝が越後60万石から会津120万石に加増移封されると、兼続には出羽米沢に6万石(配下の与力分を含めると米沢を含む出羽置賜、陸奥伊達、陸奥信夫の三郡内に30万石)の所領を与えられている。兼続は上洛して三成と打ち合わせ、ともに会津へ乗り込み、共同指揮して困難な転封を滞りなく成し遂げた。
3月下旬になって、国替後、景勝がはじめて会津入国する。
慶長3年(1598)8月18日、秀吉が死亡する。この報を受け、兼続は、9月末から慶長4年(1599)8月初旬まで伏見の上杉屋敷に滞在して、三成と往来を重ねて密に議を謀った。兼続は盟友の石田三成と共謀し、東西で挙兵し、家康を挟撃しようという家康封滅の策を練り上げた。その後、景勝と共に8月に帰国した兼続は、諸城の修築、新城・神指城の築造、道路や橋梁の普請、武具の調達、牢人の募集など、公然と軍事力の増強に乗り出した。
天下の覇権を我が物にしようと露骨に策動する徳川家康が景勝の上洛を促す。景勝は領国経営を理由にこれを拒否。

(関ケ原の戦)

慶長5年(1600)に入ると、上杉家の重臣で津川城代を務める藤田信吉が会津を突然出奔して徳川秀忠のもとへ駆け込み、「景勝に異心あり」と報じる事件があった。また、会津の周辺の諸将も、戦争準備を急ぐ会津の様子を、家康に注進している。このように、東国に於いて、会津上杉家に心を寄せ、与力する勢力は殆どいなかった。
4月13日、兼続の知己で家康の意を受けて上杉家との交渉に当たっていた僧西笑承兌がしたためた書状を携えた問罪使が会津若松城を訪れる。これに対し、兼続は、「直江状」として有名な返書をしたため、家康を糾弾する。
5月3日、兼続からの返書を見た家康は激怒し、大阪城西の丸大広間に諸将を集めて上杉討伐を宣言した。
6月2日、家康は上杉を討つべく会津出征の準備を命令。
6月6日に諸大名を大坂城西の丸に招集して軍議を開き、会津遠征の部署を策定。
6月16日、家康が大坂城を発して遠征の途に就く。
小山に到着した家康は、石田三成挙兵の報を受け、息子の結城秀康を宇都宮に残し、上方へ向かう。
兼続は三成との打ち合わせ通り、義挙であると徳川軍の追撃を強く主張したが、景勝は撤退する敵に追い打ちをかけるのは上杉謙信公の家訓に反すると、認めなかった。景勝が兼続の申し出をはねつけることは前例のないことであった。兼続も、三成との約束は義に基づくものではあるが、謙信公の名前を出されては、従わざるを得なかった。
兼続はやむなく方針を変更し、三成と家康との戦いは長期に及ぶと予想し、三成を東北から支援するため最上へ攻め込むなど四方に軍事行動を開始した。家康が関東を留守にしている間に最上領を攻め取り、越後の旧領も回復しようという策であった。
7月に、兼続は上杉軍を旧領越後に侵入させ旧領を回復することをもくろみ、越後の堀家の動きを牽制した(上杉遺民一揆)。兼続の思惑通りに進めば、上杉家は徳川家に並ぶ、200万石の大大名となるのであった。
9月、山形城主最上義光を攻める作戦計画を立てた。会津軍を3軍に分け、山形城の周辺の支城を陥落させていく作戦で、兼続は第一軍24、000名を率いて進発した。
9月9日に米沢城を進発、早くも13日に畑谷城を攻略し、16日には長谷堂城を囲んで菅沢山に本陣を置いた。最上義光は、応援の兵を派兵するとともに、伊達政宗に支援の兵を送るよう要請した。
9月17日から攻撃を開始したが、長谷堂城の守りは固く、小競り合いはあったが、戦線は膠着状態に陥入り10日以上が経過した。ちなみに、城攻めは、上杉謙信も苦手にしており、百戦錬磨の謙信でも、短気に力攻めで城を落とそうと総攻撃をかけて敗退した例がある。兼続は力攻めせず、城に籠った兵が城外へ打って出てくるよう、色々策を弄したが、援兵の到着を頼む最上方の守りは固かった。
9月29日になって、城兵たちが、城から打って出た激戦となったが、大勢に大きく影響することはなかった。
同じ29日、9月15日の関ケ原合戦で予想に反してわずか1日で西軍が敗北したという報が、景勝がいる会津若松城に届いた。景勝はもはや最上攻めは断念するほかはないと、即日、兼続のもとへ早馬を仕立てて西軍の敗北を報じ、即時の撤退を命じた。
10月1日から上杉軍の最上攻撃から撤退が開始された。このとき、2万余騎の自軍の殿軍を、兼続がみごとに務めたという。『懸り退き』とか『繰り退き』という謙信直伝の戦法を採用し、翌2日、3日と撤退をつづけ、4日にはほとんど無傷の状態で米沢城に帰還した。
後に、この撤退戦の様子を、兼続から聞いた家康は、見事な殿軍戦であったと絶賛したという。
10月20日、会津若松城に諸将を集め、今後の方針について軍議を開いた。実質的には兼続と三成が主導した、徳川家康を封滅する作戦は失敗し、その責任は兼続にあったが、景勝は一言半句も咎めず、兼続を執政兼軍師の地位にとどめた。また軍議では多数の将が徹底抗戦を主張したが、景勝・兼続主従は上杉家を存続させるべく家康との和睦の道を模索することを主張した。
兼続は、景勝の名前で、本多正信、本多忠勝、榊原康政などに、家康に対して取り成しを依頼する書状を送った。
翌慶長6年(1601)7月1日会津を発し、景勝・兼続主従は、家康に謝罪するため、同24日に上洛して伏見屋敷に入った。
8月16日、大坂城で家康に謁見し、会津120万石から米沢30万石(出羽置賜、陸奥伊達・信夫の三郡)への減移封を申し渡された。家康から罪を許された景勝は大減移封となったが、兼続が進めていた政治工作が実り、上杉家の取り潰しは免れた。家康は兼続の才を高く買っていたという。
その後は徳川家に忠誠を誓い、戦国乱世の終焉を自覚して、以後上杉家の経営方針を転換し、殖産興業と米沢の町づくりに一心を注ぐようになる。
換金植物である漆、桑、青苧、紅花、楮、柿の六種を御役作物として栽培を推奨した。また、鋳物業の振興にも力を尽くし米沢鋳物業の基礎を築いたといわれている。(👉上杉遺民一揆)

(米沢藩の基礎を築く)

兼続は大減封により過大となった家臣団をリストラすることはせず、上杉家中に残ることを望んだ者はすべて三分の一の減俸にとどめて受け入れたのである。自身の禄6万石のうち5万5000石を家臣に分け与え、自らは5000石に甘んじた。兼続が家臣の召し放ち(解雇)をしなかったその根底には謙信から受け継いだ『愛』の心であった
会津から米沢への減移封時、家臣5,000家族30,000人が一小都市であった米沢に移住した。当時の米沢の住宅は800戸、人口6000の小都市であるから、新たに迎え入れるだけの、家屋敷や、食事のための作物も極端に不足していた。兼続は、慶長6年(1601)に上級・中級家臣団、慶長7年(1602)2月以降に下級家臣団と、2回に分けて移住させた。下級家臣団の多くは荒地に配し、自給自足を奨励した。
本来は大混乱は避けられないところであったが、兼続の見事なリーダーシップで大移住を滞りなくなしとげた。家臣や領民は、兼続の独裁に不満を抱くことはなかったという。
その一方で兼続は婚姻関係による政治工作を行っている。上杉家と徳川家の融和を図り、上杉家の将来の安泰を図るため、慶長9年(1604)に本多正信の息子である本多政重を自身の養子として迎え入れた。徳川家の系列に入ることで、上杉家の政策転換を対外的に印象付けようとした。政重とは養子縁組が解消されても親交が続いている。
慶長13年(1608)1月4日に重光に改名する。
米沢城の本格的な拡張工事や城下町の整備は遅れた。ようやく外堀を掘り、外曲輪を造営できたのは慶長13年(1608)で、屋敷割が行われたのは翌14年(1609)であった。
慶長19年(1614)正月、松平忠輝の居城高田城築城の際、伊達政宗の指揮の下に、主君景勝とともに天下普請を行なっている。
1614年(慶長19)から翌16515年(慶長20)の大坂の陣においても、徳川方として参戦し、武功を挙げた。
慶長20年(1615)に息子の景明が病死。養子に迎えていた本多政重も慶長16年(1611)に直江家を去っており、後継ぎはいない。景勝が、直江家の家名を惜しみ、養子をとることを勧めた。
兼続は、「ありがたきお言葉なれど、将来上杉家のお役に立つかも分からぬ養子を迎えて高禄を食ませるのは、藩を預かるものとしてなすべきことではござりませぬ」藩財政はいまだ厳しく、俸禄の返上が景勝に対する最後の尽忠と考えたのだ。
元和5年(1619)12月19日、江戸鱗屋敷(現:東京都千代田区霞が関2-1-1警視庁)で死去。景勝は「わしより先に死ぬる奴があるか」と呻くような声を漏らして慟哭したという。60才。米沢徳昌寺に埋葬、後に米沢林泉寺に改葬された。
兼続夫妻の墓は万年堂(万年塔とも言われる)と称される。外観は家型の鞘堂で、四角の枠石に宝形造の屋根を載せ、その中に五輪塔を納めている。戦いの際に防塁に利用するため、兼続が考案したとされている。兼続は、米沢防備には鉄砲を重視し、幕府にも内密に1000挺の鉄砲を製造している。そして、米沢城から半径4,5キロのほぼ同心円上に50以上の寺院を配し、さらに藩士の墓石を防壁や盾に利用すべく、台石の上にほぼ真四角の石を載せた形状をしているが、四角い石の内部はくり抜かれ、側面に鉄砲狭間(銃眼)として利用できる複数の穴がうがたれている。常在戦場、死んだ後も、上杉家のために役立つことを考えた。
兼続は詩文の才にも優れ、多数の秀作を残している。兼続の遺作となった漢詩がある。
独在他郷憶旧遊 (独り他郷に在りて旧遊を憶ふ)
非琴非瑟自風流 (琴に非ず瑟に非ず自ら風流なり)
団々影落湖辺月 (団々影は落つ 湖辺の月)
天上人間一様秋 (天上 人間一様の秋)





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