松田伝十郎 樺太を島と確認




松田伝十郎 明和6年(1769年)〔生〕- 天保13年(1842年)〔没〕

明和6年(1769)、頚城郡鉢崎村(現柏崎市)の貧農浅貝源右衛門の長男として生まれる。父は4歳の時に死亡、それから残された姉とともに、母の手一つで育てられた。
天明元年(1781)長雨で崩れた米山峠の復旧工事の監督・幕府普請奉行大西栄八郎にその才を見込まれ江戸におもむき、武士としての修行を重ねた後、幕府役人小人目付役松田伝十郎の養子となり、初めは仁三郎を名乗った。そして、養父の死後の文化 5年(1808)には伝十郎を継いだ。

寛政11年(1799)2月、幕府はロシアの南下がしきりに伝えられる情勢に対処し北方防備を強化するため東蝦夷地を松前藩から上知させ、松平忠明を蝦夷地御用掛に任じ経営にあたらせた。
伝十郎は、蝦夷地直轄に際して蝦夷勤務を志願し、文政 5年(1822)蝦夷地が松前藩領となるまで幕府御用掛として樺太探検と蝦夷地経営に従事した。
幕府は文化4年(1807)には松前藩を移封して西蝦夷地とカラフトを直轄地とし、全蝦夷地を直轄統治することとした。

文化 5年(1808)2月、伝十郎はカラフト奥地と黒龍江下流の探検を命ぜられ、函館奉行支配下の、間宮林蔵とともに樺太を探検した。 その当時、カラフトは大陸の一部と考えられ、未知の土地であった。
4月13日に宗谷を出航し樺太白主に着き、二手に分かれて調査し、島であればどこかで落ち合うことで「樺太」が島であることを確認しようとした。伝十郎は西海岸を、林蔵は東海岸を小船で北上したが、林蔵はシレトコ岬で北上を断念し西海岸へ出て松田と再会した。松田はそれより北ラッカ岬まで行き、この時の現地の状況と住民からの事情聴取で、北に行くほど海が狭くなり、更に北では浅瀬になり、潮の流れも強いことから島であることがほぼ間違いないと確信していた。
ラッカ岬は、海に突き出た岩石の岬で眺めのよいところであった。ラッカ岬にたって、はるかに北を望めば、マンゴー川の河口と思われるものがのぞまれ、さらに、西の方には山丹の山河が手に取るようにはっきり眺められた。
時に6月20日、伝十郎は岬に,「大日本国境」の木柱を立て帰途についたが、その途中、間宮林蔵と再会し、ラッカ岬に戻り島である事を説明した。林蔵も松田とともに再調査した結果から、同様な意見を持っていたという。

松田は同年10月江戸に帰り、樺太見聞の実測図を幕府に提出した。林蔵は翌文化6年(1809)に再度渡樺し、沿海州までおもむき「樺太」が島であることを発見する。
松田が確信した海峡が、間宮海峡とされたことについては、林蔵の探検報告書が幕府天文方高橋景保に提出され景保が日本近海航図にカラフトを離島と表し、その地図がオランダ商館シーボルトによりMamia Str.として紹介されたからである。
松田を思う人たちは、功名心の強い林蔵が、探検隊長を差し置いて自ら幕府役人高橋景保に報告したからだといっている。
いずれにしても、地元米山町の人々は「カラフトは離島なり、大日本国境と見きわめたり」と刻んだ碑を建立し松田のカラフト探検を称えている。

文化6年(1809)2月、伝十郎はカラフト守備隊の観察や先住民の撫育、大陸に山丹人との交易取締りなどを命ぜられた。文政 5年(1822)松田は、永年その経営に携わってきた蝦夷と樺太が松前藩に返還されるにおよび、江戸に帰ることになり、その時の無念の心境を次のように詠んでいる。

「骨折し24年の粟餅を 黄粉くるめて鷹に取らる」

その後、北方勤務の経験から得た蝦夷と樺太の自然・風俗・異国船の来航・幕府の対策などを記録した「北夷談」を著した。松田が江戸にいた文政 6年(1823)に、郷里現柏崎市米山町の蓮光院に建てた父母の墓があり、施主江都松田傳重郎とある。文化14年(1842)に75歳で亡くなり、駒込の吉祥寺の喜蔵庵に葬られたという。


松田伝十郎の碑
〔所在地〕新潟県柏崎市米山町聖が鼻
〔アクセス〕JR信越本線米山駅から1.2km 徒歩で14分


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ジャンル:ラーメン
アクセス:JR信越本線(直江津-長岡)米山駅 徒歩20分
住所:〒949-3675 新潟県柏崎市米山町53-6(地図
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情報掲載日:2015年12月2日