松田伝十郎 Denjuro Matsuda 柏崎市
松田伝十郎 明和6年(1769)〔生〕- 天保13年(1842)9月10日〔没〕(少年時代)松田伝十郎(幼名は幸太郎)は、明和6年(1769)、頚城郡鉢崎村(現柏崎市)で馬指(宿場の問屋で荷物を人馬に振り分ける)を業とする浅貝源右衛門の長男として生まれる。父は4歳の時に死亡、それから残された姉とともに、母の手一つで育てられた。幼い幸太郎は母を助けて働いた。天明元年(1781年、12歳)、この年は長雨が続き、米山峠に山崩れが発生し、街道の通行が困難となり鉢崎宿も大きな被害を受けた。 鉢崎は佐渡から金を江戸に運ぶ佐渡御金荷の道(北国街道)で、関所が置かれ、宿「たわら屋」※ストリートビューは幕府の役人などが宿泊する本陣となっていた。 米山峠の復旧工事は国役普請で復旧することになった。監督として幕府普請奉行大西栄八郎が来て、たわら屋に宿泊した。たわら屋は浅貝家と親戚だったので、幸太郎も手伝いに入り、役人の雑用を助けたりしていた。 大西奉行は、幸太郎の人柄と人並み以上の才能を見込んで江戸で武士として育てようと考えたという。母も、幸太郎が立派に成長することを願って送り出した。幸太郎少年は武士となるべく修行したのち、天明2年(1782)大西栄八郎の同僚で、御小人目付松田伝十郎の養子となり、名前を任三郎と改めた。そして、養父の死後の文化 5年(1808)には伝十郎を継いだ。 (蝦夷地勤務)箱館奉行所の組織奉行 - 組頭(支配吟味役) - 組頭勤方(吟味役) - 調役 - 調役並 - 調役下役元締 - 調役下役 - 同心組頭 - 同心 - 足軽他に通訳、在住、雇、雇医師がいた 幕府は海岸防備に意を注ぐとともに、蝦夷地(北海道)の探検調査にのりだした。 寛政11年(1799)2月、幕府は北方防備を強化するため東蝦夷地を松前藩から上知させ、7年間、仮直轄することとした。旗本松平忠明を蝦夷地御用掛に任じ、その下に80余名の属僚を組織し経営にあたらせた。蝦夷派遣に応じる武士が少なかったが、松田任三郎はすすんで志願して応募した。 任三郎は寛政11年(1799年、30歳)2月13日、江戸を出立。 3月24日政徳丸で、品川出帆、風波になやませられること3か月ののち6月14日、東蝦夷の厚岸に着岸上陸した。はじめ厚岸の勤番所※ストリートビューに勤務して先住民の交易を監視し警護にあたった。次いで虻田で正月を迎え、越年在勤した。 2年近く蝦夷地での勤務に終えた仁三郎は江戸勤務を命じられ、江戸へ帰り蝦夷地の事情を幕府に報告した。 霊岸島の蝦夷会議所に勤務し蝦夷地から廻送された荷物の取り扱いの仕事に従事した。 享和3年(1803年、34歳)、東蝦夷地は永久上知となり、箱館奉行が置かれる。箱館奉行戸川筑前守のもとで、調役下役として択捉島勤務を命じられた。得撫島を調べ、択捉島の奥まで行き、ここで日本人として初めて一人で越冬した。 文化元年(1804)は、ウルップへ渡りロアトイヤへ出かけて、寒さで手が凍傷にかかったことや、8月、クナシリへ引き揚げる途中、嵐にあい、船が岩に衝突し九死に一生を得たこともあったという。また函館から青森の間でまた風波に合うなど、半死半生の思いを重ねた。江戸にもどり、また蝦夷会所に勤務した。 文化4年(1807年、38歳)4月ロシア船が頻繁に蝦夷地に出没したことから、幕府は松前藩を陸奥国伊達郡梁川に9千石で移封、領地を上知するとともに、松前奉行所を設置し、西蝦夷地とカラフトを直轄地とし、全蝦夷地を直轄統治することとした。箱館奉行所は松前奉行所※ストリートビューに移された。 仁三郎は奉行戸川筑前守に従って5月10日江戸を発ち、箱館に渡った。奉行所では宗谷勤番所勤務を命じられ北方防御にあたった。ここで越年した。 文化5年(1808年、39歳)仁三郎は松前奉行支配調役下役の元締に任じられた。この時養父の名を継いで名を伝十郎と改めた。 (カラフト探検)文化 5年(1808年、39歳)2月、当時カラフトは大陸の一部と考えられ、未知の土地であった。松前奉行所宗谷勤番所に勤務していた伝十郎は、松前奉行所支配吟味役高橋三平重賢からカラフト奥地と山丹(沿海州黒竜江下流域)地境の探検の命令書を受け取る。伝十郎は隊長として、蝦夷地御用雇であった普請役御雇間宮林蔵(このとき32歳)を伴って出発した。探検は大船で沿岸を調査するのは不便なので、小船で行くように指示された。 4月13日に宗谷を出航しカラフトシラヌシ(※地図 ※ストリートビュー)に着く。シラヌシには会所があり、ここで探検の計画をたてた。二手に分かれて調査し、島であればどこかで落ち合うことで「カラフト」が島であることを確認しようとした。 伝十郎は西海岸を、林蔵は東海岸を図合船(小船)で北上することとした。間宮林蔵らは東海岸探検のため、4月17日シラヌシを出発、松田伝十郎らは西海岸探検のため5月2日出発した。松田隊は図合船にのり西海岸を進み、カラフト西岸最大の集落トンナイ※ストリートビューに到着する。最大といっても先住民の家が十戸程度であった。伝十郎は6日間滞在し、さらに北上した。 5月17日、ナヨロ※ストリートビューに達した。最上徳内の到達したところである。ナヨロの酋長は清国から役人に任命されていて、3年に1度は清国の北部満州に朝貢していたという。 5月25日、ポロコタンに着いた。ポロコタンから北は海が浅く、先住民の丸木舟に乗り換えてさらに北へと探検を続けた。 6月2日、モシリア出発。 6月4日ヲッチシでは、山丹服を着た住民に襲われそうになるが、案内人のアイヌ人が通訳して説得する。 9日ノテトに着いた。ここで間宮隊の消息を得るため、10日滞在したが手がかりがないまま、遂に単独前進を決意した。 6月19日、舟行ができないので、陸行してラッカ岬まで進んだ。伝十郎は北緯52度のラッカ岬の岬頭に立って、海峡を隔てた西方の大陸の諸山を眺めた。この時の現地の状況と住民からの事情聴取で、北に行くほど海が狭くなり、更に北では浅瀬になり、潮の流れも強いことから島であることがほぼ間違いないと確信した。 ラッカ岬は、海に突き出た岩石の岬で眺めのよいところであった。ラッカ岬に立って、はるかに北を望めば、マンユー川(黒竜江)の河口と思われるものがのぞまれ、さらに、西の方には山丹の山河が手に取るようにはっきり眺められた。伝十郎はもはやこれ以上船を使っての探検は困難であると判断した。 伝十郎は、山丹のガマウタ・モテップの山を目標に、付近の状況を地図に描き、この場所を清と日本との国境と定めた。これは当時としてはわが国最北の国境であった。 6月20日、伝十郎は岬に,「大日本国境」の木柱を立てノテトに向かい帰途についたが、その途中、シレトコ岬で北上を断念し西海岸へ出た間宮林蔵と再会した。 林蔵は伝十郎の行ったところまでゆかなくては申し訳ないので、明日にでも波が和らぎ次第渡海して奥地をきわめたい、と強く希望した。 林蔵の案内人が林蔵だけでは嫌だというので、やむなく伝十郎も再度ラッカ岬まで同行した。 ともに再度北上し、ラッカ岬まで来てカラフトが島であると判断した事情を説明した。松田はここからナッコに戻った。林蔵は先に進もうとしたが、やがてもどってきて、「少しも先へ歩行叶かたく、見切り戻りし」と語った。 のちに伝十郎は『北夷談』を表し、これらのことを詳しく記している。 閏6月18日、シラヌシに戻る。閏6月20日、宗谷に無事帰還、奉行に探検の結果を報告した。伝十郎は同年10月江戸に戻り、カラフト見聞の実測図を幕府に提出した。幕府は伝十郎のカラフト探検の労に報いるために、白銀5枚と金十両を下賜した。 (間宮海峡)功名心に燃える間宮林蔵は、翌年文化6年(1809)に第二次探検を編成し、再度渡樺し海峡を精査確認し、沿海州へ渡り「カラフト」が島であることを確認する。伝十郎が確信した海峡が、間宮海峡(ロシア名 ネベリスコイ海峡(※地図 ※ストリートビュー)とされたことについては、林蔵の探検報告書が幕府天文方高橋景保に提出され、景保が「日本辺海略図」にカラフトを離島と著した。この地図がオランダ商館医員シーボルトにより、大著「Nippon」所収の地図で紹介され、海峡は「Str.Mamia 1808」として紹介された。これが間宮海峡の名を世界的ならしめるもとになった。 松田を思う人たちは、功名心の強い林蔵が、探検隊長を差し置いて自ら幕府役人高橋景保に報告したからだといっている。 しかし、間宮林蔵は伊能忠敬に師事し、測量の技術を習得し、伊能の蝦夷地の地図を完成させている。幕府天文方高橋景保は伊能の事業を監督援助し伊能の死後『大日本沿海輿地全図』を完成させた。林蔵もまた伊能の事業が完遂されるよう景保に協力していた。同行した幕府役人の名前より、すでに地図作製で実績のあった間宮を信頼して、シーボルトは海峡に間宮の名を使ったのではないかと思う。 いずれにしても、地元米山町の人々は、昭和47年(1972)11月、松田伝十郎が死んで130年、その郷里の地に、顕彰碑がたてられた。その碑文に、「カラフトは離島なり、大日本国々境と見きわめたり」と刻み、※ストリートビュー松田のカラフト探検を称えている。 (カラフトの経営)その後も、文化6年(1809年、40歳)2月、伝十郎はカラフト赴任を命じられ、カラフトで越冬。当時、大陸から多くの山丹人が渡来し先住民と交易をおこなっていた。伝十郎は交易の状況を調べると、先住民は貂皮を売り山丹人はそれを大陸で売りさばいていたが、先住民は貂皮の代金の前払い金を受け取ったり、生活資金の融資を受けるなどして、山丹人に支配される状況となっていた。伝十郎は、この借金を幕府が代わって返済することによって、先住民を幕府の統治に組み入れることに成功した。 クシュンコタン(※地図 ※ストリートビュー)に基地があり、幕命により津軽兵が守備兵していたが、伝十郎は先住民の中から選抜して戦闘訓練を行い守備の強化をはかった。 文化8年(1811)にも北蝦夷詰、文化9年(1812)にも蝦夷地渡航、ゴローニンの警固にあたった。 東方へ領土を拡張していたロシア帝国は、オホーツクやカムチャツカ半島のペトロパブロフスクを拠点に、千島列島の領土化を進めていた。文化元年(1804)皇帝・アレクサンドル1世の親書を携えてロシア船が長崎に来航したが、幕府は文化2年(1805)3月、通商を拒絶している。ロシア船は文化3年(1806)から文化4年(1807)にかけて、力による通商を求め、択捉島やカラフト、利尻島を襲撃し先住民の子供らを拉致したほか略奪や放火などを行った。 ロシアと幕府の間で緊張が高まっている最中の文化8年(1811年、42歳)、ゴローニン事件が発生し、ディアナ号の艦長ゴローニンが松前奉行所によって捕縛された。 文化10年(1813年、44歳)、ゴローニンがロシアに引き渡されることが決まると、8月13日にゴローニンらは牢から出され、引渡地である箱館へ移送された。この時、伝十郎は松前から箱館までの護送責任者を勤めている。 文化14年(1817)、6回目の蝦夷地渡航、江差勤務、さらに文政3年(1820)、7回目の蝦夷地渡航、箱館詰となり、宗谷からカラフトに渡った。 増毛(マシケ)で越年し、文政5年(1822年、53歳)正月、幕府の政策転換により、蝦夷地を松前氏に変換するというしらせに接した。そして11月、永年その経営に携わってきた蝦夷とカラフトが松前藩に返還され、伝十郎は江戸に帰った。幕府は伝十郎の誠実恪勤な北辺踏査を賞し、支配勘定に任じた。 蝦夷地経営に辛酸を重ねた伝十郎は、蝦夷地を去る時の無念の心境を次のように詠んでいる。
松田が江戸にいた文政 6年(1823年、54歳)6月、母の重病を知らされた。伝十郎は、江戸から早駕籠で故郷の鉢崎に向けて夜を日についで急いだが、死に目に会うことはかなわなかった。郷里現柏崎市米山町の蓮光院に父母の霊をまつる墓をたて、施主江都松田傳重郎とある。 伝十郎は天保13年(1842)9月10日に江戸神田の家で75歳をもって世を去り、駒込の吉祥寺の喜蔵庵に葬られたという(現在喜蔵庵はなくなっており、墓は確認できない)。 幕府は安政2年(1855)に再度カラフトなど北方の地を直轄地として北方領土の経営に乗り出した。越後・佐渡をはじめ全国各地から農民・漁民が移り住んだ。伝十郎は、日本国の北方領土開拓の先駆者であった。 松田伝十郎の碑
松田伝十郎偉業顕頌碑。中越地震後、2010年建直されたもの。伝十郎が少年の頃眺めた日本海を一望できる名勝に建てられた。 ※ストリートビュー 〔所在地〕新潟県柏崎市米山町聖が鼻 〔アクセス〕JR信越本線米山駅から1.2km 徒歩で14分 ※ルートマップ 《松田伝十郎記念碑外マップ》
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