見附の結城紬 見附市
木綿織物が見附で盛んになったきっかけは、このあたりを支配していた村松藩の家中婦女子が内職として行った木綿糸の生産である。藩はこれを領内に広めさせ、製品を織物産地として知られる下総結城に売り込んだ。 ところが、越後からの糸の中に粗悪品が混じっていたため結城では買い入れを停止し、販売先を失った木綿糸がだぶついた。こまった村松藩では、見附の商人に命じあまった糸を使って織物を生産することを計画した。 そして文政10年(1827)、下野足利から高機の織子を高給で招き、見附近在の女達に教えさせた。その後、染色職人を結城から雇い、機具一式も買い揃えた。 こうして見附の木綿織りが始まり、評判が高まって見附結城と呼ばれるようになった。天保13年(1842)ころには、まだ1万5000反ほどであったが、幕末期に急増し、明治6年(1873)には18万反に達した。 織子に機具・原料糸を貸してそれぞれの家で織らせる出機が多かったが、一部には織小屋に機子を集め、糸引き・機織など分業で働かせる工場制手工業の方式も見られるようになった。 見附結城は、昭和初期に途絶えてしまいました。現在見附の織物工業は化繊やニットに移っています。 しかし、平成21年(2009)、見附織物工業協同組合が「見附染め織りサークル」の協力で復刻。藍染と高機(たかはた)を用いて当時の生地を再現しました。 ■結城紬について(結城商工会議所) 資料館
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