日本国 Mt.Nihonkoku 村上市
日本国(標高555.4m)は名前の気宇壮大さに比べれば低い山である。山頂に二等三角点の標識が設置されている。日本国は、すり鉢を伏せたような山容の朝日連峰から派生した村上市小俣と山形県鶴岡市温海の県境に座す山で、地元では、その山容から「石鉢山」とも呼ばれている。 日本国の「日本国変成岩」は、日本変成帯と呼ばれる特殊な地層として地質学上貴重な山でもある。片理、片麻状の横縞が発達した組織を持つ日本変成岩は花崗岩内緑岩様、または片麻状花崗内緑岩といわれ、日本国の起源、地球の地殻変動と深い関係を持つのではないかといわれている。 山名の由来については、鷹の献上説、蝦夷との国境、あるいは出羽の国羽黒山の開祖蜂子皇子の望郷説などがある。 ✢山名の由来 山麓付近は手入れの行き届いた杉の人工林帯となっている。杉林を抜けると尾根道となり歩きやすく、ブナ、ナラなどの四季折々変化する樹形を見ながら緩やかに高度を稼ぎながらの道が山頂まで続く。山頂には避難小屋、展望台がある。眺望は素晴らしく、朝日連峰、飯豊連峰、鳥海山、麻耶さん、日本海に浮ぶ粟島、佐渡などが望める。この山の名前を、なぜ日本国と言うのだろうか。この山の名前の由来には諸説がある 。鎌倉時代、幕府に追われた皇子が、この山に隠れ住んだとか、江戸時代に狩の名人がみごとなタカを生け捕り、これを見た徳川家光が「捕れた山は今後、日本国と名づけよ」といったことから名付けられたと言われたりする。 また、大和朝廷が、この辺まで蝦夷勢力を平定し、ここまでが日本国といわれたともいう。 この第三の説は、羽越本線中条駅から北西7キロの日本海沿いに発達した砂丘内陸側に 乙宝寺で有名な乙(きのと)集落がある。この地名は、大化改新直後、東北経営の有力な前進基地として築造された柵戸(きのへ)が転化してつけられたと推定されている。 古代日本の最果ての地である越後の北端のこの地方が蝦夷と古代日本のフロンティアだったと想像される。そこで大和支配圏と蝦夷との国境であるこの地点に「日本国」の名称がつけられたといわれている。 <現地案内看板より>名峰「日本国」 「日本国」山名の起りは、諸説ありて定かでない。 人皇三十二代崇峻天皇は在位五年にして、時の権力者蘇我氏のために暗殺される。その第一皇子、蜂子皇子はその時御年五歳である。聖徳太子は、皇子のの身の上に魔の手の延びるのを案じて、皇子を都より落しめた。さすらいの身となった皇子は、越の国の最はてに来て大いに産業を興し五十三歳で出羽国羽黒山で没した。 皇子は、晩年この高山に登りて、故郷飛鳥のある未申の方位を指差して「これより彼方は日本国」と仰せられた。これが「日本国」の始まりとも言う。 皇子なきあと、大和朝廷は大化の改新を行い、蝦夷地平定の大業を進め、越の国の要害の地に柵を設けた。その渟足柵、岩舟柵、そして幻の柵といわれる都岐沙羅柵は、日本国と一致するとの学説もある。 また、江戸後期、遠藤太郎次なる若者がこの山の頂で見事な鷹を捕らえ、徳川十代将軍家治に献上せしところ、将軍は「これは天下無双の鷹なるを持って、捕れた山を「日本国」と名付けよ」と賞したという言い伝えもある。 まさに名峰「日本国」は、千古の謎を秘めし山である。 山北町 登山口は、旧小俣小学校前登山口と蔵王口の2つのコースがある。日本国は、中部北陸自然歩道として整備され、四季を通じて楽しめる山である。毎年5月5日は山開きを行い、歴史が息づく日本国制服の登山イベントが行われている。 小俣宿は慶長3年(1598)、豊臣秀吉の命で村上頼勝が加州小松より入封され村上領となったが、その後天明8年(1788)以降明治維新まで、米沢藩領預地として塩野町代官所の支配を受けた。俳聖・松尾芭蕉や、出羽三山への信者が通ったりした、出羽街道の要衝で宿場町として栄えた。しかし出羽国との国境であったことから、戦国時代から戦いの場となり、明治戊辰戦争では、新政府軍と庄内藩との間の激戦の舞台となり、小俣の集落は焼き払われてしまった。小俣の集落の街並みは、住民の努力によって明治維新後に復興したものである。小俣集落の旧家を見ながら出羽街道の宿場の面影に触れるのも良い。 🔶旧小俣小学校前登山口旧小俣小学校前にある登山口はしめ縄の張られた杉林にある。杉林を登る道は小俣川沿いに大きく山腹をからんでいる。そばにラジウム清水がある。これから先に水はないので補給しておく。15分ほどで杉林は終わり、喬木帯が始まるあたりで、「山頂まで2.1キロ」の標柱があり、春には登る小道の両側にコブシが咲き競う。 花崗岩を削り、作られた砂れきの歩きやすい緩い尾根道で、木々に樹木版がつけられているので、歩きながら山野草や植物の観察をしながら登るのも楽しい。 山腹を右に回りこみ眼下に小俣の集落が見える稜線上に出る。松ヶ峰広場にはベンチがあり、ちょっとした広場となっていて小俣集落が一望できる。松ヶ峰の先の沖見休憩所の付近から、ブナ林の中を歩き、根が登山道に張り出し階段状になって歩きやすく、昔大蛇が住んでいたという『蛇逃峠』に着く。360°の大展望台である。 蛇逃峠は、蔵王口からのコースとの分岐点で東屋がある。蛇逃峠から少し先、鷹待場跡付近から先の東面は、県境になり日本国山頂はすぐだ。 戊辰戦役の激戦地を思わせる砲弾跡を過ぎて小鞍部へと下り、山頂へと続く右に山形県小名部、左に新潟県府屋を眺めながら稜線をたどれば標高555.4mの二等三角点の標石が迎えてくれる。 山頂には木造平屋の休憩小屋と展望台がある。 展望台は一段高く造られており、階段を上ると眺望はすばらしい。朝日、飯豊の連峰、鳥海、月山、麻耶山、粟島、佐渡島、眼下には鼠ヶ関海岸が眺められる。 帰路は蛇逃峠の分岐点まで戻り、蔵王堂登山口へ下る。この道は登ってきた道より少し急で、山道らしくなるので足もとに注意が必要だ。急勾配の丸太の階段が続く。左にツバキの群落が現れると道もなだらかになり戊辰戦役の記念坂を過ぎれば蔵王堂は近い。蔵王堂の祠から登山口は一投足の距離で、鳥居のそばに登山口の表示があり、旧出羽街道に出る。小俣集落の軒並みをゆっくり見学しながら、20分ほどで小俣登山口のバス停に戻る。(案内図) <現地案内看板より>蔵王堂
元和元年(1615)、大坂夏の陣に従軍した郷土の若者佐藤源左衛門家の次男が、帰路吉野山に詣で蔵王堂より神体を護して帰り村に祀ったものです。以来この地を金峰山と呼んでいます。ご神体は室町後期の作で桧の寄せ木づくりで、2度の遷座の後、元宮の現地に鎮座されました。昭和26年(1961)9月の室戸台風の折、お堂と共に麓に飛ばされご神体を破損しましたが、昭和62年岩座を新調し湧出憤怒のお姿に復元しました。 環境庁・新潟県 【小俣渓谷】府屋で日本海に注ぐ大川の支流が小俣川で、落差が少く、水が清く澄んでいるのが特色の清流である。小俣集落の手前1キロ辺りから渓谷の様相を見せてくる。旧小俣小学校前から村上方面へ国道を行くと、最初のトンネルの手前の橋が、一ノ瀬橋である。ここからの新緑、紅葉は小俣川の渓谷と調和して心奪われる美しさである。 同橋から300mばかり下流の所に巨岩が見える。上部が少し平になっている。「おまんの鏡岩」で、昔あった村人と女中奉公のおまんとの悲恋物語が残されている。 渓流釣りの人たちは、イワナ、ヤマメを求めて、ここからさらにさかのぼり、ブナの紅葉が見事な雷峠まで入る。渓谷は深くなる。
【白山神社大杉】※GOOGLE 画像樹齢1200年と推定されるもので、県内でもまれにみる大杉である。根回り13.4m、樹高39mで、樹勢は今でも盛んである。白山姫命をまつるこの神社は、小俣佐藤一族の氏社であったが、現在は全住民の氏社となっている。![]() |
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