尾瀬三郎 Saburo Oze 魚沼市
| 今をさかのぼること八百余年、長寛年間(1163-65)。当時貴族階級の権勢漸く 衰え、保元、平治の乱を経て、これに取って代る田舎武士平氏の台頭急となる。その数
多い頭領中、一世の智将平清盛の勢威は正に昇天の如く、藤原氏や院政側を抑圧し、為 に一方に大なる反感を持たれたのである。 第78代二条天皇の御宇、左大臣藤原経房の二男、尾瀬三郎藤原房利は、時の美しい后( きさき)に深い思いを寄せていた。 病弱の帝は在位6年わずか22歳で早世されたが、 残された若き皇妃は才色すぐれ水も滴る許りの容色は宮廷の内外に其の比を見なかった 。妃は尾瀬三郎と、いつしか割なき間柄となった。 (※二条天皇と藤原経房の年齢からみて、その子尾瀬三郎が天皇の后と割りない仲となるのは無理があるので創作と思われる。) 尾瀬三郎は絵もよくたしなんだという。ある時、后の絵姿を書き、見つめていると、絵 筆の先から胸のあたりにポタリと滴が落ちた。 それを同じく后に恋していた平清盛が見、「ここにほくろがあることまで知っていた とは、」と言いがかりをつけ、三郎を越後に流し、都から追い払った。 尾瀬三郎は従臣浮田の一党を伴って、遥々越の国薮神の荘(現在の湯之谷村である)に 辿りついた。 さて恋仇清盛に敗れた三郎が京の地を離れるに際し御妃はひそかに三郎に形見として虚 空蔵菩薩の尊像を賜わった。三郎房利はこれを守り本尊として崇め、片時も肌身を離さ なかったという。 哀れに思った土地の豪族はひそかにこれを関東方面に逃したが、山中に迷い込んでしま う。すると行く手に童子が現れ、枝を折々道案内してくれた。枝折峠の名はここに起因 すと云う。 さて一行、この頂に立って見渡すに渓谷は東南に向って展け、一条の清流せんかんと東 流するを見て勢いづけられ、流れに沿って前へ前へと進む程に、遂に更に大きな一川と の合流点に達した。右せんか左せんかと跨躇することしばし、この時偶々上流から笠の 骨らしいものの流れ来るを発見。依って川上に人家ありと見、猶も歩をつづけて川を遡 ること数日、遂に口内(燵岳)の山麓に大きな沼を発見した。 (・‥後、尾瀬三郎の名にちなんでこの沼を尾瀬沼という。) 此に於て附近の岩窟に居を定め、此所を本拠として広く志を同じくするものと密かに通 じ藤原家再興を画し、営々として金銀、武具等戦備蓄積に努め、それらの埋蔵地は汎く 関八州に及んだ。 又、同時に尾瀬周辺に天嶮を求めて要害の砦さえ築いたものの、天彼にくみせず哀れ三 郎房利は大事を前にして空しく配所の鬼と化し、これがため家臣亦離散して、ここに尾 瀬氏は威亡した。 三郎房利の歿後、その尊崇し来った守り本尊の化身は牛に乗って川をひた下りに下っ たが、浪拝の岩場で牛は敢えない最期をとげた。この地点を牛淵と称し今に伝わる。 さて件の化身は暫らく此所の岩壁に休まれ後、更に下って北之岐川との合流点に達した 時、蛇を呼びこれに乗って川を下ったが両岸欝蒼たる断崖相迫り昼猶暗く、見ゆるもの とては只々川ばかり。この伝説あるため後世この川を只見川と呼ぶに至ったという。 かくて化身はなおも下って会津、柳津にとどまると後祀られて柳津虚空威尊となり、今 会津有数の霊場である。 昭和40年(1965)に尾瀬三郎の石造が建てられた。悲劇の大宮人の姿を今に伝えている。 ≪現地案内看板≫
尾瀬三郎の像 長寛元年八百年余の昔尾瀬三郎大納言藤原房利は時の権力者平清盛と美しい皇妃をめぐって恋のさやあてとなり、敗れた清盛のざんそによって京の都を追われこの地に入山したと伝えられています。 六尺豊かな貴公子尾瀬三郎は都を想い恋しい妃を想い藤原家再興を誓って薮神の荘現在の湯之谷を本拠に金銀武具等戦備の蓄積に努めたものの志ならず哀しくもこの地に果ててしまいました。尾瀬三郎は都を去るときに皇妃から賜った虚空像菩薩像を終生肌身離さずにいたといわれます。 一人の女性を想う一途な男性の心にあやかろうと、近年ひそかにこの像を拝み恋の成就を願う女性も多くなりました。 平成十六年 新潟県魚沼市 地図
ストリートビュー
|
|
|
