尾瀬三郎 Saburo Oze 魚沼市



今をさかのぼること八百余年、長寛年間(1163-65)。当時貴族階級の権勢漸く衰え、保元、平治の乱を経て、これに取って代る田舎武士平氏の台頭急となる。その数多い頭領中、一世の智将平清盛の勢威は正に昇天の如く、藤原氏や院政側を抑圧し、為に一方に大なる反感を持たれたのである。

第78代二条天皇康治2年(1143)6月18日 - 永万元年(1165)7月28日✢在位:保元3年(1158)8月11日 - 永万元年(1165)6月25日の御宇、左大臣藤原経房永治2年(1142) - 正治2年(1200)閏2月11日の二男、尾瀬三郎藤原房利は、身の丈6尺豊かな堂々たる体躯と美貌の持ち主で、加えて弓矢をよくし、馬を責め、唐宋の学問にも秀でるという、非の打ちどころのない若者であった。時の美しい后藤原多子保延6年(1140) - 建仁元年(1202)12月24日 第76代天皇・近衛天皇の皇后であったが、その死後、第78代天皇二条天皇のたっての希望で后となり「二代の后」と呼ばれた。当時18歳であった。(まさるこ)に深い思いを寄せていた。病弱の帝は在位6年わずか22歳で早世されたが、 残された若き皇妃(当時25歳)は才色すぐれ水も滴るばかりの容色は宮廷の内外に其の比を見なかった。后多子は尾瀬三郎の心を知ってか折を見ては召し、機会を作っては呼んで、二人の間は日ごとに深まって割なき間柄となった。

(※二条天皇と藤原経房の年齢からみて、その子尾瀬三郎が天皇の后と割りない仲となるのは無理があるので創作と思われる。)

尾瀬三郎房利は宝物殿の守護を命ぜられていたが、当時の貴族社会に流行していた似絵もよくたしなんだという。ある時、后の絵姿を書き、見つめていると、絵筆の先から胸のあたりにポタリと黒い墨が一滴落ちた。そこが御后様の胸、即ち乳房の上にあたっていた。
三郎の同僚の三条義光は、何事にも優れた美丈夫の三郎を妬ましく思い、折あらば蹴落としてやろうとその機会をねらっていた。義光は一目その絵を見るなり、三郎を蹴落とす好材料だとばかり、会う人ごとに「もったいなくも御后様の絵を描き奉り、しかも胸にホクロのあることまで承知ではただことではない」と言いふらした。

それを同じく后に想いを寄せていた平清盛永久6年(1118)1月18日 - 治承5年(1181)閏2月4日(当時40歳代)の耳にも入り、清盛を激怒させた。
三郎は不敬の至りであると捕らえられ、越後の国へ流罪と決まり、都から追い払らわれた。 尾瀬三郎は従臣浮田の一党を伴って、遥々越の国薮神の荘(現在の湯之谷村が含まれる)に 辿りついた。

清盛に追われた三郎が京の地を離れるに際し后はひそかに三郎に形見として虚空蔵菩薩の尊像を賜わった。三郎房利はこれを守り本尊として崇め、片時も肌身を離さなかったという。

湯之谷の里では土地の郷士上野四郎範重と吉田隼人が、悲劇の尾瀬の三郎房利を哀れみ、何くれとなく世話をしてくれた。
そのとき村の人々が三郎にじゃが芋を献上したことから、のちにじゃが芋のことを「献上芋と呼び」明治のころまで一部の古老には呼び方が残っていた。三郎の一行は、上野・吉田ら郷士たちの援助で牛と三十人の人夫を得て原生林に分け入った。

一行はやがて大きな峠に差し掛かった。道を聞きながらの峠越えは難渋を極め、ついに方角を失ってしまい途方に暮れていた。
すると行く手に童子が現れ、枝を折々道案内してくれた。枝折峠の名はここに起因すと云う。

一行がこの頂に立って見渡すに、渓谷は北ノ又川に沿って東南に向って展けた場所であった(現在の銀山平)。一条の清流潺湲と東流するを見て勢いづけられ、流れに沿って前へと進む程に、遂に更に大きな一川(只見川)との合流点須原に達した。右せんか左せんかと跨躇することしばし、この時偶々上流から笠の骨らしいものの流れ来るを発見。依って川上に人家ありと見、猶も歩をつづけて、川に沿ってさかのぼること数日、やがて大きな滝に行く手をはばまれてしまった。滝を憎み、誰も言うとなく「にっくきこと三条義光の如し」と言い出し、そのことからいつか「三条の滝」と呼ばれるようになったという。
遂に燵ヶ岳の山麓に一行がようやく川の源を極めてみると、そこにはびっくりするような大草原が広がり、大きな沼が鏡の如く光っていた。
(・‥後、尾瀬三郎の名にちなんでこの沼を尾瀬沼、大草原を尾瀬ヶ原と呼ぶようになった。)

ここに於て附近の岩窟に居を定め、この場所を本拠として広く志を同じくするものと密かに通じ藤原家再興を画し、営々として金銀、武具等戦備蓄積に努め、それらの埋蔵地は汎く 関八州に及んだ。
又、同時に尾瀬周辺に天嶮を求めて要害の砦さえ築いたものの、天彼にくみせず哀れ三郎房利は大事を前にして空しく露と消えた。これがため家臣もまた離散して、ここに尾瀬氏は威亡した。

三郎房利の歿後、その尊崇し来った守り本尊の化身は牛に乗って川をひた下りに下ったが、浪拝(なみおがみ)の岩場で牛は敢えない最期をとげた。この地点を牛淵と称し今に伝わる。 さて件の化身は暫らくこの所の岩壁に休まれ後、更に下って北ノ又川との合流点に達した時、蛇を呼びこれに乗って川を下ったが、この場所を蛇淵という。両岸欝蒼たる断崖相迫り昼猶暗く、見ゆるものとては只々川ばかり。この伝説あるため後世この川を只見川と呼ぶに至ったという。 かくて化身はなおも下って会津、柳津にとどまると後、祀られて柳津虚空威尊となり、今会津有数の霊場である。また浪拝には奇岩に虚空蔵岩の名がついた場所がある。
浪拝や須原、牛淵、蛇淵などの土地は、今は奥只見湖の湖底に沈んでいる。


昭和40年(1965)に尾瀬三郎の石造が建てられた。悲劇の大宮人の姿を今に伝えている。




尾瀬三郎像

❏〔所在地〕新潟県魚沼市下折立銀山平
❏〔アクセス〕
❏〔周辺の観光施設〕



≪現地案内看板≫
尾瀬三郎の像

長寛元年八百年余の昔尾瀬三郎大納言藤原房利は時の権力者平清盛と美しい皇妃をめぐって恋のさやあてとなり、敗れた清盛のざんそによって京の都を追われこの地に入山したと伝えられています。
六尺豊かな貴公子尾瀬三郎は都を想い恋しい妃を想い藤原家再興を誓って薮神の荘現在の湯之谷を本拠に金銀武具等戦備の蓄積に努めたものの志ならず哀しくもこの地に果ててしまいました。尾瀬三郎は都を去るときに皇妃から賜った虚空像菩薩像を終生肌身離さずにいたといわれます。
一人の女性を想う一途な男性の心にあやかろうと、近年ひそかにこの像を拝み恋の成就を願う女性も多くなりました。

平成十六年 新潟県魚沼市





























尾瀬三郎像 枝折峠 三条の滝 尾瀬沼 尾瀬ヶ原 福満寺 虚空蔵岩