関山神社 Sekiyama Shrine 妙高市
関山駅から西に約1.2km付近の関山集落にあり、神域は約1万1600㎡、うっそうと繁る木々に囲まれて権現造の社殿が建つ。 奈良時代の和銅元年(708)、インド出身の裸行上人が来往して妙高山を開山したといわれている。平安時代に弘法大師がこの地を訪れ、妙高山の里宮を建立したのが関山神社前身とされる。 以来、七堂伽藍が立ち並び周辺には70もの寺院があったとされ、ご神体も朝鮮三国時代の銅像地蔵菩薩立像と、古くから仏教思想の強い神社だったというのも興味深い。 妙高山を霊山と仰ぐ山岳信仰が広まると、真言宗の山岳道場として繁栄してきた。妙高山は許可がないと登れなくなり、これを機に、関山神社の別当だった宝蔵院の庭に信者が妙高山の景観を模して庭を創ったのが、国指定重要文化財「旧関山宝蔵院庭園」の原点といわれる。 以来、妙高山を霊山と仰ぐ修験道の道場として、別当の宝蔵院とともに繁栄。鎌倉時代は木曽義仲、戦国時代には上杉謙信の厚い尊信を受けた。 上杉謙信は弘治2年(1556)、出家を志し、高野山へ旅立ちしたが、関山権現で祈祷中、箕冠城主大熊朝秀の謀反を知り、還俗して駒帰(青海町)で朝秀軍を撃破した。 その後、御館の乱(1578)の戦火で焼け、一時衰退したが、江戸時代の初期に俊海大僧都が入山して再興し、徳川家光も朱印100石を寄せて保護した。 江戸時代まで関山大権現と呼ばれていたが、明治維新の神仏分離で別当の宝蔵院が廃され、関山神社と改称された。宝蔵院の建物は新井別院へ移されて改修され、庫裏として現存している。 社宝には、朝鮮半島空の渡来品で7世紀ころの作といわれる、県の指定文化財の銅造菩薩立像がある。像高23cm、聖観音菩薩像と推定され、杏仁形の眼、古式の微笑みを浮かべた面相など、奈良法隆寺の夢殿観音に似たところがある。 境内の南にある妙高堂には、木曽義仲が妙高山頂に祭ったと伝えられる、鎌倉時代末期の木造阿弥陀如来像を中尊とする三尊像が安置されている。秘仏とされていて年に1度、妙高山の山開きの7月1日にだけ開帳されている。 妙高堂の近くに粗末な仮堂があるが、平安末期から鎌倉時代の二十数体の、下半身を地中に埋め込んで立てた石仏が並んでいる。「植込式」と呼ばれる石仏で、もと妙高山の登山道沿いに散在していたものを集めたもので、関山では「ミロクさん」と呼ばれている。大きいものは、像の高さが1.31mある。 7月の「火祭り」で披露される「仮山伏の棒使い」や柱松神事「松引き」など、修験道の伝統を今に伝える神事も間近で拝見したい。社務所は基本無人で御朱印は書置きあり。 由緒
関山神社は往古 妙高山関山三社大権現と称し、遠く人皇第四十三代元明天皇の御宇和銅元年裸形上人の開基にして其の奥院たる妙高山頂には三尊阿弥陀如来を奉祀し、麓の関山には別記三神を観請せり、後人皇第五十二代嵯峨天皇の御宇大同五年、僧空海当山に登り霊験神託により朝廷に奏聞して本堂並に七堂伽藍神社僧坊七十二区を建立せりと伝う。また、当社は、木曽義仲公や殊に上杉謙信公の信仰厚く、別当宝蔵院には時折滞在せし外、出陣の度に起請文を納め戦勝を祈願せりと伝う。その戦国乱世に社殿僧坊悉く焼亡するも、徳川氏の治世となり。東叡山天海の弟子大僧都俊海(上杉謙信公の甥)により再興。徳川幕府より神領百石御朱印状、金幣が下附せられ、妙高神奈茶臼不動火打の諸山迄社領であり、上越後第一の信仰の都であった。明治維新に至り朱印地の上地を命ぜられ且神仏混合を禁ぜられたるため関山神社と改称、昭和六年県社に列せられる。現在の本殿は文政元年(一八一八)建立せられたるものなり。 棒遣いと火祭り関山神社の例祭(7月16日~18日)を「火祭り(県指定文化財)」という。仮山伏の棒遣いと火のついた薪を氏子が引く神事が行われるからである。仮山伏演武は戦国時代に修行僧が戦乱から寺を守るために身に付けた武術といわれる。 仮山伏(山伏姿から)の棒遣いは、17日に社殿前、翌日関山集落の横町、小野沢、中町、北沢、駅前寿町で各一回行われる。仮山伏は集落の上、下組から各三人選ばれ、二人ずつ火見、火切り、焼く抜けの役を務める。仮山伏は、太刀、薙、六尺棒を使うが、すべてを棒遣いと称している。 棒遣いは太陽・月光・三又を太刀・薙・棒の山伏の戦闘用具で現し、古くは関山権現の山伏たちが神前に奉納したものである。本祭りに信州戸隠神社から山伏を借りたこともあるという。当妙高村桶海集落の後藤家(屋号おおや)に江戸期作の棒遣い絵図が残っている。柱松引きは、棒遣い神事後に行われる。境内御手洗池前広場の南北約50㍍離れた所に、「若(柱松)」という薪を積み、代証人(代官ともいう)が社殿の神主から、火つけ道具をもらい、火切りに渡す。火切りは駆けて自分の「若」に火をつける。早く火の手の上がったほうが勝ちで、勝ったほうの集落がその都市の大豊作になるという。この後、氏子によって北の定地に「若」を引いて終わる。 仮山伏演武は平成25年(2013)に県指定無形民俗文化財に指定されている。 妙高堂 ※GOOGLE 画像木曽義仲の守り本尊である三尊仏は、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の3尊で、古来、妙高山頂の阿弥陀堂に安置されていたと伝えられる。明治元年(1868)にはじまる神仏分離政策によって妙高山を仏の山とする考えが否定されたため、この三尊像は山頂から退去することになり、明治2年(1869)関山神社の境内に妙高堂が建立され安置されることになった。 妙高山の本尊とされた阿弥陀三尊像は印を結んで立つ阿弥陀如来像を中心に、その左右に両手を胸の前で重ねて立つ観音菩薩像と勢至菩薩像を配置した善光寺式の三尊像となっている。 妙高堂は明治28年(1895)に火災により焼失、大正15年(1926)に再建された。 毎年7月1日妙高山山開きの1日だけ燕温泉仮安置所で御開帳される。 関山仏足石 ※GOOGLE 画像自然石としては日本一大きな仏足石で、鎌倉時代の作と推定され、日本全国に180基余り数えられる仏足石の中で、奈良薬師寺のものに次いで日本で2番目に古いものといわれる。高さ約2mの安山岩の垂直面を用いて、原始仏教信仰の対象で、単独でも礼拝される仏足・華判・舎利塔と左右の脇侍からなる三尊形式で表現した仏足石は他に類がなく、日本で唯一というがとにかく極めて珍しい仏足石である。 中央に仏足(釈迦の左足形)、向かって右側に華判(釈迦の実印)、向かって左側に舎利塔(釈迦の遺骨を納めた塔)を配している。 宝蔵院跡宝蔵院は、明治元年(1868)まで旧関山権現(現関山神社)の別当として広大な社領を有した天台宗寺院であった。将軍家から御朱印地100石として、その書院から見える範囲の山々、妙高山を中心に前山、赤倉山、三田原山、神奈山、大倉山、火打岳、不動山の8山を拝領し、領主として領地経営を行っていた。しかし宝蔵院は明治元年(1868)にはじまる神仏分離政策によって廃寺となり取り壊され関山神社が残された。その庭と石垣は江戸期に造られたものとして県下では珍しいもので、岩・滝・水で構成される庭園の景観は妙高山の山岳景観を写したものであり、礼拝の対象である妙高山が阿弥陀三尊が治める浄土世界であることを築山に置かれた三尊石組で表していた。 |
関山神社の火祭り
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