竹前兄弟と紫雲寺潟干拓 Takemae brothers and Shiunji lagoon reclamation 新発田市


竹前権兵衛・小八郎兄弟の生涯と苦難 干拓計画の着想 工事の推移 周辺諸藩との対立 資金問題 干拓完成後の土地争い 後世への影響

干拓計画の着想

竹前権兵衛・小八郎兄弟が紫雲寺潟の干拓を思い立った背景には、弟・小八郎の商人としての活動と、越後の水害に苦しむ農民との出会いがあった。
竹前家は信濃国高井郡米子村の庄屋を務める一方、硫黄の採掘と販売にも携わっていた。兄の権兵衛は父・次郎助の跡を継いで硫黄事業を経営し、弟の小八郎は江戸に出て硫黄の販売を担当した。小八郎は単なる地方商人ではなく、江戸の商業社会の中で幕府や大名家とも関係を築いていた。
その小八郎が出入りしていたのが、甲府柳沢家の分家で、越後三日市に領地を持つ松平(柳沢)家であった。ここで小八郎は、越後の紫雲寺潟周辺の事情を知ることになる。
当時の紫雲寺潟、別名塩津潟は、現在の新発田市から胎内市にかけて広がる巨大な潟湖であった。南北約8キロ、東西約4キロにも及ぶ広大な水面を持ち、周囲から今泉川や船戸川、加治川水系などの河川が流れ込んでいた。そのため、雪解けや大雨のたびに水位が上昇し、周辺の村々はたびたび水害に見舞われていた。
一方、当時の越後では新田開発が盛んに奨励されていた。徳川吉宗による享保の改革では、増加する人口を支えるための米の増産が重要な課題となり、幕府は資力を持つ民間人にも新田開発を奨励していた。小八郎にとって、この紫雲寺潟は大きな可能性を秘めた土地に見えた。水害の原因となっている巨大な潟の水を抜くことができれば、周辺農村の水害を軽減できる。それだけでなく、広大な干拓地を水田に変えれば、大量の米を生産できる。つまり、治水と新田開発を同時に実現できると考えたのである。
小八郎がこの構想を抱くうえで、もう一つ重要だったのが、幕府による新田開発奨励策である。1722年(享保7)、江戸日本橋に新田開発を奨励する幕府の高札が立ったとされる。小八郎はこれを見た記憶を思い出し、「自分の資金を投じて大規模な新田開発を行う」という考えを具体的な計画へと発展させた。しかし、最初から巨大な干拓事業を決断したわけではない。
小八郎は一度信濃の故郷へ戻り、兄の権兵衛らに相談した。そのうえで実際に越後へ赴き、紫雲寺潟の周囲を調査し、現地の農民から水害や土地の状況について聞き取りを行った。巨大な潟を実際に目の前にして、その広さと工事の難しさを確認しながらも、干拓によって得られる土地の大きさに可能性を見いだした。
こうして小八郎の構想は、単なる商人の思いつきから、具体的な新田開発計画へと変わっていった。1726年(享保11)12月、小八郎は幕府の勘定奉行所へ願書を提出する。計画では、私費2,000両を投じ、約5,000町歩の新田を開発するという壮大な構想であった。ただし、この計画には最初から大きな問題があった。紫雲寺潟は、単なる不要な沼地ではなく、加治川などの増水時に水を受け止める遊水地として機能していたからである。潟を干拓すれば、そこに新田が生まれる反面、洪水時の水の行き場を別に確保しなければならない。
つまり小八郎が考えた干拓とは、単に「潟の水を抜く」工事ではなかった。紫雲寺潟に流れ込む河川、周辺の農村、日本海へ水を流す排水路まで含め、広い地域の水の流れそのものを変える計画であった。このため、後の工事では長者堀の開削、境川の締切、今泉川の瀬替えなど、複数の大規模な治水工事が必要となった。また、新発田藩など周辺の領主との利害調整も避けられなかった。
小八郎の着想は、「水害を生む巨大な潟を、逆に広大な水田へ変える」という発想であった。そして、この壮大な構想に兄・権兵衛が加わったことで、竹前家を挙げた一大事業へと発展していく。後に兄弟が直面する新発田藩との対立、周辺農民の抵抗、資金難、洪水、工事の失敗、そして小八郎自身の死まで、すべてはこの一つの着想から始まったのである。

工事の推移

紫雲寺潟の干拓工事は、単に潟の水を抜けば終わる事業ではなかった。潟へ流れ込む河川を整理し、排水路を新たに開き、海へ水を流す一方で、周辺河川の洪水が潟へ入り込まないようにする必要があった。さらに、新しく生まれた土地へ流入する水を処理しなければならず、工事は幾つもの段階を経て進められた。

長者堀の開削

工事の第一歩となったのが、潟の水を日本海へ直接排出するための長者堀の開削である。長者堀は享保年間以前にも一度掘られていたが、砂丘を掘り割ったため砂が崩れ、たびたび埋没して失敗していた。
竹前小八郎らは、この旧長者堀を再び利用しながら、より大規模な排水路として造り直すことにした。享保13年(1728)7月10日に本格的な工事を開始し、7月中には長者堀の掘削を進め、8月には完成にこぎつけた。延長は3kmを超え、幅約36m、深さ約15mという大規模なもので、工費は約570両、延べ2万8000人余りの労力を要したとされる。現在の落堀川につながる水路であり、紫雲寺潟干拓の基幹排水路となった。

境川の締切

長者堀によって潟の水を海へ抜く一方、潟へ大量の水を流し込んでいた河川を遮断する必要があった。その中心となったのが境川の締切工事である。ところが、この工事には大きな反対が起こった。境川を締め切れば紫雲寺潟への流入水は減るものの、それまで潟が果たしていた遊水池としての役割が失われる。その結果、加治川下流域の洪水が激しくなる可能性があるとして、新発田藩が工事の中止を求めたのである。
小八郎は幕府から正式な許可を得ていることを理由に工事を続行した。新発田藩は幕府へ訴え出たが、幕府はこれを退け、境川の締切が進められた。この時点で、干拓工事は単なる新田開発ではなく、加治川を含む周辺一帯の治水体系そのものを変える工事になっていた。

干拓地をめぐる争い

工事が進むにつれて、別の問題も発生した。紫雲寺潟周辺の土地について、三日市藩側から新たに生まれる土地の帰属をめぐる主張が出されたのである。さらに、享保12年(1727)に小八郎が干拓の許可を得た当時とは、幕府領・藩領の支配関係も変化していた。幕府はこの地域の支配を整理し、干拓によって生じる土地を誰が所有するのかという問題も処理しなければならなかった。小八郎にとって、工事を技術的に進めるだけでなく、新しく生まれる土地の権利関係を幕府や諸藩との間で調整することも大きな課題となった。

小八郎の死と権兵衛への継承

こうした難工事のさなか、享保14年(1729)3月2日、小八郎は故郷の米子村で急死した。まだ30歳であった。干拓工事は最大の発起人を失い、継続そのものが危ぶまれた。しかし兄の権兵衛は事業を放棄しなかった。家族を信濃に残し、自ら越後へ赴いて工事を引き継いだ。
権兵衛は、当初から工事に協力していた宮川四郎兵衛と相談し、資金と土地の配分を改めた。竹前側が5分の3、宮川側が3分の2ではなく竹前家が3、宮川家が2の割合で事業を分担する体制に改め、干拓工事を継続した。

阿賀野川の流路変更

しかし、境川を締め切ったことで、周辺の洪水問題がさらに深刻になった。加治川や福島・阿賀野川周辺に水が滞留しやすくなったため、幕府は紫雲寺潟だけでなく、より広い地域の治水対策に乗り出した。そこで行われたのが、阿賀野川の流路を日本海へ直接導く松ヶ崎放水路の開削である。享保15年(1730)10月に工事が完成すると、阿賀野川の洪水を日本海へ逃がす新しい水系が整えられた。
紫雲寺潟の干拓は、このように潟だけを対象とする工事ではなく、加治川・阿賀野川・日本海を結ぶ広域的な治水工事と一体化していった。

洪水が干拓を進める

享保17年(1732)春、雪解け水による大洪水が発生した。この洪水によって境川の締切が破壊され、大量の水が一気に流れ出した。一見すると工事の失敗であったが、結果的には思わぬ効果をもたらした。洪水の激しい流れが長者堀を大きく浚い、排水路が広がったことで、紫雲寺潟の水位が大きく低下したのである。その結果、約400町歩の土地が姿を現し、干拓によって生まれる新田の基礎が形成された。
この出来事は、長年にわたって人力で掘り続けても容易には進まなかった排水を、自然の洪水が一挙に進めたものでもあった。

今泉川の付け替え

しかし、潟を完全に水田化するには、まだ大きな問題が残っていた。今泉川などの河川が潟へ流れ込む水を別の場所へ逃がすことである。
そこで今泉川を姫田川へ付け替え、さらに加治川へ流す工事が計画された。これにも多額の費用が必要となり、権兵衛はすでに約916両を投入していたが、資金は次第に底をついた。
権兵衛は幕府に2000両の融資を願い出たが、認められなかった。ここで幕府は、竹前権兵衛個人に任せておくのではなく、事業そのものを幕府主導で完成させる方針へ転換した。

幕府による工事の引き継ぎ

幕府は一度、竹前家が開発した土地を収公し、改めて干拓事業を請け負う者を募った。測量の結果、干拓対象地は約1930町歩とされた。
権兵衛にはそのうち500町歩が与えられ、これまでの契約に基づき、宮川四郎兵衛には150町歩、成田佐左衛門には50町歩が認められた。
そのうえで幕府は、信濃・越後・出羽などから開発請負人を集め、17人を選定して工事を進めた。総額7000両もの資金を投入し、今泉川を姫田川へ、さらに加治川へ導く水路を完成させた。そして享保18年(1733)春、ついに干拓地全体で稲作が行われる段階に到達した。
紫雲寺潟の干拓は、小八郎の構想→長者堀の開削→境川の締切→小八郎の死→権兵衛による継承→阿賀野川の治水→洪水による排水路の拡大→今泉川の付け替え→幕府による工事完成という長い過程をたどったのである。
この工事の最大の特徴は、単なる「潟を埋め立てる工事」ではなかった点にある。巨大な潟を水田へ変えるため、周辺の河川そのものの流れを変え、洪水を別の場所へ逃がし、最終的に新しい農村を形成するという、越後平野全体の水利環境を組み替える大事業であった。

周辺諸藩との対立

紫雲寺潟の干拓は、広大な水面を水田に変える大事業であったが、工事が進めば進むほど、周辺諸藩との利害関係が複雑になっていった。紫雲寺潟は単なる一つの潟ではなく、加治川や阿賀野川など周辺の河川とつながり、洪水時には大量の水を一時的に受け止める遊水地として機能していたからである。潟を干上がらせることは、その水の流れを根本から変えることを意味していた。

新発田藩との治水をめぐる対立

最も激しい対立となったのが、新発田藩との関係である。紫雲寺潟には加治川をはじめとする河川が流れ込み、洪水の際にはその水を受け止める役割を果たしていた。周辺の農民にとっては、水害の原因となる一方、洪水を一時的に蓄えることで、下流域への被害を抑える役割も持つ巨大な遊水地であった。
ところが、小八郎らの計画では、長者堀を開削して潟の水を日本海へ排出し、さらに境川を締め切って潟への河川水の流入を止めることになっていた。これが実現すれば、紫雲寺潟は次第に水面を失い、水田へ変わっていく。しかし新発田藩から見ると、これは単に一つの潟がなくなる問題ではなかった。
境川を締め切れば、これまで紫雲寺潟へ流れ込んでいた水が別の場所へ向かうことになる。その結果、加治川下流域や新発田藩領の村々で洪水が増えるのではないかと懸念されたのである。
そこで新発田藩は、境川の締切工事を中止するよう求めた。小八郎にとっても、これは無視できない問題であった。干拓を進めるには水を遮断しなければならないが、周辺地域の治水安全を犠牲にしてまで工事を続ければ、地域全体を巻き込む争いになりかねなかった。
しかし小八郎は、すでに幕府から正式な許可を受けていることを根拠に、工事を続行した。新発田藩はこれを受け入れず、幕府に直接訴え出た。
幕府は新発田藩の訴えを退け、境川の締切を認めた。こうして工事は続行されたが、この判断によって問題が解決したわけではない。むしろ、紫雲寺潟の干拓によって生じる洪水問題を、周辺地域を含めて新たに解決しなければならなくなった。

干拓は一つの藩だけでは解決できなかった

ここに紫雲寺潟干拓の大きな特徴がある。小八郎が目指したのは、潟の水を抜いて新田を造ることであった。しかし、潟に流れ込んでいた水は、工事によって消えてなくなるわけではない。行き場を失った水は、別の河川や低地へ流れることになる。
そのため、境川を締め切った後には、加治川や阿賀野川周辺の洪水対策が必要になった。特に加治川下流域では水害への懸念が強まり、最終的には阿賀野川の洪水を日本海へ逃がすための松ヶ崎放水路の開削へとつながっていった。
享保15年(1730)10月に松ヶ崎放水路が完成すると、阿賀野川の水を直接日本海へ流す新たな水路が整えられた。つまり紫雲寺潟の干拓は、潟だけを対象とする工事ではなく、阿賀野川・加治川を含む広い地域の水系を組み替える治水事業へ発展していったのである。

三日市藩との土地をめぐる対立

もう一つの問題が、干拓によって生まれる土地の帰属であった。紫雲寺潟周辺には複数の領主が関係しており、干拓によって新たに現れる土地を誰のものとするのかは、大きな政治問題となった。
特に三日市藩側からは、干拓によって現れた土地について、もともと水没していた潟ではなく、以前から存在していた荒地であるとの主張が出された。もしそれが認められれば、竹前小八郎らが費用と労力を投じて開発した新田を、別の領主が自領として取り込むことにもなりかねない。
小八郎らにとって、これは事業の採算を左右する重大な問題であった。干拓事業では莫大な資金を先に投入しなければならない。ところが、苦労して土地を生み出しても、その土地の支配権が別の藩に移れば、事業を継続する意味そのものが失われてしまう。
こうした土地の帰属問題についても幕府が裁定に乗り出し、干拓事業を単なる民間の開発ではなく、幕府の政策として管理する方向へ進んでいった。

藩領を越えた幕府の治水政策

このように見ると、紫雲寺潟干拓における諸藩との対立は、単なる工事反対ではなかったことが分かる。新発田藩にとって最も重要だったのは、自領の農村を洪水から守ることであった。一方、小八郎にとっては、潟の水を抜いて新田を開発することが最大の目的である。さらに幕府にとっては、農地を増やして年貢収入を増加させると同時に、越後平野の水害を抑えることも重要であった。
それぞれの立場によって、同じ工事に対する評価が大きく異なっていたのである。結果として幕府は、小八郎の干拓計画を認めながらも、工事が周辺地域の治水に及ぼす影響を無視できなくなった。そのため、阿賀野川の松ヶ崎放水路開削など、干拓事業と一体となった大規模な治水工事を進めることになった。
紫雲寺潟の干拓は、このような諸藩間の利害対立を乗り越えながら進められた。そこには、新田を増やしたい開発側、洪水から領民を守りたい周辺藩、そして越後平野全体の治水と新田開発を進めたい幕府という三者の思惑が交錯していたのである。
この対立を調整しながら工事を進めたことこそ、紫雲寺潟干拓が単なる一地方の新田開発ではなく、享保の改革を代表する大規模な治水・新田開発事業へ発展した重要な理由であった。

資金問題

紫雲寺潟の干拓事業で、竹前小八郎・権兵衛兄弟が最も苦しめられた問題の一つが資金調達であった。広大な潟を干拓するには、排水路の開削、堤防や締切工事、河川の付け替え、測量、人夫の雇用など、莫大な費用が必要であった。しかも、工事費は新田が完成して収穫が得られるまで回収できない。先に巨額の資金を投入しなければならない、非常に危険な事業であった。

小八郎の自己資金による出願

小八郎が干拓計画を幕府に願い出た際には、約2000両を自ら負担して工事を行う計画を立てていた。これは、当時の一個人が手掛ける新田開発としては極めて大きな資金である。
その背景には、兄権兵衛とともに手掛けていた硫黄事業によって得た資金があった。信濃国米子村の竹前家は、東信濃の吾妻山で硫黄を採掘し、幕府へ高品質の硫黄を納めていた。享保4年(1719)には「鷹の目」と呼ばれる良質の硫黄を大量に納め、その代金として1660両余りを得たとされる。
小八郎はこの資金力を背景に江戸へ進出し、日本橋で硫黄を扱う商人として活動していた。そして、そこで得た資金と商人としての信用を、新田開発というさらに大きな事業へ投入しようとしたのである。

担保を工面して幕府の許可を得る

しかし、幕府へ願書を提出したからといって、すぐに工事を始められたわけではない。問題となったのは、広大な事業を実行する人物としての信用と、資金を裏付ける担保であった。
小八郎は江戸で店を借りて商売をしていたが、自分名義で十分な不動産を持っていたわけではなかった。そこで協力者となった江戸の宿屋経営者・成田佐左衛門の援助を受け、借店であった家屋を担保として差し出すことで、幕府から工事の許可を得る道を開いた。
享保12年(1727)10月7日、ついに幕府から干拓工事の許可が下りた。しかし、許可を得たことは、必要な工事費がすべて用意できたことを意味しなかった。むしろここから、実際の工事に必要な莫大な費用を次々と支払っていかなければならなくなった。

長者堀だけでも莫大な費用

最初の大工事となったのが長者堀の開削である。長者堀は紫雲寺潟の水を日本海へ排出するための最重要水路で、延長3kmを超え、幅約36m、深さ約15mにも及んだ。享保13年(1728)に行われた工事には、2万8000人を超える人手が投入され、費用は約570両に達したとされる。
これは事業全体から見れば一部の工事にすぎない。長者堀のほかにも境川の締切、堤防の築造、測量、排水工事などが必要であり、工事が進むほど支出は膨らんでいった。
しかも、紫雲寺潟は広大で、水を抜けばすぐに水田になるわけではなかった。排水した後に残る低湿地を整備し、さらに周辺河川からの流入水を処理しなければならなかったのである。

小八郎の死による事業の危機

こうした資金負担が重くのしかかる中、享保14年(1729)3月2日、小八郎が30歳で急死した。事業の発起人であり、幕府との交渉や資金調達を担っていた小八郎を失ったことで、干拓計画は一時大きな危機に陥った。
しかし兄の権兵衛は事業を放棄しなかった。51歳になっていた権兵衛は、信濃の家族を残して単身越後へ赴き、弟の遺志を継いで工事を続けた。
権兵衛は宮川四郎兵衛に協力を求め、資金面でも事業を立て直そうとした。宮川は越後の治水・新田開発に経験を持つ人物であり、当初から資金の5分の1を負担する代わりに、完成した新田の5分の1を受け取る契約を結んでいた。
小八郎亡き後、事業の出資割合は改められ、竹前側が5分の3、宮川側が5分の2となった。これは、権兵衛が自ら資金を負担しながら、専門家でもある宮川の協力を得て事業を継続するための再編であった。

工事費はさらに膨張する

ところが、工事が進むにつれて予想以上の費用が必要となった。紫雲寺潟を完全に水田化するには、単に長者堀を掘るだけでは不十分であった。潟へ流れ込む今泉川などの河川を別の水路へ付け替え、加治川へ導く必要があったからである。
権兵衛はこの工事にも多額の資金を投入し、約916両を費やしたとされる。しかし、それでも工事を完成させるには資金が足りなかった。
ここに至って権兵衛は幕府に対し、2000両を貸し下げてもらいたいと願い出た。自らの資金をすでに大量に投入しており、これ以上は個人の財力だけでは工事を続けられない状態に達していたのである。しかし、幕府はこの願いを認めなかった。

幕府が事業を引き取る

資金難によって、竹前家だけの力で干拓事業を完成させることは困難になった。そこで幕府は方針を転換し、竹前家を中心とした民間事業として任せ続けるのではなく、いったん干拓地を収公し、幕府の管理のもとで新たな請負人を集めて工事を完成させることにした。
これは権兵衛にとって厳しい措置であった。長年にわたって自らの財産を投入し、弟小八郎の死後も事業を守り続けてきたにもかかわらず、最終段階では土地の支配権を失うことになったからである。
一方、幕府から見れば、すでに巨額の資金と労力を投入した以上、工事を途中で放棄することもできなかった。そこで事業を公共的な新田開発として再編し、広く請負人を募ることになった。
信濃・越後・出羽などから請負人を集め、最終的に17人を選定し、7000両もの資金を集めて工事を再開した。この段階になると、紫雲寺潟干拓はもはや竹前兄弟個人の事業ではなく、幕府の新田開発政策として実施される大規模事業へと変わっていた。

資金問題が残したもの

紫雲寺潟干拓の歴史を見ると、竹前小八郎が最初に自らの資金2000両を投じる覚悟を持っていたことが、事業開始の大きな原動力となった。しかし、工事が巨大化するにつれて、個人資本では到底支えきれない規模へ発展していった。小八郎は工事の途中で亡くなり、権兵衛は自らの財産を投入して事業を引き継いだ。それでも資金は尽き、幕府への2000両の借入願いも認められなかった。最終的には幕府が事業を引き取り、7000両を集めて工事を完成させることになったのである。
つまり、紫雲寺潟干拓の資金問題は、単なる「資金不足」という話ではない。個人の財力と情熱から始まった事業が、巨大化するにつれて個人では負担できない公共事業へ変わっていった過程そのものなのである。
そしてこの過程には、竹前兄弟が私財を投じてまで新田開発に挑んだこと、弟の死後も兄が事業を捨てなかったこと、さらに幕府が最終的に莫大な公的資金を投入して完成させたことが刻まれている。紫雲寺潟の干拓は、民間資本による開発の限界と、幕府による大規模開発への移行を示す事例でもあった。

干拓完成後の土地争い

紫雲寺潟の干拓は、享保18年(1733)頃に新田全体で稲作ができる段階に達した。しかし、工事が完成したからといって、土地をめぐる問題が終わったわけではなかった。むしろ、新しく生まれた土地を誰が所有し、誰が耕作するのかという問題が、その後長く続く争いの火種となった。

干拓完成後の土地争い

紫雲寺潟の干拓は、享保18年(1733)春には新しく生まれた土地で一斉に稲作が始められるまでになった。巨大な潟を水田へ変えるという工事は一応の完成をみたが、土地が生まれたことによって新たな問題が発生した。それが、干拓地の所有権と耕作権をめぐる争いである。

新田開発に参加した人々の主張

紫雲寺潟の干拓には、竹前家だけでなく、宮川四郎兵衛や成田佐左衛門など、多くの関係者が資金や技術を提供した。また、実際の工事には信濃・越後・出羽など各地から多くの人々が集められた。
彼らは長期間にわたって土砂を掘り、堤防を築き、水路を開削した。特に、広大な湿地を水田へ変える工事は過酷であり、工事に従事した人々の中には、完成後にその土地を自分たちの生活の基盤にしたいと考える者も少なくなかった。
ところが、干拓地が完成すると、幕府は新たに生まれた土地について支配関係を整理し、年貢を納める新田として編成していった。そのため、工事に実際に携わった人々の考える「自分たちが開発した土地」と、幕府や地主側が考える「支配・所有する土地」との間に食い違いが生じた。

新しい村々の成立

干拓地では、次第に農村の整備も進められた。享保20年(1735)頃には42の新しい村が成立し、紫雲寺郷農村と呼ばれる地域が形成されていった。また、検地によって新田全体は1万6858石余と見積もられ、「紫雲寺潟新田」として把握された。
新しい村ができるということは、単に耕地が増えるだけではない。そこには百姓の住居が造られ、田畑が割り当てられ、年貢を負担する仕組みがつくられる。そして、誰がその土地を所有し、誰が実際に耕作するのかという土地制度が定められる。
この過程で、干拓工事に参加した人々の権利意識と、幕府が定める土地支配との間に摩擦が生じたのである。

信濃・越後の工事関係者による訴え

特に大きな問題となったのが、工事に参加した信濃・越後などの人々による土地所有の主張であった。工事に従事した人々の中には、完成後の土地を自分たちのものとして認めるよう求める者が現れた。彼らにとっては、長期間にわたり労力を提供し、土地を生み出したという事実が、土地を得る根拠であった。
しかし、幕府側から見れば、新田は検地を受け、領主の支配下に置かれる土地である。工事に従事したことだけで、その土地の所有権が当然に認められるわけではなかった。このため、土地をめぐる主張は容易には解決しなかった。

江戸への訴え

争いは村々だけで解決できる問題ではなくなり、関係者はついに江戸へ訴え出るようになった。新田開発に参加した者たちが、自分たちの土地に対する権利を認めるよう幕府へ訴えたのである。こうした訴訟は一度の裁定で完全に解決するものではなく、土地の所有者、耕作者、年貢負担者など、それぞれの立場をめぐって争いが続いた。
紫雲寺潟の干拓が終わった後も、こうした土地問題は長く残り、地主と小作人との関係をめぐる問題は明治時代に入っても続いたとされる。つまり、干拓によって水害や低湿地の問題を克服し、新しい農地を生み出した一方で、その土地を誰のものとするのかという社会的な問題が新たに生まれたのである。

「開発した者」と「支配する者」の違い

この土地争いを理解するうえで重要なのは、干拓地には「土地を生み出した者」と「土地を支配する者」が必ずしも一致しなかったことである。竹前小八郎・権兵衛兄弟は、莫大な私財を投入して事業を始めた。しかし、資金不足によって幕府が事業を引き取り、最終的には幕府主導で工事が完成した。そのため、土地の帰属も単純に竹前家へ帰ることにはならなかった。
一方、宮川四郎兵衛や成田佐左衛門などには、事業への出資や協力に応じて一定の土地が認められた。しかし、実際の工事現場で働いた多数の人々については、それとは別の問題であった。このように、紫雲寺潟新田では、工事費を負担した者、工事を指揮した者、実際に土地を開いた者、土地を所有する者、そして土地を耕す者という立場が必ずしも一致しなかった。このことが、干拓完成後の土地問題を複雑にしたのである。

新田開発の成功が新たな社会問題を生んだ

紫雲寺潟干拓は、結果として広大な水田と多数の農村を生み出した。享保20年(1735)頃には42の新村が成立し、紫雲寺郷と呼ばれる農村地域が形成された。これは越後平野の開発を大きく進める成果であった。しかし、その成功の陰では、新しく生まれた土地をめぐる所有権争いが起こった。
干拓以前には、そこは広大な水面であり、農民にとって十分な耕地とはならなかった。ところが、長い年月と莫大な資金、さらに多くの人々の労働によって、そこが価値の高い水田へと変わった。その瞬間から、その土地を誰が支配するのかという問題が生じたのである。
そして、この問題は干拓直後だけで終わらず、地主と小作人との関係をめぐる争いとして後世まで尾を引くことになった。
紫雲寺潟干拓の歴史は、巨大な水害地を豊かな農地へ変えた成功の物語である一方、新しい土地を生み出すことが、その土地をめぐる新たな社会的対立を生み出すことにもなった歴史でもあった。

後世への影響

紫雲寺潟の干拓は、享保18年(1733)頃に新田全体で稲作が始まったことで大きな転換点を迎えた。広大な潟が水田へ変わり、それまで水害に悩まされていた低湿地に新しい農村が形成されたのである。しかし、その影響は単に耕地面積が増えたというだけではない。干拓によって越後平野の土地利用と水の流れが大きく変わり、さらに新田社会の形成、土地所有をめぐる争い、治水技術の発展など、後世にまで及ぶ変化をもたらした。

越後平野の農地拡大

最大の影響は、広大な新田が生まれたことである。紫雲寺潟周辺では、干拓以前は水面や低湿地が広がり、農業に利用できる土地は限られていた。干拓によってそこが水田へ変わると、米を生産できる土地が一挙に増加した。
享保20年(1735)頃には42の新しい村が成立し、「紫雲寺郷農村」と呼ばれる地域が形成された。さらに検地によって、干拓地は「紫雲寺潟新田」として把握され、1万6858石余の石高が設定された。これは単に一つの新田が誕生したという規模ではない。新しい村々が成立し、人々が移住して田畑を耕し、年貢を負担するという、まとまった農村地域が新たに形成されたのである。

信濃との結び付き

干拓によって生まれた農村には、工事に携わった人々や、その後移住してきた人々が定着した。その中には信濃から来た人々も多く、紫雲寺新田と信濃との間には人的なつながりが形成された。特に興味深いのが米子村の名称である。新田の中には、竹前兄弟の故郷である信濃国米子村にちなんで名付けられた「米子」の地名が残った。これは、竹前兄弟が単に一時的に越後へやって来た開発者ではなく、故郷信濃の人々や技術、資本を越後の新田開発へ結び付けた存在であったことを示すものでもある。

越後の治水技術への影響

紫雲寺潟干拓では、長者堀の開削、境川の締切、今泉川の付け替え、さらに阿賀野川の松ヶ崎放水路開削など、複数の河川を一体的に扱う工事が行われた。この経験は、その後の越後平野における治水や新田開発を考えるうえでも重要であった。
特に越後平野では、信濃川や阿賀野川などの大河川が大量の水を運び、低地には潟湖や湿地が広がっていた。そのため、農地を増やすには、単に土地を開墾するだけではなく、水をどこへ流すかという問題を解決しなければならなかった。
紫雲寺潟干拓は、新田開発と治水を切り離して考えることができないことを示した代表的な事例となったのである。

干拓によって新たな土地問題も生まれた

一方で、干拓の成功は新しい社会問題も生み出した。完成した新田には、多くの農民が入り、耕作が始まった。しかし、工事に参加した人々の中には、自分たちが苦労して開発した土地について所有権を主張する者も現れた。一方、幕府や地主側からすれば、新田は検地によって公的に位置付けられた土地であり、耕作していることだけで所有権が認められるわけではなかった。
このため、干拓後には土地所有をめぐる争いが起こり、江戸時代だけでなく、地主と小作人との関係をめぐる問題として明治時代まで続いたとされる。つまり、干拓は「土地を生み出す」という物理的な事業であると同時に、誰がその土地を所有し、誰が耕すのかという社会制度を新たにつくる事業でもあった。

竹前兄弟の功績が後世に伝えられる

干拓事業の完成後、竹前兄弟の功績は次第に地域の歴史として語り継がれるようになった。特に弟の小八郎は、30歳という若さで事業半ばに亡くなった。兄権兵衛はその後も事業を引き継ぎ、困難な工事を最後まで支えた。権兵衛は後に紫雲寺を建立し、干拓事業の途中で亡くなった小八郎らを供養した。これは単なる菩提寺の建立ではなく、干拓事業にかかわって命を落とした人々を含め、その犠牲を後世に伝える意味を持つものとなった。
また、文政13年(1830)には、宮川四郎兵衛の子孫によって「決湖開田の碑」が建立された。碑には竹前権兵衛・小八郎兄弟、成田佐左衛門、宮川四郎兵衛らの功績が刻まれ、紫雲寺潟を開いて田地を生み出した先人たちを顕彰している。

権兵衛の言葉と事業精神

権兵衛が晩年、息子の小三郎に残したとされる言葉も、後世に伝えられている。「お上からの援助は考えるな。ただお国のためと思って奉公せよ」この言葉は、権兵衛自身が干拓事業で経験した苦難を象徴するものでもある。
小八郎の死後、権兵衛は自らの財産を投入し、幕府からの資金援助も得られない中で工事を続けた。最終的には幕府が事業を引き取り、広く請負人を集めて完成させたが、権兵衛にとって干拓は単なる利益目的の事業ではなく、地域の農地を増やし、農民の生活基盤をつくる仕事という意味を持っていた。

「私的な開発」から「公共的な開発」へ

紫雲寺潟干拓が後世に残したもう一つの意味は、民間人が始めた事業が、最終的には幕府の大規模事業へ発展したことである。小八郎は自ら資金を集め、幕府の許可を得て工事を始めた。しかし、事業が巨大化すると個人資本では支えきれなくなり、兄権兵衛が引き継いでも資金不足に陥った。最終的には幕府が土地と工事を管理し、7000両もの資金を投入して完成させた。この経過は、江戸時代の新田開発において、個人や商人の資本だけでは対応できない大規模な治水・開発事業を、領主や幕府が引き受ける必要があったことを示している。

後世の越後平野を形づくった干拓

紫雲寺潟が姿を消したことは、越後平野の景観そのものを変えた。かつては広大な水面と湿地が広がっていた場所に、水田と農村が広がり、人々が定住するようになった。河川の流路も変更され、排水路や堤防が整えられ、地域の水環境は干拓以前とは大きく異なるものとなった。
その意味で紫雲寺潟干拓は、単に「一つの潟を埋めた」という出来事ではない。水と土地の関係を人為的に組み替え、越後平野の農村景観をつくり変えた事業であった。
そして現在に至るまで、米子などの地名、紫雲寺の寺院、竹前兄弟を顕彰する碑などに、その歴史の痕跡が残されている。
紫雲寺潟干拓の歴史は、水害に苦しむ土地を農地へ変えるという開発の歴史であると同時に、そのために多くの人々が資金、労力、技術を投入し、さらに土地所有や水利をめぐる新たな問題と向き合った歴史でもある。その経験は、後の越後平野における新田開発と治水の考え方にもつながり、現在の農村景観の形成にまで影響を残している。

🤩三日市藩
享保9年(1724)の質地騒動後、幕府領の一部が周辺諸藩に預けられ、紫雲寺潟周辺は館林藩松平氏と三日市藩柳沢氏の預所となった。竹前小八郎らが干拓を進めると、三日市藩側は、干上がった土地について「もともと潟だった土地ではなく、以前から存在した荒地である」と主張し、その土地を自藩のものとして引き渡すよう求めた。
これは、干拓によって新たに生まれた広大な土地が、誰の支配・所有となるのかという問題であった。竹前側にとっては、莫大な資金と労力を投じて開発した土地を確保できるかどうかに関わる重大な問題であり、三日市藩にとっても領地・収益の拡大につながる問題であった。
その後、三日市藩との交渉の結果、竹前側は800石相当の土地を三日市藩側へ引き渡すこととなった。一方、紫雲寺潟全体の干拓は幕府の関与を強めながら進められ、最終的には約1,900町歩に及ぶ大新田が形成されることになる。
したがって、三日市藩は紫雲寺潟の干拓を直接主導した藩ではないが、干拓によって生まれる土地の帰属をめぐって竹前兄弟・幕府と深く関わった藩と位置づけられる。
🤩新発田藩と紫雲寺潟
紫雲寺潟は、加治川などの水を受け止める巨大な遊水地であり、新発田藩領にとって重要な治水上の役割を持っていた。潟を干拓して排水することは新田を増やす一方、加治川の水が潟へ逃げる余地を失わせ、下流地域の洪水を増加させる危険があった。
享保13年(1728)、竹前小八郎らが幕府の許可を得て本格的な干拓工事を始めると、新発田藩は強く反対した。特に問題となったのが、加治川から紫雲寺潟へ流れ込む境川を締め切る工事である。新発田藩は、潟が加治川の洪水を受け止める遊水地として機能しているため、境川を締め切れば加治川下流の水位が上昇し、周辺の村々に洪水被害が及ぶと主張した。
これに対し小八郎は、幕府から正式な開発許可を得ていることを根拠に工事を進めた。新発田藩は幕府に訴え出たが、訴えは認められず、境川の締切工事が実施された。
しかし、その後実際に加治川周辺の洪水問題が深刻化したため、幕府は別の治水対策を講じることになった。加治川と阿賀野川の水害対策を兼ねて松ヶ崎放水路を開削し、阿賀野川の水を直接日本海へ流す工事を行った。享保15年(1730)に完成し、紫雲寺潟干拓を進めるうえで重要な治水上の条件が整えられた。
つまり、新発田藩は紫雲寺潟を「新田開発の対象」としてだけでなく、領内の洪水を防ぐ重要な遊水地として捉えていたのである。竹前兄弟による干拓計画と新発田藩の治水上の利害が衝突したことは、紫雲寺潟開発史の大きな特徴の一つである。
🤩幕府と紫雲寺潟との関わり
紫雲寺潟の干拓は、当初から幕府が直接工事を行った事業ではなく、享保の改革による新田開発政策を背景に、民間の力を利用して始まった。享保7年(1722)、徳川吉宗は新田開発を奨励し、商人や農民など民間資本による開発を促した。これを受け、竹前小八郎は紫雲寺潟の開発を計画し、兄権兵衛らと資金を集めて幕府に願い出た。
享保12年(1727)に幕府から開発許可が下りると、翌年から竹前兄弟を中心とする民間事業として工事が始まった。この段階での幕府の役割は、政策を示し、開発を認可することであった。
しかし、工事が進むと新発田藩との対立や、加治川流域の洪水問題が発生した。境川を締め切って潟への流入を止めたことで、紫雲寺潟だけでなく周辺河川を含めた広域的な治水対策が必要となった。幕府はこうした問題に対応するため、阿賀野川を日本海へ直接放流する松ヶ崎放水路の開削を進め、干拓事業に対する関与を強めていった。
さらに竹前側が資金不足に陥り、幕府への借入も認められなかったことから、幕府は事業そのものを再編した。開発地をいったん幕府の管理下に置き、新たな請負人を募って資金を集め、工事を継続した。最終的には信濃・越後・出羽などから17名の請負人が選ばれ、約7,000両を集めて干拓を完成させた。
つまり、紫雲寺潟開発における幕府の立場は、「民間に開発を促す政策主体」から「開発を許可する行政主体」へ、さらに「治水を調整する主体」、最後には「事業そのものを統括する主体」へと変化したのである。この変化こそ、紫雲寺潟干拓が単なる民間開発から幕府の重要な新田開発事業へと発展した過程を示している。

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米食悲願民族 紫雲寺潟と江戸時代

米食悲願民族 紫雲寺潟と江戸時代

  • 作者:星野 建士
  • 出版社:自然食通信社
  • 発売日: 2006年12月15日頃







墓所 (紫雲寺) 決湖開田の碑 落堀川 拓魂継承の碑 不動院 米子