忠犬タマ公 faithful dog Tamako 五泉市
昭和初期、早出川の近く五泉市笹目(旧川内村笹目中川原)の猟師刈田吉太郎の家(※地図 ※ストリートビュー)で、メスの柴犬としてタマは生まれた。飼い主の吉太郎は、タマを可愛がり、猟に出掛ける時はいつも一緒に出かけた。 昭和9年(1934)2月5日、刈田吉太郎は猟仲間の小泉石太郎と、川内の山に猟にでかけたとき、八滝沢あたりで雪崩に遭遇した。 あっという間に雪に埋もれ、身動きもとれなくなった。 その時、タマは両足を血だらけにしながらも掘り続け、主人刈田吉太郎を救出した。 一緒に行った小泉石太郎は、タマの活躍もむなしく、助からなかった。 この年の2月の新潟新聞に「雪崩の下から忠犬,主人を救ふ」と紹介され、自分の身体が傷ついても主人を救おうとしたタマは、忠犬として広く知られるようになった。 それから約2年たった、昭和11年(1936)1月10日。刈田吉太郎は、近所の人たち三人小泉重太郎・大鷹与松・五十嵐一郎と桜谷へムジナを狩りに行った。川内村小面谷で、再び雪けむりをたてて落ちる雪崩に遭遇し、一瞬のうちに4人とタマは押し流された。 果敢に雪を掘るタマ。吉太郎は、またしてもタマの活躍で、九死に一生を得ることができた。また、行方のわからなくなった仲間の五十嵐の場所を探し出し、救出した。 二度にわたるタマの働きは、当時の新聞・ラジオでも取り上げられ、美談として報道された。この事件は世界中に報じられ、アメリカ合衆国政府はタマを忠犬として称えた。 タマは昭和15年(1940)、11歳で亡くなった。そして今も、タマの主人思いで勇敢な行動は、新潟中の人々に語り継がれている。 タマ公の像は現在、川内小学校(平成24年(2012)統合し現在愛宕小へ)校庭、JR新潟駅構内、新潟市白山公園、村松記念公園にある。 平成29年(2017)5月、タマ公の銅像が故郷の現五泉市から寄贈され、横須賀市の衣笠山公園に設置された。タマ公の活躍に感激した横須賀市在住の新潟県出身者の熱意で昭和11年(1936)に顕彰碑が同公園内に建立されていた。その後も両地域間で長年にわたる交流を続けており、タマ公像は「友好の証し」となった。 主人の帰りを駅で待った忠犬ハチ公は映画にもなり、世界中で有名となったが、忠犬タマ公は雪崩に巻き込まれた主人達を二度も救った、真の忠犬として、世界中にその名を広めた。 忠犬タマ公像
白山公園に設置された案内看板
忠犬タマ公について 銅像の主「タマ公」は、純日本種の芝犬で、中蒲原郡川内村(現在の村松町)刈田吉太郎さんの飼犬であった。 昭和9年2月5日刈田さんが雪崩で遭難した時、タマ公はこれを救い出し、時の県知事からおほめにあずかった。さらに、昭和11年1月10日雪崩の下敷きになった刈田さんほか3名を救い出した。この2回にわたる働きは、当時、新聞やラジオで世人に伝えられ、忠犬美談の花を咲かせた。 人も及ばぬタマ公の行動に深く感動した川内小学校の渡辺校長は、人間強化の一助、児童教育の一端として、知人と相談し、忠義と勇気を後世に伝えるため、その像を建てる運動をはじめた。県下の小学生達も1銭2銭と献金に応じ、昭和12年11月最初の銅像ができあがった。しかし、その銅像は、太平洋戦争の最中に銅鉄回集運動に応じ供出されてしまったが、その後新潟市民の支援によって、昭和34年4月10日、皇太子御成婚を記念して再建された。 昭和34年4月10日 新潟市長 村田三郎 新潟市愛犬連盟会長 小石栄作 |