巴御前 Tomoegozen 上越市
…………………………………………………………………………………………… ☆ 巴御前 ☆ …………………………………………………………………………………………… 井上靖の歴史小説によって、巴御前は女武者として紹介されて有名になりました。巴は、木曾谷の土豪中原兼遠の娘でした。そして巴の父に匿われていた義仲とは、彼が2歳から27歳で大将になるまで、寝食をともにした仲でした。 宇治川の戦いで源義経に破れ敵中を突破して北陸へと落ちのびるとき、巴御前を入れて主従わずか七騎になっていたといいます。琵琶湖畔の粟津まで逃げのび、敵が急追してきた時、義仲は巴を諭した。「木曾殿の最後の戦さに女を連れていたと言われるのも心外なり」、これが巴との最後の別れだったといいます。 …………………………………………………………………………………………… ☆ 木曾義仲 ☆ …………………………………………………………………………………………… 木曽の源義仲は1183年(寿永2)に、入京を果たしますが、都での木曽兵の乱暴狼藉はすさま じいものでした。後白河法皇は、義仲を京から退去させるため平家追討を命じました。 義仲もそれに応じ挙兵しますが、播州(兵庫)各地で連敗し、次第に勢力を落としてい くようになりました。 そして、鎌倉の源頼朝の使者である源義経や範頼らが京へ接近してくると、義仲は、 11月19日、法皇を幽閉します。義仲は征夷大将軍に任ぜられますが、1184年(寿永3)1 月20日に、義経らの軍隊に琵琶湖畔の粟津における戦いにおいて、石田為久の郎党の 矢を受け討死しました。 …………………………………………………………………………………………… ☆ 巴御前の墓 ☆ …………………………………………………………………………………………… 寿永3年(1184)、後白河法皇と源頼朝に操られ窮地に追い込まれた源氏の闘将木曾義仲は、宇治川の戦いで義経に敗れ、近江の粟津で乳兄弟の今井兼平と合流した。そして手勢三百で六千騎の敵と戦ったが、次第に形勢が悪くなり戦死者が続出、残るはわずか五騎となった。 この中に、兼平の妹で義仲の愛人巴御前がいた。巴は黒髪の肌白の美女だったが、弓矢や太刀をとれば男子をしのぐ勇猛な女傑だった。義仲は、「女のおまえは逃げよ。木曾殿最期の戦いに女が同伴したとあっては、末代までの恥だ」といった。すると巴は、「よき敵に会い、殿の御前で最後の働きをお目にかけます」といって敵陣に突入、武蔵の豪将御田師重を討ち取って東の方へ落ちて行った。 義仲はここで戦死したが、巴はその後越後へ落ちのび、越後に流刑中の親鸞上人に帰依し尼となり、菩提ヶ原(現上越市高田)に草庵を建て、義仲の菩提を弔いながら波乱の一生を閉じたという。 この墓が、高田城跡に近い東城町の三長史稲荷の境内にあるといあわれる。 また、岡原の五社神社の境内に、五輪塔があり、この塔が巴御前の墓とされる伝承もある。 ≪巴御前の伝承が残る処≫ |