巴御前 Tomoegozen 上越市



木曾谷で育った巴御前

巴御前は、『平家物語』に登場する女武者として広く知られる存在である。美貌と武勇を兼ね備えた女性として描かれ、その名は日本史上でも屈指の女武者として語り継がれてきた。現在広く知られる巴御前像には、『平家物語』の記述に加え、井上靖をはじめとする近代文学作品の影響も大きく、歴史上の人物と伝説的人物の両面を持つ存在となっている。
伝承によれば、巴は木曾谷の豪族・中原兼遠の娘であり、木曾義仲とは幼少期から深い関係にあった。義仲は二歳のときに父・源義賢を失い、中原兼遠のもとへ預けられた。木曾で育った義仲は、中原一族に養育され、その中で巴もまた義仲とともに成長したとされる。幼少から二十数年にわたり寝食を共にしたことから、巴は義仲の側近であるだけでなく、特別な絆で結ばれた存在として伝えられる。
巴は弓術、馬術、太刀の扱いに優れ、「一人当千の兵」と称されるほどの武芸の達人として『平家物語』に描かれる。その姿は後世において理想的な女武者の象徴となった。

木曾義仲の台頭

木曾義仲は源頼朝、源義経と同じ源氏一門に属し、治承・寿永の乱で急速に勢力を伸ばした武将だった。
1183年(寿永2)、義仲は倶利伽羅峠の戦いで平維盛率いる平家軍を大破し、一気に京都へ進軍した。この勝利は平家政権に大きな打撃を与え、平家は安徳天皇を奉じて西国へ落ち延びることになる。義仲は京都入京を果たし、一時は朝廷から高い評価を受けた。しかし、木曾兵は都の生活に慣れておらず、略奪や乱暴狼藉が相次いだ。さらに京都では食糧不足も深刻化し、人々の不満は次第に義仲へ向けられるようになった。
後白河法皇は義仲を警戒し始め、鎌倉の源頼朝へ協力を求めた。これにより頼朝は弟の義経と範頼を上洛させ、義仲討伐へ向かわせることになる。

法皇幽閉と孤立

義仲は朝廷との対立を深め、1183年11月には後白河法皇を法住寺殿に幽閉した。この行動によって朝廷との決定的な対立が生まれ、義仲は征夷大将軍に任じられたものの、政治的孤立は深まっていった。
一方で頼朝軍は着実に京へ迫り、義仲は迎え撃つ態勢を整えた。しかし兵力では圧倒的に劣勢となり、かつて京都を制圧した勢いはすでに失われていた。
こうして1184年(寿永3)、義仲と義経との最後の戦いが始まる。

宇治川の戦い

寿永3年正月、宇治川で義仲軍と義経軍が激突した。宇治橋は破壊されていたものの、義経軍は馬で川を渡る強行突破を敢行し、佐々木高綱と梶原景季による先陣争いは軍記物語屈指の名場面となった。
義仲軍は善戦したものの、義経軍の勢いを止めることはできず敗走する。
この頃になると義仲の手勢は急速に減少し、京都から近江へ落ち延びる途中で従う兵はわずかとなった。

粟津への敗走

宇治川敗戦後、義仲は琵琶湖畔の粟津を目指した。伝承では当初三百騎いた兵も戦いの中で次々と討たれ、近江へ至る頃には七騎、あるいは五騎ほどしか残っていなかったと伝えられる。その中には乳兄弟の今井兼平、そして巴御前の姿もあった。
義仲は自らの最期を悟り、巴へ退去を命じる。
  • 「木曾殿最後の戦に女を連れていたと後世に言われるのは本意ではない。」
この言葉は『平家物語』でも有名な場面であり、義仲と巴の別れとして語り継がれている。

巴御前最後の戦い

巴は義仲の命令にすぐ従わなかった。「よき敵に会い、最後の働きを見届けてもらう。」そう言い残し、敵陣へ突入したと伝えられる。巴は武蔵国の豪将・御田師重(あるいは恩田八郎師重)を馬上から組み伏せ、その首を討ち取ったという。
その後、巴は東国方面へ走り去り、義仲の前から姿を消した。この場面は巴御前伝説最大の見せ場であり、『平家物語』によって広く知られるようになった。
ただし、この後の巴の行方について史実として確かな記録は残されていない。

木曾義仲の最期

巴と別れた義仲は、今井兼平とともに最後まで戦った。義仲は粟津で馬を進める途中、深田に足を取られたとも、泥にはまったとも伝えられる。その隙に敵方の石田為久の郎党が放った矢を受け、討ち取られた。享年三十一。今井兼平もまた主君を失った後、自害して果てたという。木曾義仲の戦いはここで終わりを迎えた。

巴御前のその後をめぐる伝承

巴のその後については複数の伝承が存在する。最も有名なのが越後へ落ち延びたという伝説である。
義仲の死後、巴は越後国へ逃れ、流罪となって越後に滞在していた親鸞に帰依したという。
親鸞は1207年に越後へ流され、約七年間を過ごしている。この年代を考えると史実との整合性には疑問も残るが、越後各地では古くから巴と親鸞を結び付ける伝承が語られてきた。
伝説では巴は尼となり、高田の菩提ヶ原に草庵を結び、生涯にわたり義仲の冥福を祈りながら暮らしたという。戦場を駆けた女武者が、晩年には静かな庵で念仏を唱え続けたという物語は、多くの人々の心を引きつけてきた。
(👉 親鸞)

上越市に残る巴御前の墓

上越市には巴御前ゆかりとされる墓が二か所伝えられている。
一つは高田城跡近くの東城町にある三長寺稲荷の境内である。ここには巴御前の墓と伝えられる石塔があり、地元では長く伝承が受け継がれてきた。
もう一つは岡原地区の五社神社境内にある五輪塔である。この五輪塔も巴御前の墓とされる伝承を持つ。
いずれも歴史資料によって巴の墓と断定できるものではない。しかし、こうした伝承は地域の人々によって大切に守られ、郷土の歴史文化として現在まで伝えられている。

巴御前が語り継がれる理由

巴御前は史実だけで語れる人物ではない。
『平家物語』によって描かれた勇猛果敢な女武者像、義仲との悲劇的な別れ、そして越後で尼となったという伝説が重なり、一人の歴史的人物を超えた象徴的存在となった。
また、井上靖ら近代作家による文学作品がその人物像をさらに印象深いものとし、映画、演劇、漫画など数多くの作品にも登場するようになった。
一方で木曾義仲もまた、頼朝や義経の陰に隠れがちな武将ではあるが、平家打倒の大きな転機を築いた名将として再評価されている。
粟津での最期は敗北の物語でありながら、主君を守ろうとする家臣、最後まで戦う義仲、そして別れを告げて戦場を駆け抜ける巴御前の姿が重なり、日本中世を代表する悲劇として語り継がれてきた。
越後に残る墓や伝承は、その物語が戦場を離れた後も人々の記憶の中で生き続けた証であり、歴史と伝説が交差する貴重な文化遺産となっている。


≪巴御前の伝承が残る処≫
















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