吉田東伍 Togo Yoshida 阿賀野市



元治元年(1864)4月14日〔生〕 - 大正7年(1918)1月22日〔没〕

越後が生んだ独学の天才

近代日本の歴史地理学創始者、吉田東伍。その名は、全11冊・総ページ数5,580ページにおよぶ不朽の大著『大日本地名辞書』とともに、没後100年を過ぎた今も色あせることなく日本の学術史に刻まれている。
東伍の偉業が何より人々を驚嘆させるのは、彼が最高学府で教育を受けたエリートではなく、ほぼ完全な「独学」でこれほど膨大な研究を成し遂げた点にある。自らを「図書館が出身学校だ」と称し、既存の枠組みにとらわれずに歴史と地理の本質を追い求めた東伍の生涯は、飽くなき向学心と執念、そして彼を支えた人々との絆に満ちていた。

学問好きな環境と少年時代の「学校嫌い」

吉田東伍(出生時は旗野東伍)は元治元年(1864)4月14日、越後国北蒲原郡安田町保田(現・新潟県阿賀野市保田)の旧家・旗野家の三男として生まれた。生家は阿賀野川の要衝に位置し、林業のほか酒造業や雑貨商を手広く営む素封家(裕福な家)であった。
旗野家は、代々地元の歴史を記録した古文書や絵図面を数多く蔵する、極めて学問好きな家柄であった。父の木七や兄の余太郎は熱心に和歌を詠み、叔父の十一郎は地元に学校を設立して明治唱歌を作詞するなど、東伍の周りには常に豊かな文化的刺激が存在していた。
しかし、少年の東伍自身は、当時の型にはまった学校教育をひどく嫌った。小学校を卒業した後、近所の英国人から英語を学び、さらに新潟英語学校(のちの中学)で3年間学んだものの、結局は中退してしまう。「学校は分かりきったことしか教えてくれないので行く気がしなかった」というのが、本人の弁であった。
東伍の知的好奇心を真に満たしたのは、生家の蔵書であった。特に大叔父である小川心斎が遺した未完の地誌『国邑志(国邑志稿)』を読み耽ったことで、土地の歴史や風土、すなわち「歴史地理学」の奥深い魅力へ引き込まれていくこととなった。

吉田家への養子入りと「図書館卒」の兵隊

明治17年(1884)12月、20歳になった東伍は、中蒲原郡小合村大鹿(現・新潟市秋葉区大鹿)の初代小合村村長・吉田耕次郎の娘カツミと結婚し、婿養子として吉田姓を名乗るようになった。
翌明治18年(1885)、東伍は「一年志願兵」として仙台の陸軍兵学校に入隊する。厳しい軍隊生活のなかにあっても、彼の学問への情熱が衰えることはなかった。休日のたびに東伍が向かったのは、旧仙台藩の貴重な蔵書が収蔵されていた仙台師範学校の図書館であった。
仲間たちが休暇を楽しむなか、一人静かに図書館へ通い詰め、貪るように書籍を読みあさる若き兵士――。まさに、のちに彼が語る「自分は独学で、図書館が出身学校だ」という信念の原形が、この仙台の地で形作られていた。

北海道放浪と歴史地理学会への足がかり

除隊後に帰郷した東伍は、北蒲原郡水原(現・阿賀野市)などで小学校の教員を務めた。だが、一地方の教師に収まるには、彼の向学心はあまりにも大きすぎた。
27歳になった明治23年(1890)の夏、東伍は単身北海道へと渡る。北海道庁の支所でアルバイト(写字生など)をしながら、自らの足で広大な大地の各地を見て回った。この実地調査の成果をもとに、東伍は地元の新聞や東京の歴史雑誌へ次々と論文を寄稿する。
彼の書く論文は、独学ゆえの既成概念にとらわれない鋭い視点に満ちていた。明治24年(1891)、その優れた業績が東京の学術団体「史学会」の専門家たちの目に留まり、在野の無名研究者であった「吉田東伍」の名が、にわかに中央の学界へと知れ渡るようになっていった。

読売新聞社への入社と日清戦争

自らの学問をさらに突き詰めたいというやみ難い情熱から、東伍はついに上京を決意する。このとき彼を導いたのが、同郷の先輩であり、のちに早稲田大学の草創期を支えることとなる市島謙吉(号・春城)であった。市島の紹介によって、東伍は読売新聞社への入社を果たす。新聞記者となった東伍は、「落後生」という筆名で精力的に優れた史論を展開した。さらに、明治27年(1894)に日清戦争が勃発すると、従軍記者として海軍の軍艦に乗り込み、激動の戦地を報道する任務に就いた。
この日清戦争への従軍と戦後の帰郷が、彼の人生を決定づける大きな転機となった。激変する国家の情勢を目の当たりにした東伍は、日本という国のアイデンティティを地名から紐解く、前代未聞の巨大なプロジェクトの着想を得た。帰京した東伍は、自宅の門を固く閉ざし、もっぱら地名辞典の編纂という壮大な戦いへと身を投じていく。

驚異の記憶力と『大日本地名辞書』の死闘

東伍が目指したのは、単に地名を機械的に並べた検索帳ではない。その土地が持つ自然、歴史、文化的風土、変遷のすべてを網羅した、日本統一の「総合大地誌」であった。
しかし、学歴も人脈もない在野の研究者にとって、資料集めは困難を極めた。必要な文献の多くは、内閣文庫や東京大学図書館、政府の地理局などに所蔵されており、一般の立ち入りや閲覧は容易ではなかった。さらに、当時の蔵書家たちは貴重な本を汚されることを警戒し、東伍が写字生(文字を書き写す助手)を連れていくことさえ嫌がった。
ここで、東伍の「驚異的な記憶力」という驚くべきエピソードが生まれる。
閲覧を拒まれるならばと、東伍はたった一人で蔵書家のもとへ赴いた。そして、その場で本の内容を恐ろしい集中力で一気に暗記したのである。頭の中にすべての文章を叩き込んだ東伍は、自宅に戻ると、その先の一週間、何一つ資料を参照することなく驚くべき正確さで原稿を執筆し続けたという。
私生活においては、三男二女に恵まれた子福者であったが、家庭の生計はすべて妻のカツミに任せきりであった。東伍自身は研究と執筆に没頭するため、根津、本郷、神田と次々に転居し、家族と離れて単身、孤独な部屋でひたすら原稿を書き続けた。
この無謀ともいえる挑戦を経済的、精神的に支えたのが、版元である冨山房の社長・坂本嘉治馬であった。坂本は東伍の類稀なる才能と並外れた人物破格を見抜き、社運を賭けてこの辞書の出版を引き受けたのである。さらに、同郷の市島謙吉もまた、惜しみない後援を続け、この孤高の学者を支え続けた。
明治33年(1900)、ついに第一冊が刊行される。そこからさらに遅々とした、しかし確実な歩みで執筆は続き、足かけ13年の歳月を経て、明治40年(1907)10月、ついに全11冊の『大日本地名辞書』が完結をみた。
収録された地名は約4万1,000項目、総文字数は約1,200万字に達した。東京・上野の精養軒で開かれた完成祝賀会に集まった学者たちは、会場にうずたかく積み上げられた原稿の山(復元すれば高さ約4.5メートルに及ぶ量)を目にし、これをたった一人の人間が書き上げたという事実に、一様に言葉を失い驚愕したという。32歳から44歳という、人生で最も脂の乗り切った時期のすべてを、東伍は生活の困窮と闘いながら、この一書に完全に捧げ尽くしたのである。

早稲田での講義と「世阿弥伝書」の発見

『大日本地名辞書』の完成によって名実ともに最高峰の学者となった東伍は、明治34年(1901)から東京専門学校(のちの早稲田大学)の講師に迎えられ、のちに教授として17年間にわたり教壇に立った。
大学の講義においても、東伍の独学精神は揺るがなかった。「歴史は他人に教えられるものではなく、自分で学ぶべきものだ」と学生たちに説き、自律的な学問の姿勢を重んじ続けた。東伍の偉大な業績は、地名辞書だけにとどまらない。明治41年(1908)、彼はそれまで能楽界でその存在が謎に包まれていた「世阿弥の秘伝書」を発見するという、もう一つの歴史的快挙を成し遂げた。
東伍はこれらを注意深く校訂し、『世阿弥十六部集』として刊行。これにより、近代における能楽研究の基礎が確立され、東伍は45歳にして名誉ある文学博士の学位を授与された。さらに、近年では明治39年(1906)に発表した論文『貞観十一年 陸奥府城の震動洪溢』において、平安時代の巨大地震(貞観地震)の津波被害を的確に実証していたことが判明し、現代の防災・震災研究の先駆者としても改めて激しい注目を浴びている。

孤高の最期と受け継がれるDNA

晩年の東伍は、長年の過酷な執筆生活がたたり、腎臓や肝臓、尿毒症を患って体調を大きく崩していた。しかし、大の医者嫌いだった彼は、周囲がいくら勧めても頑なに医者の診察を拒み、代わりに朝鮮人参を片時も手放さずに体調をごまかしながら、執念で研究を続けた。
大正7年(1918)正月、見かねた周囲の強い勧めに従ってようやく転地療養へと赴いたが、時すでに遅かった。赴き先の千葉県銚子の旅館において、東伍は尿毒症のため急逝する。享年53、あまりにも早すぎる、しかし学問に全てを燃やし尽くした生涯であった。
東伍の死後、新潟市秋葉区の正法寺墓地の丘には、彼の偉大な足跡と生涯を伝える850字の碑文が刻まれた美しい墓標が建てられた。また、東伍が執念を燃やした学問のDNAは、家族にも受け継がれていた。彼の次男である吉田千秋は、若くして結核で世を去るものの、のちに大ヒットとなる名曲『琵琶湖周航の歌』の原曲(「ひつじぐさ」)を作曲した天才音楽家として、父とともに今なおその才能を称えられている。
大学という権威に頼らず、「図書館」を師として日本全土の歴史を一人で書き換えた吉田東伍。彼が命を削って残した言葉と膨大な辞書は、誕生から100年以上が経過した現代にあっても、その土地のルーツを尋ねる人々の行く手を照らす、不滅の灯台として生き続けている。


  • 吉田東伍の没後 年が経過しました。




吉田千秋

明治28年(1895)5月19日〔生〕- 大正7年(1918)5月10日〔没〕

『琵琶湖周航の歌』は、大正7年に誕生した不朽の名曲だが、その誕生には2人の天才による時空を超えた奇跡的な巡り合わせがあった。
原曲を作曲したのは、歴史地理学者・吉田東伍の次男である吉田千秋だ。千秋は専門的な音楽教育を受けぬまま独学で才能を開花させたが、若くして結核に侵され、新潟の自宅で孤独な療養生活を送っていた。大正4年、20歳の千秋は、はかない睡蓮の花に自らの命を投影した歌曲『ひつじぐさ』を音楽雑誌へ投稿し、見事入選を果たす。
この楽譜がめぐりめぐって京都の第三高等学校(三高)の学生たちの目に留まる。大正6年、三高ボート部の小口太郎が琵琶湖を周航中に優れた詩を書き上げ、同行していた部員が当時流行し始めていた『ひつじぐさ』のメロディを合わせたところ、奇跡的に合致した。これが『琵琶湖周航の歌』の誕生である。
しかし、千秋は自分の曲が遠い地で愛唱歌となったことを知らぬまま、大正7年に23歳の若さで没した。作詞者の小口もまた26歳で早世し、長らく「作曲者不詳」とされてきた。真実が明かされたのは、千秋の没後75年が経った平成5年のことである。遺品から『ひつじぐさ』の楽譜が発見され、ようやく彼が作曲者であると証明された。新潟の病床で五線譜に向き合った青年と、琵琶湖の水を捉えた学生。2人の短い青春が、100年経った今も歌声の中で生き続けている。











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