吉田東伍 Togo Yoshida 阿賀野市
元治元年(1864)4月14日〔生〕 - 大正7年(1918)1月22日〔没〕 越後が生んだ近代日本の歴史地理学創始者吉田東伍の名は、大著『大日本地名辞書』とともに、没後100年を過ぎた今も忘れられることはない。 吉田東伍は元治元年(1864)北蒲原郡安田町保田で林業をしていた旧家の旗野家の三男に生まれた。 小学校のあと3年間、新潟英語学校で学ぶ。のち中蒲原郡小合村大鹿(現新潟市秋葉区)の吉田家を継いで吉田姓となった。生家は素封家で蔵書も多く、小川心斎の「国邑志」を読み、歴史地理学に心を引かれていった。 一年志願兵で仙台へ入隊したが、師範学校の図書館へ通って書籍を読みあさった。帰京して水原で教員をした後、27歳の夏、北海道へ渡り、道庁支所のアルバイトをしながら各地を見て回り、地元の新聞や東京の歴史雑誌に論文を寄稿した。 明治24年(1891)、史学会にその名が知られ、またやみ難い向学心から上京した東伍は、同郷の先輩市島謙吉(号春城)の紹介で読売新聞社に入社した。明治27年(1894)の日清戦争には報道記者として海軍に従軍したが、帰郷後は硬く門を閉ざしてもっぱら地名辞典の編纂に取りかかった。 在野の研究家だった東伍は、上野や東大図書館、地理局、内閣文庫などで資料をあさり、蔵書家の門をたたいた。三男二女の子福者だったが、生活は妻にまかせ、根津、本郷、神田と転居し、一人暮らしで原稿を書き続けた。 そして明治33年(1900)、ついに第一冊を刊行した。以後13年間に渡って順次刊行し、ここに空前の大著『大日本地名辞書』全11冊、総5,580ペーは完結した。東京・上野の精養軒で完成祝賀会が開かれたのは明治40年(1907)10月のことだった。32歳から44歳までの人生の最も脂の乗り切った13年間を、生活と闘いながらこの一書に打ち込んだ。 この間、惜しみなく協力、後援したのは市島謙吉(水原の豪農市島家の出身)であった。 晩年は早大の講師、教授を17年間務めたが、「自分は独学で、図書館が出身学校だ」「歴史は教えられるものではなく、自分で学ぶべきものだ」といっていた。 医者嫌いで体を壊しても朝鮮人参を手ばさなかった。が、大正7年(1918)正月、転地療養を勧められ、銚子の旅館で死去。53歳尿毒症だった。 秋葉正法寺墓地の丘に建つ850字が刻まれた墓標は、文学博士吉田東伍の偉大な業績を不朽に伝えている。 東伍の二男吉田千秋は『琵琶湖周航の歌』の原曲の作曲者として知られる。 |