バテンレース Battenburg lace 上越市
バテンレースの語源は、発祥の地のドイツハッセン州バッテンベルクという地名からこの名がついたとも、ドイツのバッテンベルク家伯爵夫人ともいわれる。 材料は幅約1ンチの「ブレード」と呼ばれる布製テープ(細幅織物の一種)と糸と型紙だけ。 白紙に下絵を書き、図柄にブレードを縫いつけて、その間に糸を幾重にも組み合わせて、精密で美しい模様を作り上げていく。一針一針を手作業で行い、時間をかけて作られる。 日本には明治20年(1887)前後に、横浜・神戸に渡ってきた。明治25年(1892)、横浜でバテンレースが盛況になっていることを知り、士族救済に奔走していた旧高田藩の藩士により殖産事業として導入される。 産業が無く、豪雪と米の単作地帯で現金収入の少ない高田地方に家内工業として横浜からもたらされ広まっていった。 しかしバテンレースの主な原料となるブレード(テープ)は輸入していたので、原料を手に入れることがなかなか難しかった。 (拡大・最盛期) 明治41年(1908)、根津音吉(十日町市出身)がブレートの製織機を発明し、横浜に東洋ブレード(株)を作った。これで原料が入るようになり、バテンレースの普及に拍車がかかった。 大正期には高田市(現上越市)最大の工業となり、欧米や豪州に輸出されるまでになった。 一年の半分を雪に閉ざされる雪国の風土と、粘り強い越後人の気質に合っていたこと、西欧文化へのあこがれや工賃の率のよさなどが相まって、ここ上越に定着したのである。 (衰退期) しかし第一次世界大戦で合衆国が輸入を禁止したため、大打撃を受け、神奈川・長野県などでは製造業者で廃業するものが相次ぎ、第2次世界大戦によってほぼ消滅した。かろうじて高田市(現上越市)でその技術が維持された。 戦前戦後を通じて幾多の変遷を潜り抜けてきたバテンレースであるが、化繊や安価な輸入用品の氾濫により、生活者もバテンレースの存在に関心が薄れ、製造業者の面でも従業者・後継者の面でも衰退を余儀なくされている。 全盛期には30を超えていた製造業者のほとんどが廃業し、現在では2社を残すのみとなっている。 🔶 新潟県細幅織物協同組合 〔所在地〕新潟県上越市三和区野5262-1 🔶吉田バテンレース 〔所在地〕新潟県上越市東本町2丁目2−2 ⇒※ストリートビュー 〔問い合わせ先〕 ☎025-523-3553 〔特徴〕日本で唯一のバテンレース製作の事業所 〔HP〕 http://battenlace-yoshida.jp/ ☯2018年4月13日、午後8時20分頃、住宅兼店舗「吉田バテンレース」で建物火災が発生した。鉄筋コンクリート3階建ての3階台所から出火し、換気扇周辺の壁と天井裏の約20平方mを燃やして午後9時5分に鎮火した。けが人はいなかった。 ☯2022年㋄、バテンレースが新潟県の伝統工芸品に選ばる。 |
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