粟飴・笹飴 上越市
🔷高橋家の飴菓子 『東海道中膝栗毛』の作者として有名な十辺舎一九は文政11年(1814)、長野善光寺に参詣して高田城下に入り、5日間も滞在した。この間、飴屋高橋孫七・孫八父子のもてなしを受けた。飴屋(高橋孫左衛門)の繁昌ぶりを『金の草鞋』という本に絵入りで記している。高橋家の店先には「十返舎一九ゆかりの地」と刻まれた石碑が立つ。 『金の草鞋』
「今町(直江津)を打ち過ぎて右のほうに春日山と謙信公の城跡あり、高田の少し手前にて宮野左衛門という茶屋に入り、酒酌み交わし、それよりここを立ちて高田の城下に至る。当国一の御城下にて繁昌の所なり。石灰屋という宿に泊まる。横春日町という粟にて製したる水飴、至って上品にて風味よく、ここの名物なり。」 『評判は高田の町に年を経て豊かに住(澄)める水飴の店』と狂歌を付し、「ここの粟飴を食うと、濡れ手に粟をつかむようにうまいことばかりあって、身体が飴のように段々とのびるということだから精を出して上りなされ・・・いやこれは冗談だ。ここの飴は第一粟というが、珍しさと上品で風味がよいという評判でご座居ます。」 高橋家の祖先は越前藩主松平忠直の家臣であたが、主家没落後、松平光長の高田入封にしたがって高田城下に移り、菓子屋となった。そして享保年間(1716~36)に三代孫右衛門が粟から飴をつくることに成功、粟を原料として「粟飴」を製造した。さらに四代孫左衛門は寛政2年(1790)、粟飴の原料を粟からもち米に変えて、淡黄色透明な水飴を製造することに成功した。 これが高田の銘菓として知られる粟飴である。本来ならば『もち飴』とでもいうべきであるが、粟飴の名を受け継いできた。 日本で一番古い飴専門店と言われる。店先を通る旧北国街道は当時、佐渡から江戸への御金荷輸送に使われた幹線道路だった。往来を行く旅人は飴で長旅の疲れを癒やした。 その後、「翁飴」、「笹飴」も発売。粟飴とともに現在でも同社の主力商品として店頭を飾る。 「翁飴」は粟飴に寒天を加えて方形に固めたもものである。高橋家は後に高田藩の御用菓子屋となったが、藩主榊原家に献上して「翁飴」の名称を頂戴した。榊原家や加賀の前田家が江戸への土産にしたので高田の名物となった。 粟飴を練って、殺菌力のある笹の葉にはさみ乾燥させたものが「笹飴」である。 文化文政の頃(1804~30)に、製造販売された。簡素な趣向と笹の香りが珍重されている。 夏目漱石は『坊ちゃんの』の中でーーー清が越後の笹飴を笹ぐるみむしゃむしゃ食べているーーーと書き記している。以来全国的に有名になり上越のみやげに欠かせないものとなった。水飴の風味と笹の移り香の素朴さが身上となっている。 また、明治天皇は、明治11年(1878)、北陸巡幸の際、特に粟飴を気に入り、自ら買い上げ皇后、皇太后への土産にしたという。 店舗は一度、明治8年(1875)の大火で焼失したが、再建された今に続く店舗は国の登録有形文化財に指定されている。なお高橋家は糸魚川の白馬口にある蓮華温泉を開発したことでも知られる。
夏目漱石と笹飴
明治43年(1910)8月、漱石は修善寺で胃潰瘍の療養中に、重態に陥っている。このとき新潟県出身の医師森成麟造(もりなりりんぞう、1884~1955)が治療にあたった。 漱石は森成の勧めで、新潟県の名物「越後高田の翁飴」や「越後の笹飴」を食するようになったという。 その後、森成は新潟県高田市(現上越市)に戻って医院を開業するが、親交が続き、笹飴をたびたび送っていたようである。 『坊ちゃん』四の一節 ・・・・「何をみやげに買って来てやろう、何がほしい」と聞いてみたら「越後の笹飴が食べたい」と言った。越後の笹飴なんて聞いたこともない。第一方角が違う。「おれの行く田舎には笹飴はなさそうだ」と言って聞かしたら「そんなら、どっちの見当です」と聞き返した。・・・・ ・・・うとうとしたら清の夢を見た。清が越後の笹飴を笹ぐるみ、むしゃむしゃ食っている。笹は毒だから、よしたらよかろうと言うと、いえこの笹がお薬でございますと言ってうまそうに食っている。おれがあきれ返って大きな口を開いてハハハハと笑ったら目が覚めた。・・・・ 高橋孫左衛門商店
❏〔所在地〕上越市南本町3-7-2 ❏〔連絡先〕 ☎025-524-1188 ❏〔アクセス〕
❏〔定休日〕 水曜(但し8月は営業) ❏〔ホームページ〕http://www.etigo-ameya.co.jp/ ❏〔商品〕・粟飴・翁飴・笹飴・あられ飴・金の草鞋・勝鬨飴・くびきの里・瑠璃飴・高田城 十五万石・雁木・霜台公・粟の古代飴 高橋孫左衛門商店 (高橋あめや) - 南高田/和菓子 [食べログ] 翁飴 ※動画翁飴は高田藩主の参勤交代のみやげに使われて広く知れ渡ったと言われる。製法は昔とまったく変わらない。翁飴は県内産のこがねもちで作った水飴に寒天を混ぜて固め、米の粉をまぶして乾燥。でんぷん由来の自然な甘さに仕上がる。その後、練り上げた生地を固めて形を作った後、しばらく常温で1~2ヵ月ほど寝かせる。水分が抜けて乾燥した生地が、空気中の水分を自ら蓄えることで、独特のねっとり食感が生まれる。適度な湿気を吸って飴の硬さがこなれたところで店頭に並ぶ。ゼリーのような食感。やさしく、上品な風味。その甘さは自然で、舌にすっとなじみ、深い余韻を残してすっと消えていく。 🔷大杉屋惣兵衛商店の飴菓子 大杉屋は高橋商店よりも古く1592年に創業した。北国街道に面して、旅行者を相手に菓子店を営業していた。参勤交代の諸大名や旅人によって越後追分の御飴大杉屋の名で江戸まで評判が伝わっていた。 文禄年間(1592~96)に大杉九郎衛門が粟と麦から水飴を製し、その後慶長13年(1608)二代惣兵衛がもち米と麦から淡貴透明にして清澄の飴を製し、その淡々たる佳味は評判となった。 翁飴はこの粟飴を角に固め薄くを寒晒粉をまとった逸品でしっかりとした舌ざわりである。 大形屋惣兵衛では江戸末期から明治にかけて「寿老飴」を売り出した。この飴は、無病息災、長寿の飴として、ことに4月の釈迦の花まつりに欠かせない飴として、人々の人気を集めていた。 🤩2024年1月、あめ製品工場(土橋)の老朽化や従業員の高齢化などのため、あめ製造を終了。432年の歴史に幕。 大杉屋惣兵衛商店
❏〔所在地〕上越市本町5丁目3-31 ❏〔連絡先〕 ☎025-525-2500 ❏〔アクセス〕
❏〔定休日〕 木曜日 ❏〔ホームページ〕http://ohsugiya.com/shop.html |
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