地すべり資料館 Landslide museum 上越市
🔗人柱伝説 🔗新潟県内の土砂災害の歴史 🔗名立崩れ名立崩れ名立崩れは、1751年、江戸幕府の直轄領であった越後国頸城郡名立小泊村(現・新潟県上越市名立区名立小泊)で発生した地すべり災害である。寛延4年4月26日(1751年5月21日)の夜八ツ時(午前2時)ごろ、越後国の西部、高田付近を震源とする宝暦高田地震が発生した。この巨大地震に誘発される形で、小泊村を中心に大きな断層を生じ、地すべりによって直下の漁村が一瞬のうちに埋没したとされる。 丁度その前日、名立の漁民が沖合で、名立の山々が「赤気立ちのぼりて火事のごとく」なった(橘南渓・東遊記巻二)のを見て不思議に思って帰村したと記されている。 当時、海岸に沿って細く広がる名立小泊村の集落の背面にある海岸段丘から、幅約1キロメートルにわたり、一部の台地が塊ごと滑り落ちた。 小泊村は525人(本籍人口)のうち428人の人命を失い、民家も91軒のうち81軒埋没、流出し、4軒本潰、3軒半潰の多きを数えた。残ったのは、海から這い上がれた者、旅で留守だった者などわずかに100人余であった。当日梶屋敷の陣屋に出向いていたため助かった庄屋池垣右八が翌5月「差上申一礼之事」としてその惨状を役所に報告している。 現在、トキめき鉄道日本海ひすいライン名立駅裏山は、鳥ヶ首岬を中心に約1.5㎞にわたり急峻な断崖を形成している。そしてその断崖の最高所は海面から160mにあって、落ちた台地は、棚畑あるいは「タナ」と呼ばれ、元よりも半分ほどの高さまで落ちて、階段状になっているのが確認できる。 そこには崖からの水を年中たたえている小さな池があり、タナは今では狭い土地ながら畑地として利用され、断崖の中腹の豊富な水量は名立町の上水道の水源となっている。 タナよりも下の部分は、土石流となって集落を飲み込み、海岸から沖に向かって100メートル以上の暗礁帯を形成した。現在の名立漁港の東防波堤は、その暗礁帯の上に築かれている。 現在、断崖上には百万燭光の鳥ヶ首岬灯台があり、断崖を際立たせている。 4月26日の地震は高田では各所に湧出したり、泥砂が吹き出し、城郭・大手門をはじめ土居廻りが崩壊、士屋敷や町家が潰れ火災が発生した。この地震によって高田領内で全壊あるいは焼失した戸数は6,088、死者は1,128人となっているが、上越全体では幕領を含めての死者は2,000人にも及んだ。この地震がいかに想像に絶する大きなものであったかがわかる。 復旧工事は、庄屋池垣右八が中心に推進されたがなかなか進まず、名立小泊の戸数は災害後の14戸から明治3年(1870)になっても53戸、昭和頃になって当時の状況に復興したに過ぎなかった。 それでなくとも猫の額ほどの土地しかなかった寒村の、3分の2以上の耕地と生活の基盤を失った悲惨な有様が伝えられている。 名立町に宗竜寺という曹洞宗の寺院がある。その寺院の本堂入口に梵鐘が下げられており、それは所謂「名立崩れ」を物語る唯一の遺物であるといわれる。明治初年名立町の漁師により海中より発見され宗竜寺に納められたものである。 竜宮の鐘
大宝山宗竜寺(曹洞宗)は越前国福井の永春寺七世輝山が大永元年(1521)に永春寺の末寺として開山したと伝えられている。 寛延4年(1751)の大地震で名立の裏山が崩れ、名立小泊は全村が土砂によって海中まで押し出された「名立くずれ」で、宗竜寺も埋没した。第十三世住職絶峯和尚以下5人の坊さんも惨死し、寺の梵鐘も海へ押し出された。 寺はその後十四世越山の時世に、小泊の池垣氏・池亀氏などの檀家により再建がなされた。その震災から十数年が経ったころから、名立の沖合でうなるような快音が聞こえるという噂が立った。山崩れで400余人の人命が失われたので、人々は「成仏できぬ亡霊が海の中で迷っているのではないか」といって恐れおののいた。この噂は次第に広まり、漁に出る人も少なくなり、村はますます貧しくなっていった。 それから百年以上もたった明治初年頃、これを聞いたある若い漁師が、 「そんなばかなことがあるもんか」 といって、快音の正体を突き止める役を買って出た。そしてある日、一人で船を漕ぎだし、快音のする場所へ行って海に潜り、音をたよってあちこち調べてみた。すると、海底の岩にはさまれて梵鐘があり、潮の流れの緩急によっていろいろな音を立てていることが分かった。 漁師は村へ帰って、みなにこの話をした。すると古老たちは、 「その鐘は、名立崩れの時、住職や5人の坊さんと共に山崩れの下になって海に押し出された宗竜寺の鐘に違いない」 といって、村人たちと相談し、みんなでその鐘を引き揚げた。そして再建された宗竜寺に納めた。寺では名立崩れの惨事を語るただ一つの遺物として大切に保存し、太平洋戦争中の金属供出にも、この梵鐘の由来を知る地元名士が奔走して供出を免れたという。 この鐘は青銅製で無銘だが、安土桃山時代以前の作と見られ、美しい音の出る高さ約1mほどの名鐘で、朝夕、名立崩れで亡くなった人々の冥福を祈って鳴らされている。人々は数奇な運命をたどって戻ったこの鐘を「竜宮の鐘」と呼んでいる。 🔙戻る
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