地すべり資料館 Landslide museum 上越市
🔗人柱伝説 🔗新潟県内の土砂災害の歴史 🔗名立崩れ この「地すべり資料館」は、日本で最初の、地すべりについての歴史資料や防止法などを集めた資料館。 最新の映像メディアや模型、パソコンゲームなどを通して、地すべりの歴史、災害、防止工事、監視方法などを、分かりやすく楽しみながら学ぶことができます。 また、当館周辺には、人柱供養堂やロックガーデンなどもあります。" 地名の「猿」は、「去る」「曝る」に由来していて「ズレル」の意味を持つ。崖状の地すべり地、滑った土地の溜まり場を表していて、外気に曝されて崩れやすくなった場所を示し、昔から地すべり多い土地として知られていた。 🔙戻る
人柱伝説昭和12年(1937)、村人が寺野村正浄寺(現上越市板倉区猿供養寺字正浄寺)で客土のため水田を掘っていたところ、高さ90cm直径69cmの大きな素焼きの甕が見つかり、その中から座禅を組んだ人骨が発見された。この場所は、かつて寺のあった場所と言われている。村人たちは人柱伝説が本当のことだと分かり、僧に感謝して、骨が発見された場所に、「人柱供養堂」を建てた。不思議なことに、その翌年からまた地すべりが発生し、現在までも、止まることなく続いているという。昭和36年(1961)に新潟大学がその人骨を調べたところ、鎌倉時代末期の40代くらいの男性の人骨であると判明した。その骨格から農作業には携わらずに諸国を行脚している旅の僧のものであろうと推定された。その後人骨の破損がひどくなったため、昭和45年(1970)新潟大学で復元している。 平成4年(1992)には、県によって隣に「地すべり資料館」が建てられ、それと同時に人柱供養堂も人々の寄付によって建て替えられ、今の立派なお堂になった。 昔、一人の旅僧が、信濃の国から黒倉山を越えて、越後にやってきた。途中、大蛇二匹が話をしているのが聞こえた。旅僧がじっと耳をすませて聞いていると、それは「黒倉山から流れ出る大熊川や姫鶴川を、地すべりを起こしてせき止めて大きな池を作り、この下の部落を埋めて、我々の住み家にしよう。」という相談だった。
また「何も知らず村の者は今日も地すべりを止めようと一生懸命働いているが可哀そうなものだ。これを止めるには、21日間お祈りし、36叩きして栗の木杭を深く打ち込み、人柱を建てる以外に方法はない。これを知られると地すべりが止まってしまうので、知られないうちに実行しよう。」とも話していた。 これを聞いた旅僧は、びっくりして一刻も早くこの場を逃れようと歩きだした途端、大蛇に見つかってしまった。大蛇が「今の話を聞いたからには、ここを通すわけにはいかない。」と言い、旅僧は誰にも話さないと誓った。そして大蛇から「もし他言すれば、命はないものと思え!」と脅かされて、命からがらその場を離れた。大蛇は黒倉山へ戻っていった。 旅僧は、このまま信州へ引き返そうか、それとも越後に出て村人に話そうかと長い間考えこんでしまった。「話せば自分の命はないが、話さなければ村は全滅してしまう。」 旅僧の顔は苦悩に満ちていたが、「私は僧侶だ。たとえこの身が八つ裂きにされようと、地すべりに苦しんでいる人を見殺しにできない。」とつぶやくと晴れ晴れとした表情で峠を越え、寺野村へ向かって下っていった。村に着いてみると、村では毎日大勢の人が出て地すべりの防止工事をしていた。しかしいくら工事をしても効き目がなく、ずるずる滑り出していた。地すべりにより村は荒れており、村人たちは希望を失い、村を離散しようかと相談していた。 旅僧は哀れに思い、村人たちに大蛇の話をし、36叩きの秘法と人柱のことを教えた。 それを聞いて村人たちは、神社に集まって祈願し翌日から工事を始めた。夜を徹して作業は続き、36叩きを行ったが、人柱の人選はなかなかできなかった。旅僧は、「私は大蛇との約束を破って、36叩きの秘法を話してしまった。私はいずれ大蛇に殺される。私が人柱になろう。民衆を救うのは僧のつとめだ。」と言って自ら進んで人柱になった。 旅僧は食事もろくに取らず、斎戒沐浴して読経を続けた。そして、いよいよ21日目を迎えた。旅僧は白頭巾に、白足袋、白衣をまとった姿で最後のお経を読み終わると、村人に別れを告げ掘ってある穴に入ると静かに甕を被った。 人々は涙に咽びながらその上に土を被せ、旅僧が早く楽になるようにとしっかり踏みしめた。不思議なことにそれからぴたりと地すべりが止まったという。この尊い人柱の話は長く村人の間で伝えられて来た。 🔙戻る
新潟県内の土砂災害の歴史新潟県は地すべり面積日本一である。日本列島の地すべり面積の約20%は新潟県に存在するといわれている。県内の地すべり防止区域を分布面積でみると、東頸城丘陵約47%、西頸城丘陵山地23%、魚沼丘陵山地20%で合計90%を占める。地層別では、約1000万年前ころの深海に堆積した泥岩を主とする砂岩泥岩互層からなる寺泊・椎谷層で、95%と過半を占める。多発する原因は、東頸城丘陵の褶曲が現在も成長を続けていることにより、丘陵斜面が不安定化すること、水を含むと膨らむ性質を持つ粘土鉱物を多量に含有していることが考えられる。 100年前にさかのぼってみても、数年毎にコンスタントに地すべりは発生している。特に融雪期と梅雨期の大雨によって、地下水供給が急激に増加する時期に発生していることが見て取れる。地下水が地形条件に作用しているようである。 ✣1927年(昭和2)2月14日 - 能生町(現糸魚川市)大洞 17戸倒壊、死者12名、10ha被害、全村全滅
✣1929年(昭和4)4月8日 - 能生町(現糸魚川市)浦本 北陸線10日間不通 ✣1934年(昭和9)2月 - 能生町(現糸魚川市)藤崎 北陸線9日間不通、地すべり土量90万㎥ ✣1937年(昭和12)11月6日 - 柏崎市南鯖石の峠下で地すべり発生。死者3名。被害面積8ha。 ✣1945年(昭和20)4月29日 - 古志郡太田村(現長岡市)濁沢 死者3名、負傷者5名、人家全壊2戸、半壊2戸。 ✣1946年(昭和21)12月12日 - 名立町(現上越市) 民家5戸埋没、田畑5ha流出。北陸線5日間不通、地すべり土量24万㎥ ✣1947年(昭和22)5月19日 - 能生町(現糸魚川市)柵口 被害面積200ha、倒壊家屋80戸 ✣1957年(昭和32)4月20日 - 津南町樽田(日曹炭鉱) 死者18人、重傷者1人、人家被害3戸。 ✣1957年(昭和32)12月13日 - 妙高高原町(現妙高市)地獄谷 死者2人 ✣1961年(昭和36)8月5日 - 県下一帯に集中豪雨。出雲崎・寺泊で土砂崩れ起こる
✣1962年(昭和37)11月~翌年12月 - 松之山町(現十日町市) 12月上旬には850ha規模に発展。倒壊家屋371戸、学校4棟、公共建物15棟、水田349.9ha、畑地78.0haの被害。県道5400m、町道14800mに及ぶ。 ✣1963年(昭和38)3月16日 - 能生町(現糸魚川市)小泊
✣1967年(昭和42)5月3日 - 糸魚川市大所 被害面積50ha、第2発電ダム埋没、大所川を塞ぎ止める。 ✣1967年(昭和42)8月29日 - 北蒲原郡笹神村(現阿賀野市)で佐藤参院議員夫妻が遭難
✣1970年(昭和45)9月22日 - 小千谷市市川中 国鉄高場山トンネル崩壊、飯山線6か月不通 ✣1970年(昭和45)11月23日 - 親不知(現糸魚川市)の土砂崩れ、車5台を飲む ✣1973年(昭和48)1月9日 - 西山町(現柏崎市)の県道工事現場で土砂崩れ、3人死亡 ✣1978年(昭和53)5月18日 - 妙高高原町(現妙高市)新赤倉温泉で土石流災害
✣1985年(昭和60)2月15日 - 青海町(現糸魚川市)玉の木地区土砂崩れ災害
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At the Landslide Museum,visitors can learn about the mechanism,history,disasters,and prevention work of landslides in an easy-to-understand and fun way through visual media,models,and computer games. |