室谷のゼンマイ Muroya royal fern (Osmunda japonica) 阿賀町
越後国蒲原郡上條組室谷村は、応永8年(1401)清野靱負某と云うもの開きしと云う、室谷川をはさみ、東西二区に分かる、西の一区家数16軒、東の一区家数5軒深山の間にありと伝えられている。 江戸時代、100カマドを越すこともあったが、天明の飢饉以来20戸まで数が減り、現在までその戸数は維持されてきた。現在の室谷集落は将来砂防ダム建設が予定され、川沿いにあった全31戸が300m離れた高台に集団移転をしたものである。平成5(1993)12月までにほぼ全戸が新集落に移転した。かつての集落の面影はない。 明治初期までは、アワ・ヒエお作って自給自足の生活がながくつづいた。ゼンマイは、春先にとれたものを天日干しにして乾燥させ、特に冬の保存食として重宝されていた。 明治時代に入り流通販路が整備され、特産品の開発が進み、室谷ぜんまいが商品として注目されてきた。明治末から大正にかけてで、初めは南蒲原郡下田村の人が多く採っていたが、大正中期になると室谷集落の人が独占するようになった。 明治15年(1882)の福島県令の三島通庸は会津三方道路の開設工事を強引に進めた。その当時福島県であった室谷集落は協力的であったため約5000町歩に及ぶ国有林の払い下げを受けることが出来た。室谷ではこの林野を共有し、ここにゼンマイ採取が本格的となり、大正10年(1921)頃より室谷ぜんまいとして関西へ販売され始めた。 ぜんまいの製法は「青ぼし」と「赤ぼし」の2通りある。青ぼしを作る人は5月初め、集落より3里は山奥へ入り、小屋を建て約1ヶ月くらいそこに居住し、ぜんまいを採り、その小屋で火をたき煙で干して持って帰る。煙で真っ黒になっているが水に戻すと真っ青に山で採ったばかりのようになる。赤ぼしは採ったのを家へ持って帰り、湯にサッと入れ、天日で干す方法でぜんまいを乾燥させるため1日5回~7回はもむ。多い家は庭一面に70枚から80枚のムシロを拡げて行われた。それで室谷集落の家の周辺には日陰を作る植木は1本もなかったという。 このぜんまいは終戦前は大阪の加藤徳行ぜんまい問屋へ全部送られた。大阪でセリをし、電報でその値段をいってくる。こちらから承知の承知の電報を打つという取引であった。ぜんまいは室谷ぜんまいの印の付いた木箱に入れ、馬の背に付け津川駅まで6里の道を運んだ。 こうして室谷ぜんまいは、全国有数のぜんまい産地となり、他産地のものよりも太さ・食感が格段に良く、現在でもゼンマイの最高級品として取り扱われている。 🌌伝統的家屋岩堂 かやぶきの里約200年ほど前に建てられた民家を移築し、1日1組限定(20名まで宿泊可能)一軒宿として整備された。 |