坂口安吾 Ango Sakaguchi 新潟市



1906年(明治39)10月20日〔生〕 - 1955年(昭和30)2月17日〔没〕

日本の小説家、評論家、随筆家として、昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学を代表する作家の一人である。

(幼少期)

安吾は新潟市西大畑通28番戸(現在の西大畑町579番地)で、明治39年(1906)10月20日、父仁一郎(当時47歳、衆院議員)、後妻の母アサ(当時36歳)の五男として生まれ、炳五と名付けられた。13人兄弟の12番目であった。母アサは、中蒲原郡五泉町の大地主吉田久平の二女で、仁一郎先妻ハマの没後、明治24年(1891)に後妻として嫁いできた。五男四女を産み、一子を養女とし、ほかに先妻の娘3人もいたのだから大家族の母親として、また政治家の妻として、その苦労は大変なものであった。
明治44年(1911)4月、西堀幼稚園に入園するが、前年妹千鶴が生まれ母親の愛情を妹に奪われたという気持ちが強く、幼いながら疎外感と寂寥感にさいなまれた。
大正2年(1913)4月、新潟尋常高等小学校(現在の新潟小学校)に入学。小学生時代は餓鬼大将になって町内を暴れまわったが、成績は優秀であった。
大正8年(1919)4月、県立新潟中学校(現在の新潟高校 ※GOOGLE 画像)に入学した。入学当初は、学業優秀であったが、次第に振るわなくなり、2年生から3年生に進級できなかった。校内マラソン大会などのときに、一番先に飛び出すが、途中の松林の中にすぐ雲隠れしてしまったり、勉学に対する意欲が失われていた。
安吾は、2年生を留年し、3年生に進級したが、学校を休む日が続いた。このままでは、再び落第の恐れがあると心配した父親の仁一郎(当時国会議員)は、退学処分の前に、東京に呼び寄せ転校させることにした。当時の新潟中学では、2度の落第は退学という決まりがあった。後年、安吾自身が小説『いずこへ』(21・10)の中で新潟中学での挫折を表している。
大正11年(1922)夏、安吾は東京の私立豊山中学校(現在の日大豊山高校 ※GOOGLE 画像)へ転校する。

大正12年(1923)11月2日、父仁一郎が死亡する。父の死後、当時の金額で10万円の負債が残った。
大正14年(1925)3月、豊山中学を卒業する。父の死などもあって、大学への進学をあきらめ、1年間、東京世田谷にあった府立荏原第一尋常小学校の分教場(現・代沢小学校)の代用教員になった。当時のことは、『風と光と二十の私と』(22・1)に詳しい。

代用教員となるが、21歳の時教員を止めて、悟りを開きたいと東洋大学の印度哲学科に入学した。印度哲学の勉強に励み、1日4時間の睡眠で、一時ノイローゼとなる。大学に在籍したまま、フランス語を勉強するために、神田にあった夜学のアテネ・フランセに通い始めた。

◆安吾の父
坂口仁一郎(さかぐち にいちろう)
安政6年(1859)2月4日[生] - 大正12年(1923)11月2日[没]

坂口家は、大安寺村(現新潟市秋葉区)で江戸時代から伝わる旧家であり、裕福な地主だった。父・得七と母・ユウの長男として生まれる。
明治3年(1870)、家督を相続する。
明治4年(1871)、13歳の時、北蒲原郡聖籠村諏方山にあった儒者大野耻堂の絆己楼に入塾し、漢詩文の素養を培った。
坂口家没落の原因は、父得七の時代に、戊辰戦争での会津、米沢藩への軍費調達で、借金を負って迄調達したこと。津川の矢沢銅山開発の失敗。
これらのために、父祖伝来の田地田畑を次々と手離さねばならなくなり、坂口家は衰退していった。明治14年(1881)、新潟米商会所の頭取本間新作を肝煎として手伝うため、新潟市へ出る。地主と言えるほどの財産もなくなり、田舎での生活に見切りをつけ、大安寺の家屋敷を整理した。跡地は現在荒地※GOOGLE 画像となっている。ただ、墓所は、この土地に残し、其の管理を地元の住民に依頼した。
明治17年(1884)、新潟市西大畑通28番戸(現在の西大畑町579番地)に居をかまえた。
先妻波磨子との間に娘(シウ、ユキ、ヌイ)三人、後妻朝子との間に、セキ、献吉、アキ、七松(夭折)、成三(夭折)、上枝、下枝、炳五、千鶴の九人。ほかに、妾キチの間に生まれたキヌを入れると13人の子だくさんであった。
県会議員、新潟新聞社長、県会議長を経て明治35年(1902)国会議員となる。県下第一級の政治家であった。また漢詩人として知られ、越後の古今の漢詩の集大成である『北越誌話』上下二巻の大著がある。阪口五峰のペンネームを用いた。
大正12年(1923)11月2日、享年65、細胞肉腫が死因であった。当時の金額で10万円の負債が残った。現在の金で3億円くらいである。仁一郎の人生は、常に借金を背負って歩く人生でもあった。安吾が、中学卒業後、大学進学しなかった原因の一つとされる。

(人気作家への道)

昭和5年(1930)に東洋大学を卒業する。安吾は、アテネ・フランセの友人と同人誌「言葉」を創刊、その2号に処女作『木枯の酒倉から』を発表する。
昭和7年(1932)、27歳、新進作家として文壇に登場した。『ふるさとに寄せる賛歌』『風博士』『黒谷村』を執筆する。『黒谷村』は、安吾の姉の嫁ぎ先、新潟県松之山町が背景になっており、昭和62年、此の地に安吾文学碑が建立される。安吾は酒をこよなく愛する作家で、酒に関する随想を複数残している。安吾にとって姉が嫁いだ村山家のある松之山町(現在の十日町市)は縁のある土地となっており、酒の蔵元だった村山家で作られた酒、「越の露」は安吾が愛した日本酒として知られている。

◆ペンネームの由来
安吾というペンネームは新潟中学時代、学校をサボってばかりいる炳五にたいし漢文の先生が「お前は己に暗い暗五だ」と言ったのをそのまま安吾に転化したとわれている。
安吾は、大安寺村に土着するまでの自分のルーツに非常に興味を持っていた。坂口家はもともと肥前の国(長崎県)坂口村(現大村市)で陶工に携わっていたという。どういういきさつか分からないが、福井に流れ着いたのち、豊臣秀吉の命令により、福井大聖寺の溝口氏が越後新発田に移封された際、これに同行したという。溝口氏によって開墾された大安寺村に土着し、地主の道を歩み、幕末には大地主となっていた。
安吾は、自分の祖先の居住地の大安寺という名前に愛着を持ち、安の字を一字使い、安吾を思いついたという。

◆安吾の初恋
安吾の初恋の相手は、女流作家矢田津世子であった。矢田は秋田出身の美人であった。
昭和7年(1932)3月、京都の大岡正平を訪ねた際、友人加藤英倫を紹介される。西銀座の「ウヰンザァ」という酒場で、加藤から矢田を紹介される。安吾は、一目見て矢田に惹かれた。しかし、この恋は実らなかった。
苦しさに耐えかね、恋を総決算しようと、安吾は、長編小説『吹雪物語』に着手する。京都伏見稲荷門前の弁当屋の二階を仕事場とするが、絶望の中、筆は遅々として進まなかった。1年間はどん底の生活で、ドテラと浴衣だけの無一文の生活であった。絶望の生活の中で書き上げた。昭和19年(1944)、矢田津世子は病死している。

昭和21年(1946)4月号「新潮」に発表された安吾のエッセー『堕落論』は、敗戦の混乱の中で虚脱状態にあった人々に衝撃を与えた。戦争が敗戦で終わった混乱の中で、崩れた天皇制や家族制度など戦前戦中の価値観にすがろうとしている人たちに、「生きよ、堕ちよ」と呼びかけた。タテマエ、旧秩序を捨て、「堕ちることで人間に生き返ろう」というのだった。小説のかたちで描いてみせたのが『白痴』(昭21・6「新潮」)であるが、世評すこぶる高く、安吾は流行作家としての階段を登り始めた。
また、安吾は、銀座老舗のバー「ルパン」※GOOGLE 画像に、太宰治、織田作之助などと足しげく通い、のちに無頼派と呼ばれるようになった。作家たちのほか、木村伊兵衛、濱谷浩、秋山庄太郎といった写真家がおり、交流を深めていった。
40歳前半の安吾は、注文原稿が殺到し、雑誌の編集者は東京都荏原郡矢口町字安方127番地(現・大田区東矢口)※地図の安吾の家に列をなしたと言われている。そのため、秘書として梶三千代を雇うこととなった。
安吾が三千代と初めて会ったのは、昭和22年(1947)3月、新宿のバー「チトセ」であった。4月に三千代が盲腸炎から腹膜炎となり緊急入院。一か月間病院で安吾が付きっきりで看病し、退院後も坂口家で養生し続け、そのまま9月頃から結婚生活に入った。
(※正式な婚姻届は昭和28年(1953)8月24日であったが、長男の綱男が8月6日に誕生している)
昭和22年(1947)10月5日、雑誌『愛と美』において、発表した短篇小説『青鬼の褌を洗う女』は、三千代をモデルにしたとされている。

(躁鬱とのたたかい)

殺到する依頼原稿をさばく為に多量のヒロポン(覚せい剤の一種)を常用し、4日間一睡もせずに執筆を続けることもあった。
昭和22年(1947)の1年間に、小説集8冊、評論集2冊を刊行し、雑誌、新聞、座談会などで70近い作品を発表した。超人的な仕事の量であるが、この期間に『桜の森の満開の下』という傑作も含まれている。しかし、ヒロポン、アドルム(睡眠薬)の多用から中毒症状が現れ始め、本人と周囲の人々を苦しめた。東大病院へ入院したこともあった。50本入りの「缶ピース」は執筆作業に欠かせなかった大の愛煙家でとしても知られた。
この頃、無頼派と呼称された織田作之助(昭22年(1947)1月10日)、太宰治(昭23年(1948)6月13日)が相ついで亡くなっている。周囲の人達や、妻三千代は安吾の精神状態を心配した。
安吾は、昭和24年(1949)8月、転地療養の為静岡県伊東市に移った。借家を借り、執筆活動を再開した。ここで、「文芸春秋」に連載した『安吾巷談』というエッセーを書いた。文芸春秋読者賞を受賞している。
昭和26年(1951)9月16日、伊東競輪場へ出かけ、レースで不正が行われたと主張し、執拗に追及を行ったが、この時期、アドルムの副作用で、躁鬱の症状が進行していて、その影響があったと言われる。
この事件を期に、昭和27年(1952)2月29日、知人の紹介で群馬県桐生に引っ越すこととなった。安吾が借りた家は、本町2丁目の豪商・織物買継商・書上文左衛門の母屋の一角※GOOGLE 画像であった。ここが安吾の終の棲家となった。ここで、安吾は健康維持に努める生活を過ごした。しかし、躁鬱の症状は治まらなかった。
昭和28年(1953)7月、文芸春秋社の企画で、檀一雄と長野へ取材旅行中、アドルムとウィスキーに酔いしれて暴れまわり、松本市の留置場へ拘留された。
その年の8月6日、長男綱男が誕生した。

昭和29年(1954)10月1日には、法要の為に親子3人で新潟に帰省し、子供の誕生を報告するために、父母の眠る坂口家の墓のある新津市(現新潟市)大安寺まで足をのばしている。

(安吾の死)

昭和30年(1955)2月17日、午前7時55分、坂口安吾は桐生の借家で、脳出血で死んだ。享年50。葬儀は、2月21日、東京青山斎場でおこなわれた。この席上、文学碑の建立の計画が発表された。
死去百箇日の5月27日、尾崎士郎、檀一雄の発起で第一回安吾忌が、銀座東京温泉でおこなわれた。壇の司会で、参加者は佐藤春夫、河上徹太郎、尾崎一雄、野上彰、若園清太郎、林達夫ら50数人が出席し、安吾を偲んだ。

(安吾文学碑)

安吾が学校をサボっては新潟海岸の海と空と風の中で過ごした場所には、20トンもある自然石が設置され、「ふるさとは語ることなし」という安吾の自筆を刻んだ碑が建っている。
この言葉は、死の直前の1955年(昭和30年)1月、新潟の知人に宛てた3枚の色紙の一枚に書かれていたもので、檀一雄の選文といわれる。
縦4m、横2m80、厚さ2m、約18tの巨石で、阿賀野市丸山地内の草水石を使用している。
晩年、安吾は何かと理由をつけ新潟に戻っていたという。夜、暗くなって実家の近く、砂山にあった塔に登り、海に向かって大声で咆えていたという。
この言葉には、愛すべきふるさと新潟に対する安吾の思いが込められていたと思われる。

1906年(明治39)10月20日、新潟市に坂口仁一郎の五男として生まれる。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。
1931(昭和6)年「風博士」が注目され一躍文壇にデビューする。
1947(昭和22)、梶三千代(後の坂口三千代)と出会い、同棲生活を始める。
1952(昭和27)2月、桐生市に転居。亡くなるまでの約三年を過ごした。
1953(昭和28)、長男綱男が生まれ、三千代との結婚届を提出する。
1955(昭和30)年2月17日48歳、桐生市の自宅にて脳出血で倒れ、死去。

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(没後)
☯2005年(平成17)、安吾忌にあわせ、新潟市により安吾賞創設の宣言がなされた
☯2009年(平成21)、新潟市は旧市長公舎を活用し、遺品・所蔵資料等の調査研究を進めるとともに、様々なテーマによる展示を行う安吾 風の館がオープンした
☯2019年(令和元)、敗戦直後の1945年9月に、敗戦の意味や戦後の新聞社の使命を記した直筆の手紙3通が見つかる
☯2020年(令和2)、坂口安吾「明治開化 安吾捕物帖」ドラマ化、「明治開化 新十郎探偵帖」としてNHKでドラマ化決定。主演は福士蒼汰が務める。
☯2022年(令和4)、坂口安吾、幻の探偵小説「盗まれた一萬圓(まんえん)」発見 全集未収録、文芸誌掲載
☯2023年(令和5)、坂口安吾が最晩年過ごした地 桐生市で初の「安吾忌」開催



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