1918年(大正7)5月4日〔生〕~1993年(平成5)12月16日〔没〕《少年時代》1918年(大正7)5月4日、新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市 旧西山町)に、父・田中角次、母・フメの6人の子の二男として生まれる。当地は、冬には軒にまで雪が達する、農家が250戸ほどで周りを山に囲まれた寒村であった。父・角次はやまっけの多い人で牛馬商の傍ら養鯉業にも手を出したりしたがうまくいかず、地方競馬の“賞金稼ぎ”に転じたが失敗続きであった。家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされる。祖父・捨吉は農業の傍ら宮大工を業としていた。 田中家は農家だが母フメが7~8反の田んぼを、一人、懸命に耕すことで、かろうじて田中家を支えていた。角栄にとって幼少の頃の母の生き様が生涯心に残った。感受性の人一倍強かった角栄少年には、強烈な『説得力』があったと思われる。 ・角栄はフメにとって二男であったが、長男が早逝したため、角栄を「アニ」と呼んでいた。
・母フメは角栄が上京するときに、「いいか、人間には休養が必要だ。しかし、休んでから働くか、働いてから休むかなら、働いてから休むほうがいい。また、悪いことをしなければ住めないようになったら、早くこっちに帰ってくることだ。そして、カネを貸した人の名前は忘れても、借りた人のことは絶対に忘れてはならない」と話したという。この3つの言葉を角栄は決して忘れなかったという。 ・フメが亡くなったのは昭和53(1978)年4月18日であった。1976年7月、角栄がロッキード事件で逮捕、起訴、審理が始まっていた。フメの心痛は、相当のようで家に閉じこもることが多くなった。心痛の癒えぬ中での死であった。 角栄は幼いころ吃音があったが、浪花節を練習して矯正したという。 1925年(大正14)4月、二田尋常高等小学校※ストリートビューに入学する。校長・草間道之輔は1年生でもわかるやさしい話で人生の指針を示してくれた。角栄は終生「心の師」と仰いだ。 角栄は家では勉強しなかったが、小学校では級長をした頭のいい少年だった。1933年(昭和8)二田高等小学校卒業。担任の教師は進学を勧めたが、断念し、村の土木事業で土方仕事をして働き始める。 《上京する》1934年(昭和9)3月、 15歳のとき、柏崎駅から上京。上越線ではなく信越線経由で上野駅に着いた。理化学研究所の大河内政敏子爵が書生に採用するという話を頼り上京するが、面会できず、井上工業に住み込みとして働きはじめる。16歳のとき、中央工学校に入学し、1936年(昭和11)18歳で、卒業し、中村建築事務所に勤務するが、1937年(昭和12)春に独立して「共栄建築事務所」を設立する。 1938年(昭和13)、徴兵検査で甲種合格、盛岡騎兵第三旅団に入隊して中国東北戦線へ送り出された。 1941年(昭和16)、軍隊生活で胸を病み、帰国して10月に除隊、11月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設しふたたび建設関係の仕事を始めた。 1942年(昭和17)3月、事務所の家主の娘、坂本はなと結婚し、義理の父親が経営していた土木建築業を引き継ぐ。長女眞紀子は1944年(昭和19年)1月に誕生している。 1943年(昭和18年)12月に、「共栄建築事務所」を改組して「田中土建工業」を設立した。軍関係の仕事もあって、日曜、祭日も休みなしの忙しさだった。 柏崎に進出していた理研ピストリングとのかかわりで、理化学研究所の大河内正敏子爵に会う機会があり、理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けた。子爵の引きで、成功への道を上り詰めて行く。角栄は大河内子爵を事業の師とよんだ。 戦争が激しくなると王子神谷町にあったピストリング工場を朝鮮の大田に移設することになり、田中はその工事一切を請け負い、当時の金で2000万円をふところに朝鮮に渡ったが、半年後に敗戦となった。釜山から女子供と一緒に海防艦で脱出、8月25日青森港に上陸して帰国、東京へ戻った。 《代議士》会社の顧問で戦前派の政治家大麻唯男に「キミも立候補させるから」と、資金協力を求められた。こうして田中は、1946(昭和21)年、戦後初の総選挙に新潟県選挙区に進歩党から出馬し34,060票を集めたが、定数8の11位で落選の憂き目を見た。角栄はすぐ次の選挙に向け動き出した。日本のチベットといわれた魚沼の辺境の地へ足しげく通い、首長や有力者から要望を聞く田中に支持を表明するものが多くなってきた。 1947年(昭和22)に行われた総選挙選挙から中選挙区制に変わり、田中は新潟三区から民主党候補で出馬し、39,043票を集め、3位で初当選を果たした。28歳だった。 田中は民主党幣原派の1年生議員として、幣原喜重郎を先生と慕い、篠原の世界観を学んだ。幣原も田中をかわいがり、吉田茂へ“売り込み”に汗をかいてくれ、実力者へのレールを敷いてくれた。 以来1986年(昭和61)の総選挙まで連続16回当選を果たした。39歳で郵政大臣、自民党政調会長、大蔵大臣、自民党幹事長、通産大臣を歴任、総裁、首相までのぼりつめた。 頭の回転の良さ、ブルドーザーといわれた行動力、相手の気持ちを巧みにつかむ人懐っこさ。首相の時、官僚出身の首相ではできなかった日中国交回復を成し遂げた。 1976年(昭和51)夏、アメリカ議会で多国籍企業追及に端を発したロッキード事件で全日空の機種選定を巡って東京地検に逮捕され、5億円受託収賄と外国為替法違反容疑で起訴された。「首相の犯罪」として裁きを受ける。 1983年(昭和58)10月、懲役4年、追徴金5億円の有罪判決。その年12月の総選挙では、三区地元民は田中に22万761票という空前の大量得票を与えた。 しかし、脳梗塞で倒れ、病床からもう一度立候補、当選した後政界から引退、1983年(平成5)12月16日、入院先の新宿区の慶応大病院で死去、75歳だった。 田中の政治理念は、貧乏人の「生活向上」であり、「格差是正」であった。薩長が主導した明治以来の国家政治は太平洋側偏重の政策が行われ、日本海側は米などの農産物と、兵隊など労働力供給地の扱いとなっていた。太平洋側と日本海側での住民の生活レベルは歴然であった。辺境の民主主義のため、非エリートの田中は、戦後保守の草の根として駆け回ったのである。 田中の功罪は、光り輝く『明』の面があった一方で、霧に包まれた深い『暗』の面もあった。ロッキード事件では、多くの逮捕者を出し、また1976年(昭和51)8月2日、自身の私設秘書で運転手だった人物が、車に排気ガスを引きこんで自殺している。丸紅側からの金を運んだという疑いで事情聴取中であった。
■田中角栄の歴史
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