室孝次郎 ( むろこうじろう ) 上越市



天保10年(1839)9月14日 〔生〕- 明治36年(1903)6月21日)〔没〕

天保10年(1839)、高田本誓寺(東本町4)の商人市郎右衛門の長男として生まれた。弟に貞蔵がいる。室家は越前福井から松平光長に従って来たもので本誓寺町にいて藤屋と号していた。
幼児、倉石洞窩の門に入り、漢学・国学を学んだ。また倉地正久に剣道を学んだ。

21歳の時江戸へ出て長州藩士の門下で学び、元治2年(1865)4月、京都に登り、勤皇の志士と交わる。
翌年、慶応2年(1866)再度京に登り、正木小七郎と変名して勤皇運動に入る。当時、村松藩では佐々耕庵等が勤皇運動を行っていた。孝次郎、弟の貞蔵の両名は、耕庵と計らって米沢・村松藩と結んで会津を攻めようと企てた。
11月に佐々耕庵らが捕らえられ、慶応3年(1867)には孝次郎の弟の貞蔵も捕らえられた。孝次郎は帰国しその救助に努めた。
慶応3年(1867)5月19日、佐々耕庵は斬罪に処せられた。(村松七士事件)しかし幸いにも貞蔵は許された。
慶応4年(1868)2月、北陸道鎮撫総督高橋永祜から、先鋒として尽力せよという沙汰書を受けた高橋竹之介が越後に戻り、草莽隊方義隊(居之隊)が結成される。上越の隊長が室孝次郎、下越の隊長が松田秀次郎と定められた。
戊辰の役に孝次郎は新政府軍参謀黒田清隆、薩摩藩参謀吉井友実に会って、自分の策を述べ、北陸道官軍陸軍御用掛に任じられ、御親兵隊に属し、中・下越の地に転戦し、松木砲台攻略の時弾丸が頬にあたり、数か月加療した。明治2年(1869)には褒賞を受けた。
官軍の鎮撫総督西園寺公望に認められ、公望のヨーロッパ視察には、随行する約束までしたという。
尊王攘夷を旗印に草莽隊に参集した多くの人物は、その思想の頑迷さから、文明開化を標榜する明治政府には、身の置き場がなかった。
しかし、室孝次郎は例外で、その活躍の場を広げ、官界での地保を固め、民政に尽くしている。
明治3年(1870)、高田藩聴訟掛、ついで藩校修道館の助役(和学)となった。高田病院(県立中央病院の前身)の創立を援助した、弥彦神社宮司にもなった。
明治11年(1878)、第八大区区長となり、高田中学校長(心得 高田高等学校の前身)を兼ねた。ついで西頚城郡長を務め、信越線直江津~関山間の開通に尽力した。
明治14年(1881)、鈴木昌司、八木原繁祉、大井重作等と頚城自由党を結成する。
中央政界で、明治14年(1881)の政変で大隈が政府を追われ下野したが、この時、同郷の前島密も行動を共にしている。
明治15年(1882)、大隈重信が立憲改進党(自由党に比し穏健的であった)を組織すると、前島密からの強力な働きかけがあり、頚城自由党を脱党し同志とともに上越立憲改進党をつくり幹事に就任する。
明治23年(1890)、第一期の衆院議員に当選する。
大隈重信が内閣に入ると明治30年(1897)、愛媛県知事に任ぜられる。その後、また国会議員として活躍す。
明治6年(1903)、63歳で没す。善導寺に葬られる。

顕彰碑が高田公園にある(当初、明治38年(1905)、高田、善導寺境内に建立)。篆額は大隈重信の書で撰文は竜渓(矢野文雄)。



(没後)
☯2019年(令和元)10月、上越地域で発行され室孝次郎らが発刊した日刊紙「高田新聞」など新聞の原紙が、上越市の旧宅保坂家の蔵から見つかる。


🔶記念碑
🔶墓所


🤩 信越線の建設

室孝次郎は、東京と結ぶ民間鉄道をつくろうと新潟と長野の両県や東京市に出向いて説いて回り、650人の同志と資本金137万円を募ったが、政府の許可を得られずに断念。「そんなら、国営鉄道を早く引け」と政府に迫った。
明治18(1885)春、政府は直江津に鉄道局出張所をつくって着工。明治21年(1888)12月1日、直江津-軽井沢間が開通した。
群馬側では、すでに横川まで開通しており、横川から軽井沢間の碓氷峠のトンネル工事が完成しておらず、馬車鉄道で往復した。
馬車鉄道はレールを敷いて、馬が客車や貨車を引っ張って走る鉄道だ。碓氷峠は、50センチのレール幅。全長18.9キロが2時間半かかった。こうして、曲りなりに信越線は上野まで開通し、一日で東京に到着できるようになった。
日本の幹線と言われた東海道線より1年早く開通したのは、室孝次郎らが政府に強く働きかけて運動したからだった。
トンネルが貫通し、直通の線路でアプト式SLが走り出したのは5年後のことである。






















一代の出版人 増田義一伝

一代の出版人 増田義一伝

  • 作者:藤井 茂
  • 出版社:実業之日本社
  • 発売日: 2019年11月01日頃