室孝次郎 ( むろこうじろう ) 上越市



天保10年(1839)9月14日 〔生〕- 明治36年(1903)6月21日)〔没〕

誕生と求学の系譜――高田の商家から志士への道

天保10年(1839年)、越後国高田の本誓寺町(現在の新潟県上越市東本町4丁目)にある東本願寺末寺・本誓寺の門前に、一人の男児が誕生した。名を室孝次郎という。父は商人である市郎右衛門であり、のちに弟の貞蔵が生まれている。室家はもともと越前福井の出身であったが、越前少将家である松平光長が藩主として高田に入部した際、そのお供としてこの地に移り住んだ由緒を持つ。高田に根を下ろしてからは「藤屋」の屋号を掲げ、商人として生計を立てていた。
商家に生まれた孝次郎であったが、その性質は単なる商売の枠に収まるものではなかった。幼少期より学問への強い関心を示し、地元の高田藩士であり優れた学者であった倉石洞窩の門を叩く。ここで漢学や国学の基礎を徹底的に叩き込まれ、物事の道理や歴史の大局を見る目を養った。さらに、身体を鍛え武芸を修めることにも熱を注いだ。16歳になると、直新陰流の達人であった倉地正久から剣術を学び始める。文武両道の若者として成長した孝次郎の胸中には、次第に高田という一藩の枠を超え、揺れ動く日本全体の行く末を憂う気持ちが芽生えていった。
21歳の大志を抱く年齢に達したとき、孝次郎は生まれ育った高田を離れ、激動の渦中にあった江戸へと向かう。江戸では、長州藩士であり著名な国学者・歌人でもあった近藤芳樹の門下に入った。近藤の元で日本の古い法制や儀式を研究する「律令格式」を学ぶうちに、孝次郎の思想は急速に研ぎ澄まされていく。当時、日本は黒船の来航以来、開国か攘夷かで激しく揺れ動いていた。日本の伝統と古法を学んだ孝次郎が、天皇を尊び外国の圧力を排除しようとする「尊王攘夷」の思想に傾倒していくのは自然な流れであった。こうして、高田の商人の長男は、命を賭して時代を変革しようとする草莽の志士へと脱皮を遂げたのである。

激動の幕末と尊王攘夷運動――「正木小七郎」の地下活動

元治2年(1865年)4月、26歳になった孝次郎は、政治の中心地となっていた京都へと上る。そこには日本全国から倒幕や尊王攘夷を叫ぶ血気盛んな志士たちが集結していた。孝次郎は彼らと交わり、時政を論じ合う中で、さらに自身の過激な実践力を磨いていった。
翌年の慶応2年(1866年)、孝次郎は再び京都の地を踏む。このとき、幕府の目を欺くために「正木小七郎」という変名を名乗り、本格的な地下運動へと身を投じた。当時の越後国では、村松藩(現在の新潟県五泉市)の藩士である佐々耕庵らが中心となり、熱烈な勤皇運動を展開していた。京都で活動する孝次郎、そして彼の志に共鳴して行動を共にしていた弟の貞蔵の二人は、この佐々耕庵らと密かに連絡を取り合うようになる。
彼らが企てたのは、周辺の有力藩である米沢藩や村松藩の勤皇派と結託し、佐幕派の急先鋒であった会津藩を挟み撃ちにして攻めるという、極めて大胆かつ危険な軍事計画であった。しかし、幕府側の警戒の網は厳しかった。慶応2年11月、計画が事前に漏れ、中心人物であった佐々耕庵らが幕府方によって一斉に捕らえられてしまう。さらに翌慶応3年(1867年)には、孝次郎の最愛の弟である貞蔵も捕縛される事態となった。
急報を聞いた孝次郎は、すぐさま越後へと帰国する。捕らえられた同志や弟を救い出すため、あらゆる伝手を頼り、命がけの救助活動に奔走した。しかし、時代の刃は非情であった。慶応3年5月19日、首謀者とされた佐々耕庵ら村松藩の志士たちは斬罪に処されてしまう。世にいう「村松七士事件」である。同志の凄惨な死に孝次郎は激しい衝撃と無念さを味わったが、不幸中の幸いにも、弟の貞蔵は孝次郎らの必死の尽力が実を結び、放免された。この過酷な弾圧を生き延びた室兄弟は、迫りくる新しい時代での雪辱を固く誓うのだった。

戊辰戦争の火蓋と「方義隊」結成――上越を率いた戦い

慶応3年10月の大政奉還、そして12月の王政復古の大号令により、時代はついに明治へと舵を切った。しかし、旧幕府勢力と新政府軍の衝突は避けられず、慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発する。戦火は瞬く間に北陸、そして越後の地へと押し寄せてきた。
慶応4年2月、北陸道鎮撫総督府の高倉永祜から「官軍の先鋒として尽力せよ」という直々の沙汰書を受けた高橋竹之介が、京都から越後へと戻ってきた。これを受けて、越後在住の尊王派の志士や豪農、領民らが結集し、新政府軍を支援するための民兵組織「草莽隊」の一つである方義隊(のちに居之隊とも呼ばれる)が結成される。このとき、部隊は地理的な状況から二つに分けられ、下越地方の隊長には松田秀次郎が、そして上越地方を束ねる総隊長には、その統率力と人望を見込まれた室孝次郎が据えられた。
孝次郎は新政府軍の主力と合流すると、薩摩藩の参謀でありのちに新政府の要職を歴任する吉井友実や、同じく新政府軍参謀として辣腕を振るっていた黒田清隆(のちの第2代内閣総理大臣)といった大物たちと直接面会する機会を得た。孝次郎は臆することなく、地元の地理や勢力図に根ざした独自の作戦を彼らに建白した。その卓抜した先見性と軍事作戦は黒田らに高く評価され、孝次郎は「北陸道官軍陸軍御用掛」という重職に任じられる。一介の草莽の身から、正式に新政府軍の指揮官級として迎えられたのである。
孝次郎率いる方義隊は、天皇を守護する「御親兵隊」の傘下に組み込まれ、越後各地の激戦地を転戦した。中でも凄惨を極めたのが、長岡藩の軍事総督・河井継之助ら東軍(奥羽越列藩同盟)との間で繰り広げられた、小千谷・朝日山の戦いであった。
新政府軍は、同盟軍側が山頂に強固に築き上げた「松木砲台」を攻略する作戦を敢行した。雨あられと降り注ぐ敵の弾雨の中、孝次郎は自ら先頭に立って部隊を鼓舞し、険しい斜面を駆け上がった。激しい白兵戦と砲撃戦が展開される中、一発の敵弾が孝次郎の頬を激しく撃ち抜いた。大量の鮮血を流しながらも孝次郎は前線を維持し続けたが、傷は深く、前線からの離脱を余儀なくされる。この重傷により、彼は数ヶ月に及ぶ過酷な加療生活を送ることとなった。死線を彷徨った末の明治2年(1869年)、戊辰の役における類まれなる軍功が認められ、新政府から正式に褒賞を授与された。また、この戦いを通じて官軍の鎮撫総督であった西園寺公望(のちの内閣総理大臣)の知遇を得ることとなり、西園寺から「いずれ自分がヨーロッパへ視察に行く際には、ぜひ同行してほしい」と直々に約束されるほど、その才能を嘱望されていたという。

明治政府での躍進――文明開化の波を泳ぎ切る民政家

幕末の混乱期に「尊王攘夷」を旗印に掲げて戦った草莽の志士たちの多くは、一転して「文明開化」や「四民平等」を推し進める明治新政府の急進的な方針についていくことができなかった。かつての頑迷な思想に縛られ、新時代に居場所を失って没落していく志士が後を絶たない中、室孝次郎はまったく異なる軌跡を描いた。彼は過去の思想に固執することなく、新しい知識や社会制度を柔軟に吸収し、活躍の場を官界へと広げていったのである。
明治3年(1870年)、孝次郎は高田藩の「聴訟掛(裁判や訴訟を扱う役職)」に任じられる。さらに、かつて自らが学んだ藩校の後身である修道館の助役(和学担当)となり、次代を担う若者の育成に努めた。彼の関心は教育や司法に留まらず、地域の近代化全般に向けられていた。当時、近代的な医療施設の必要性を痛感していた彼は、のちの新潟県立中央病院の前身となる「高田病院」の創立を裏から強力に援助した。また、越後一宮である弥彦神社の宮司に就任するなど、地域の精神的支柱を支える役割も果たしている。
明治11年(1878年)、地方制度の改革に伴い、孝次郎は地方行政の要職である「第八大区区長」に抜擢される。同時に、現在の新潟県立高田高等学校の前身となる「高田中学校長心得」を兼任し、地域の最高学府の基盤を築いた。その後、初代の西頚城郡長に就任すると、彼のエネルギーは地域のインフラ開拓へと注がれる。当時、物資の輸送や近代産業の興隆に不可欠であった鉄道の敷設に目をつけ、信越本線の直江津〜関山間の開通に向けて、地元住民や政府への執拗な働きかけを行い、これを実現へと導いた。このように、孝次郎は戦場から民政の舞台へと見事に転身し、上越地方の近代化の祖として確固たる地位を築いていった。

自由民権運動の旗手から国政の舞台へ

明治10年代に入ると、日本全国で自由民権運動の火の手が上がる。藩閥による専制政治を批判し、国会の開設や人民の権利を求めるこの運動に、地方の有力者となった孝次郎も深く共鳴していく。
明治14年(1881年)、孝次郎は鈴木昌司、八木原繁祉、大井重作ら地元の同志たちと共に、板垣退助らの思想に呼応する形で「頚城自由党」を結成した。上越地方における民権運動の拠点を構築したのである。
同じ頃、中央政界では巨大な政変が起きていた。「明治14年の政変」により、早期の国会開設を主張していた参議の大隈重信が政府を追われ、下野することとなった。このとき、大隈と行動を共にして政府を去った官僚の中に、孝次郎と同郷(現在の新潟県上越市出身)であり、日本の郵便制度の父として知られる前島密がいた。
翌明治15年(1882年)、下野した大隈重信は、フランス風の急進的な自由党に対抗し、イギリス型の穏健な立憲政治を目指す「立憲改進党」を組織する。この中央の動きに連動し、前島密から地元の盟友である孝次郎に対して、強力な働きかけが行われた。「過激な自由党の路線を離れ、共に改進党の旗の下で実質的な国会開設を目指そう」という誘いであった。孝次郎はこの呼びかけに応じ、苦渋の決断ながらも自ら立ち上げた頚城自由党を脱党。同志たちを引き連れて「上越立憲改進党」を立ち上げ、その幹事長(幹事)に就任した。地方における強力な政治地盤を大隈・前島ラインへと繋ぎ変えたのである。
そして明治23年(1890年)、日本で最初となる「第1回衆議院議員総選挙」が実施される。孝次郎は上越の圧倒的な支持を背景に出馬し、見事に初当選を飾った。これ以降、彼は中央政界の荒波の中で当選を重ねること通算5回。地方の声を国政に届ける重鎮として、確固たる足跡を残した。
明治30年(1897年)、第2次松方正義内閣(大隈重信が出進)の時代、長年の忠誠と実務能力を買われた孝次郎は、愛媛県知事に任ぜられる。四国の地へと赴任した彼は、ここでもその卓越した民政手腕を発揮し、地方行政の刷新に尽力した。知事を退任した後も、再び国会議員として国政に復帰し、国家の近代化と憲政の発展のためにその命を燃やし続けた。

終焉と遺された記憶――高田公園に刻まれた栄誉

激動の幕末を駆け抜け、明治という新しい国家の誕生と発展にその全生涯を捧げた室孝次郎であったが、不世出の志士にも終わりの時が近づいていた。
明治36年(1903年)、日本の近代化の行く末を見届けながら、孝次郎は63歳でその波乱に満ちた生涯を閉じた。遺体は、彼が愛した故郷・高田にある善導寺の境内に手厚く葬られた。商人の子として生まれ、剣を執って戦場を駆け巡り、筆を執って民を治め、議席に座して法を議した男の、あまりにも濃密な生涯であった。
彼の死から2年後の明治38年(1905年)、孝次郎の偉大な功績を後世に伝えるため、高田の善導寺境内に巨大な顕彰碑が建立された(のちに、現在の高田城址公園内へと移設されている)。
この顕彰碑の最上部に彫られた「篆額」の文字は、彼が終生政治の師として仰ぎ、共に日本の憲政を打ち立てた大隈重信の直筆によるものである。そして、孝次郎の生涯を讃えるために碑文の「撰文」を草したのは、大隈の側近であり、小説『経国美談』の著者としても高名な文士・竜渓こと矢野文雄であった。
中央の最高権力者たちからこれほどまでに惜しまれ、讃えられた地方出身の政治家は他に類を見ない。室孝次郎という存在は、頑迷な攘夷の夢に溺れることなく、現実の社会を動かす「民政の力」へと己の志を昇華させた、真の意味での近代日本の先駆者であった。高田の四季の移ろいを見守るその石碑は、今もなお、彼が愛した上越の街の発展を見守り続けている。



(没後)
☯2019年(令和元)10月、上越地域で発行され室孝次郎らが発刊した日刊紙「高田新聞」など新聞の原紙が、上越市の旧宅保坂家の蔵から見つかる。


室孝次郎の没後 年が経過しました。



🔶記念碑
🔶墓所


🤩 官設鉄道の誘致と信越線開通への執念

明治15年(1882年)、室孝次郎は前島密らの働きかけにより上越立憲改進党を結成し、その幹事に就任した。この年から彼は、故郷である越後と首都・東京をダイレクトに結ぶ民間鉄道の敷設という壮大な計画に乗り出す。大貫村(現上越市)の豪農・矢沢綱四郎らとともに、私設鉄道である「信越鉄道会社」の設立を目指して株主募集の東奔西走を開始した。
孝次郎は新潟・長野の両県のみならず東京市にまで自ら出向き、鉄道がもたらす近代化の利益を熱く説いて回った。その執念は実を結び、集まった同志は650人、資本金は当時の巨費である137万円に達した。明治17年(1884年)4月、発起人一同は満を持して「信越鉄道株式会社創立願」を政府に提出する。しかし同年7月、政府は「主たる幹線鉄道の敷設は官設(国営)で行う」という大方針を打ち出し、民間による申請を不許可とした。
長年の奔走を否定された形となったが、孝次郎はここで挫けなかった。「民間が駄目なら、国営鉄道をどこよりも早く引け」と瞬時に方針を転換。政府に対して官設による早期着工を迫る猛烈な誘致運動を、間髪入れずに展開したのである。
この強い働きかけが中央を動かした。明治18年(1885年)7月、政府は直江津に鉄道局出張所を設置。直江津―上田間の敷設工事が、異例の速さで直江津側から着工されることとなった。そして明治21年(1888年)8月、直江津―関山間(29キロ)が遂に開通する。イギリス製の蒸気機関車が牽引する6両編成の列車が、初めて頸城平野を煙を上げて疾走した。同年末には長野を越えて軽井沢までが結ばれた。
当時、群馬(上野)側からはすでに横川駅まで線路が伸びていたが、最大の難所である軽井沢―横川間の碓氷峠は、険しい地形ゆえにトンネル工事が難航していた。そのため、この区間は暫定的に「馬車鉄道」で繋がれた。これはレール上に敷いたわずか50センチ幅の線路を、馬が客車や貨車を引いて超える仕組みであった。全長18.9キロの山道を2時間半かけて往復する過酷な旅路ではあったが、これにより曲がりなりにも直江津から東京(上野)までのルートが繋がったのである。
直江津発の一番列車に乗り込めば、その日の夕方には上野駅へ到着できる時代が到来した。のちに日本の大動脈となる東海道本線の全線開通よりも1年早くこの信越の地へ鉄道が敷かれたのは、室孝次郎らの執拗な対政府運動があったからに他ならない。なお、碓氷峠のトンネルがすべて貫通し、急勾配に対応した「アプト式蒸気機関車」による直通運転が開始され、真の全通を迎えたのは、この5年後のことである。

🤩今も残る鉄道建設遺構

・大田切橋梁
関川水系 太田切川最下流部を横断するために明治20年(1887)に完成した。形式:単アーチ橋、材質:煉瓦(アーチ部)+石造(側壁)、橋長:80m(アーチ本体延長94m)、アーチ幅:約7.6m:、盛土高さ:3m以上の盛土による基盤上に線路敷設。妙高山麓の急勾配・急曲線区間は最も難工事の一つであり、この大田切橋梁もその難所のひとつだった。木造大型橋梁よりコストを抑えるためにレンガと石のアーチ構造が採用され、当時の鉄道建設技術の水準を示している。妙高はねうまラインで現役で使用されているが、令和3年(2021)、国登録有形文化財(建造物)に登録されている。
  • 〔所在地〕妙高市大字坂口新田字坂ガケ657-1~大字二俣字東熊堂435-5






















一代の出版人 増田義一伝

一代の出版人 増田義一伝

  • 作者:藤井 茂
  • 出版社:実業之日本社
  • 発売日: 2019年11月01日頃