米山稔 Minoru Yoneyama 長岡市
米山 稔(よねやま みのる) 1924年(大正13)10月15日〔生〕-2019年(令和元)11月11日〔没〕 日本の実業家。スポーツ用品メーカーのヨネックス株式会社創業者。 1924年(大正13)、長岡市(旧:三島郡越路町)の六人兄弟の長男として生まれる。実家は、地元で採れる桐材を利用した、下駄を製造する家内工場であった。 塚野山尋常高等小学校を卒業後、1941年(昭和16)、名古屋の陸軍工廠に徴用される。 木工技術を磨くことのできる銃床づくりの職場に配属された。最先端の木工の機械がそろっており、後のラケットづくりに大いに役立つ技術をここで身に付けることができた。 1944年(昭和19)9月、陸軍船舶幹部候補生に志願し、モーターボートに爆雷を積んで米軍の輸送船に突っ込む特別攻撃隊員として沖縄へ配属される。出撃命令が出るのを待つが、連合軍の沖縄上陸後は、弾丸が飛び交う中をくぐり抜け生き延びた。沖縄が米軍に占領されて、命令が実行されず一命を取り留める。 終戦後の1946年(昭和21)、4カ月余りの捕虜生活を経て郷里に戻り、戦時中に亡くなっていた父親の家業を継ぐ。 米山木工所を創業し酒のタンクなどに使う醸造用の木栓をつくっていたが、その後漁業用の木製浮きの製造に乗り出し成功する。26歳で村会議員に当選するなど、地元の名士となる。 1953年(昭和28)漁網が木綿からナイロン製に変わったことで、木製浮きもプラスチック製品にとって代わられ、行き詰まる。 1957年(昭和32)、普及し始めたスポーツバトミントンのラケット製造に転換。バドミントン用品メーカーサンバタのOEM供給によるラケット製造に乗り出す。 1961年(昭和36)、サンバタが倒産によって危機を迎える、「自分でつくって自分で売る。ヨネヤマブランドで独り立ちする」決意をする。 その後3年目の1964年(昭和39)に、ヨネヤマブランドのラケットで日本一になった。 1968年(昭和43)、アルミニウム製のテニスラケットを考案し、「T」に似たつなぎ目のところを金属でつくり、シャフトとフレームをとりつける「T型ジョイント」を世界で初めて考案する。これがヒット商品となり事業を拡大させることができた。 そして1969年(昭和44)には、テニス界にも進出する。ビリー・ジーン・キング選手やマルチナ・ナブラチロワ選手、さらにはモニカ・セレシュ選手やマルチナ・ヒンギス選手などががヨネヤマブランドのラケットを使用した。 1971年(昭和46)、バトミントンのラケット製造で、インドネシアのルディ・ハルトノ選手と契約して、ヨネックスのラケットを使用し、全英選手権シングルスで通算8回の優勝をしたことで、販売量世界一となる。 1982年(昭和57)ヨネックスに社名を変更。現在、世界の生産量の7割を占めるという。1997年(平成9)、社長を辞任し、一線から退く。 2015年(平成27)、 「世界バドミントン連盟会長賞」を受賞する。 「転んでも一回り大きくなって立ち上がる」が米山のモットー。「越後の雪だるま」というあだ名がついた。 また米山が長く大切にしたといわれる言葉が、小学校の恩師から送られた「獨征(ひとりゆく)」だ。 同郷の、故三波春夫(歌手)とは少年時代からの友人であった。「本屋の文ちゃん」「下駄屋の稔」と呼び合った仲だった。 2019年(令和元)11月11日 、 老衰のため新潟県長岡市内の病院にて逝去。95歳。 ヨネックス発祥の地、新潟工場(長岡市塚野山900−1) |
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