川上善兵衛 上越市



川上善兵衛 1868年(慶応4年)3月10日〔生〕〜1944年(昭和19年)5月21日〔没〕

新潟県頸城平野にある北方村(現在の上越市)の大地主川上家に、長男として生まれた。父の死により七歳で家督を継ぎ、「善兵衛」を襲名しました。
幼いころから厳格な教育を受け、漢詩を学び、明治の時代を敏感に感じながら成長します。また、川上家は代々庄屋や村長などを務める家で、明治維新の際には勤皇方の志士に援助を与えていました。その影響を受けて善兵衛も勝海舟や犬養毅などと交流を持つようになったのです。
幼いころから、冷害や洪水によって思うように収穫ができない、水稲単作農家の苦しみを見てきた善兵衛は次第に殖産興業の必要を痛感していました。そして、雪が降る上越の気候に合い、田んぼをつぶさずに、荒れた土地や山の斜面を利用できる作物を探しました。そして、ぶどうを使ったワインづくりを思い立ったのです。
ぶどうは荒れ果てた土地でも栽培できるため、田畑をつぶさずにすみ、白米酒でなくワインを飲料にすれば主食である米の節約に役立つことや、農村部で余っている労力を役立たせるなどを考えてのことでした。また、海舟の談話から「欧米の食生活に不可欠なワインがやがて日本にも普及するだろう」と聞き、いっそうその思いを強くしたのです。この大願の葡萄園づくりの場所は、郷土愛に燃える善兵衛にとっては、自分の持つ土地以外には考えられませんでした。
明治20年、山梨の土屋竜憲のもとで、ぶどう栽培を学んだ。23年北方の丘陵地岩の原を開墾しぶどうを植えた。
3年後の1893年に自らの手で収穫した葡萄を使い、初めてワインの製造を始めました。1894年(明治27)7月にはアメリカ・ニューヨーク州フレンドニアから船で苗木20種百株を輸入しました。
当初川上善兵衛も欧米品種をそのまま栽培しようと試み、栽培面でまず豪雪対策として竹を使った棚をつくり、冬期は棚をこわして葡萄を雪の下にはわせて春を待つ方式で、雪国での栽培を可能としました。次に日本独特の梅雨期の長雨対策として、薬剤の選択や肥料の加減、そして剪定の仕方などに工夫をこらしましたが充分な成果が得られず、葡萄そのものの品種改良をすべきとの結論に至ったのです。
その頃、独学で学んだ海外の学術書から"メンデルの法則"を知った善兵衛は、病虫害に強く、日本の風土にも適したアメリカ種の葡萄を"母"とし、品質的に最も望ましいヨーロッパ種を"父"として、品種交配の研究を始めました。
失敗と試行錯誤を重ね、1897年国内醸造の本格ワインが生まれ「菊水」の銘柄で売り出された。雪国の地域特性や雪を生かした石積み貯蔵所は、原形のまま保存されており、当時の善兵衛の苦心がうかがえる。
しかしこの事業は経営的に大きな負担をしいられたため、昭和9年、(株)寿屋(現サントリー株式会社)の資本参加を得て株式会社岩の原葡萄園を設立する。川上善兵衛が専務となって事業を継続しました。
こうした苦闘の中で、彼は生涯にわたって1万株以上の新品種を栽培、ほぼ40種の有望品種を得ました。中でもマスカット・ベーリーAは、今日わが国のワイン醸造用の代表的な品種となっています。
善兵衛は昭和19年(1944)5月21日、76歳の生涯を終えた。

上越市ホームページ上越偉人伝より

□墓所
岩の原ぶどう園内


川上善兵衛資料館
〔所在地〕新潟県上越市北方1223
〔アクセス〕
  • 電車…JR信越本線高田駅より11km 車で25分






   




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川上善兵衛伝 (サントリー博物館文庫)
今から1世紀前、豪雪の地・高田で私財の全てを投げうち葡萄酒づくりに賭けた男がいた…。ワインに生きた異色の明治人、川上善兵衛の生涯。