この大祭は、八海山中興の祖で大崎村出身の木喰泰賢行者によって天明3(1783)年10月20日に始行したと伝えられる。毎年10月20日、大崎口の霊風園で行われる八海山尊神社の火渡りが全国から多数の信者を集め、盛大に行われています。 シメ縄を張りめぐらした中央に神木の薪をうず高く積み、玉串奉典、修祓、弓行事、剣行事、祝詞奉上の後、神木に火がつけられます。 火は五メートルにも達し、やがて下火になると、行者の呪文は一段と大きく唱えられます。 その中を、白装束に身を包んだ先達が素足で足早に渡り、続いて講中、一般参詣の順で渡っていきます。 信者の荒行の一つでもあるこの神事は、火で煩悩を焼き尽くし罪や穢れを祓うもので、修験道の柴燈護摩(さいとうごま)に由来しています。 そこから、家内安全、無病息災を願う祭事としても広まり、近郷近在からの多くの人でにぎわうようになりました。 ■修験とは、山野を歩き煩悩を取り除き、人間本来の仏性を取り戻す修行をする。これ実践する人を修験者といい、山伏ともいう。彼らは修行によって法力を身につけ、祈祷や作柄の予想、豊富な知識を生かして病気の治療など人々の生活に密着していた。ところが、明治政府は、明治5年(1872)修験道廃止令を通達した。 中断されていた大崎口の火渡りは、昭和37年(1962)に復活し今日に至っている。
八海山尊神社 ※動画八海山は修験者たちの信仰の山で、山そのものが御神体とされてきた。寛政六年(1794)、木曽の御嶽山の大滝口を開いた、普寛行者が来越し、当村の泰賢行者を随いて八海山登拝道を開いたのが八海山信仰の始まりと言われる。泰賢行者自ら享和3年(1803)に大崎口からの登山道を切り開いた。これが大崎口里宮(現八海山尊神社)の始まりという。その後、泰賢行者は大崎口里宮を拠点に諸国を行脚し、八海山信仰の布教に身を棒げたという。 現在の里宮社殿は、昭和54年(1979)に旧里宮からご神体を遷座して造営されたものである。これ以降、以前の社の呼び方は一定せず、元宮、里宮、本殿など人によって呼び方が変わる。 神社を訪れて最初に目に飛び込んでくる御影石の大鳥居は、高さ8.5m、直径70㎝で石造りのものでは全国有数ともいわれ、この大鳥居をくぐり、石段を登って社殿に向かう。 神社の境内は、樹木や花々が四季折々に咲き乱れ、仰ぎ見る高台の神社の景観は得も言われぬ荘厳さをたたえている。 石段手前の広場で社殿に向かって手をたたくと、こだまして跳ね返ってくる音は「神の喜びのしるし」「龍鳴」などといわれるのだとか。 神秘的な体験から、パワースポットとしてもその名が知られる。毎年、10月20日に開催される大火渡祭には、信者の他に一般の人も多く参加する。
城内口 八海神社神社は霊峰八海山の登山口にもなっているが、一の鳥居から社殿まで440メートルの両側に総本数256本の杉並木は、天保7年(1836)の大干ばつの経験から、水源かん養林造と景勝保全のため植林されたという。その杉の多くが、ひとつの根から2本の幹が分かれており、御祭神の瓊瓊杵尊と木花咲耶姫命が夫婦であることから、夫婦杉と呼ばれ夫婦和合の象徴とされる。子宝安産を願い、多くの参拝者が訪れる。 境内手前にある社務所の八海会館は、春から秋にかけて蕎麦を提供し、蕎麦好きの間でも人気となっている。
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八海山大崎口火渡大祭りまで
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