真野宮 Mano shrine 佐渡市



真野宮は明治維新まで、御火葬塚の管理をしていた真輪寺という寺だった。境内背後にお堂を作り、上皇の御像を安置していたという。
御火葬塚の管理をしていた真輪寺が明治の廃仏毀釈を経て、1874年(明治7)に県社に認められ「真野宮」と改称した。
順徳上皇の他に菅原道真、日野資朝を配祀。以来、学問の神、商売繁盛の神と崇められている。隣接する真野公園は、花の名所としても人気。
現在の社殿は1920年(大正9)に造営されたもので、1942年(昭和17)の700年祭には鳥居、神橋、神門、社務所を新設して参道を広げ神域が拡張された。
真輪寺であった時代は順徳上皇を奉祀し、菅原道真、日野資朝を配祀していたが、順徳上皇の御木像を安置してあったといわれている。明治維新の時、神仏分離が行われ真野宮となったのち、明治7年(1874)御木像は明治天皇思し召しで摂津の国、水無瀬宮に合祀され、御霊代(みたましろ)として御下賜の短剣が奉安されている。水無瀬宮は後鳥羽上皇の離宮跡に建てられた神社で、隠岐、佐渡、阿波で亡くなられた三天皇の御霊を弔うため、御木像が集められたという。
順徳上皇御遺品と伝えられる短刀、硯、扇子、釣花生、佐渡で上皇が詠んだ百首御製一巻が社宝として保管されている。



🌌順徳天皇御火葬塚

承久の変(1221)で佐渡へ御遷幸の順徳帝は、在島22年仁治3年(1241)9月46歳で島の行在所で崩御された。この真野山で御火葬、御遺骨は翌寛元元年(1242)4月従臣藤原康光によって都に帰られ、大原の父鳥羽帝の墓所の傍らに埋葬された。
この御火葬所の地は従来「真野御陵」と称されてきたが、明治22年6月京都大原墓所が陵に定められると、ここは「御火葬塚」となるが御陵と同じ取り扱いをされ宮内庁で管理。
戦国内乱期に境内は大いに荒廃したが、江戸時代延宝6年(1678)国分寺と末寺(御陵別当)真輪寺の僧の修復願出により、時の佐渡奉行曽根五郎兵衛は幕府の許可を得、翌年には方五十間の現境域を復旧した。外部の石垣は明治8年相川県参事鈴木重嶺の修復になる。

🌌佐渡歴史伝説館


🌌真野公園


















A solemn shrine dedicated to Emperor Juntoku Shinrin-ji Temple,which managed the cremation mound,was recognized as a prefectural shrine in 1874 and renamed "Mano-no-gu" (Shrine of Mano). The current shrine pavilion was built in 1920. A dagger,an inkstone,a fan,and a dried flower vase, which are said to have been left by Emperor Juntoku,are kept as the shrine's treasures.








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