尾神岳 ( おがみだけ ) Mt. Ogamitake 上越市



🔗尾神岳遭難者供養の報尽碑

神代のころ、天照大神が天の岩戸に隠れたとき、天之手力男命あめのたぢからおのみことが少し開いた岩戸を力いっぱい開けたところ、勢いよく岩は宙に飛び、空中で二つに割れ一つは、信州に落ちて戸隠山になったといわれ、その一片が尾神岳になったと伝えられている。
戸隠神社のご神体として天之手力雄命が祀られているが、割れて飛んできた岩からから生まれたこの山に天之手力雄命の下半身がやどったといわれていて、下半身の神、尾神岳という名が生まれたといわれている。
昔この山は女人禁制とされていたが、ある時、一人の尼さんが掟を破って登山しようとしたところ、とたんに石になってしまったという。この石は尾神集落の観音堂にかつて保存されていたという。
神々の昔から清らかな姿をみせる尾神岳は、標高757m、吉川区で一番高い山であり、吉川区のシンボルなっている。
古くは山岳信仰の対象として知られてきたが、現在では台形をなすこの山に快適な風が吹くことから、パラグライダーの基地として人気となっている。
山頂付近のパノラマハウスから広がる景観はとても美しく、佐渡ヶ島や長野県の山々まで見渡せる大パノラマが展開し、特に尾神岳から望む日本海の夕日は絶景だ。山頂より東側の林道沿いの天然ブナの単一林で森林浴、トレッキングも楽しめる。(案内図)

🔶パノラマハウス登山口
舗装された道は「パノラマハウス」まで続き、ここで車を止める。この地点でも、眼下に広がる光景には目を見晴らせるものがある。
登山道は、パノラマハウスから導標は設けられていないが、わかりやすい。15分ほどで台状地となり、スチール製の展望台がある。
展望台から起状もない稜線道は、10分ほど登ったあたりからブナ林となる。山頂間近に三基の祠※ストリートビューが祀られている。山頂三角点はこの地点から5分ほど。山頂からの展望は北東、米山が開けていて、刈羽黒姫山や八石山のが望まれる。



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尾神岳のブナ林

ブナ林はこの尾神岳の南斜面に広がり、およそ樹齢100年、面積101haの純林である。随所に炭焼き窯の跡が見られ、かつては、炭焼きのため伐採され、現在のブナ樹林は二次林である。周辺にはキャンプ場や遊歩道も整備されて、森林浴が楽しめる絶好の場所となっている。
ブナ林の下側を市道尾神川谷線が横切るように走っている。車を駐車場に止め、かつて林道として開削された際の開通記念碑までの2kmを歩いて探索してみるのもよい。ただし、道路が複雑にカーブを繰り返しゆるい下り道となっている。通過する車に注意が必要である。
新緑のブナ林の中からはキビタキの鳴き声が聞こえてくる。この林の鳥たちの主役であろう。クロツグミホトトギスツツドリと、ブナ林の鳥たちの声を楽しむことが出来る。他にも、谷間や、沢筋から多くの鳥の鳴き声が響く。※ストリートビュー

≪尾神岳遭難者供養の報尽碑(正式には報尽為期碑 ( ほうじんいごひ ))≫

尾神岳の中腹、「報尽為期(ほうじんいご)」と刻まれた報尽碑が立つ。
京都本願寺が元治元年(1864)7月、「禁門の変」で諸堂を焼失、再建のため全国から献納木を募った。これに応じ頚城地方でも、多くの門徒により東頸城郡嶺村(現上越市大島区嶺)の神社境内の大ケヤキを献木することになり、特製「大持そり」に載せ、直江津港まで運び、海上輸送することとなった。
明治16年(1883)3月に入り、近郷寺院の呼びかけで、毎日1,500~1,600もの人が献木運搬に集まった。3月12日午後2時過ぎ、「大持そり」が尾神岳中腹の難所吹切に差し掛かった時、幅200m長さ100m余の大雪崩が起り、70~80人が生き埋めとなった。
近郷からの2,000人余りが救助にあたったがその甲斐もなく、27人(子供20人を含む男8人、女19人、年齢別では50歳代が2名、40歳代が1名、30歳代が3名、20歳代が1名、10歳代が14名、10歳未満が6名)が遺体で掘り出された。比較的体力の無い、高齢者、女性、子供が多く犠牲になった。
惨事から4年後、明治20年(1887)9月24日に殉難者追善供養の石碑建立が許可され、明治21年(1888)、中頚城郡川谷村(現上越市吉川町)内の雪崩が発生した近くに供養の「報尽碑」が建てられた。同28年(1894)に東本願寺堂宇は再建されるが、最大の被害者を出した事故となった。
その後、この報尽碑の存在は年月とともに忘れ去られていたが、昭和31年(1956)地元有志による懸命の調査によって、草木に埋もれていた碑が発見された。以降、地元の人びとによって碑は護持され、報尽碑と呼び、殉難者を哀悼している。


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尾神岳 登山口1 登山口2 登山口3「パノラマハウス」 報尽碑 観音堂