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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。

10.見えない希望

10-1/2

「誤解なんです」
 開口一番に新見が言った台詞に、上條は眉を寄せた。
 いつも通りに始発電車に揺られ、自分の部署のブラインドを開け放ち、今日は一雨振りそうだなと、どんよりとした雲を上條は眺めていた。
 新見が出勤してきたのはそれから十分とたたない頃で、予想外の人物が現れたことで上條は驚いた。
「君、こんな時間の電車を使ってないだろう」
 前に一度言ったことがあるような気がしたが、上條はあえてそう言った。しかしその言葉も耳に届いていないのか、新見は出勤してくるなり固い口調で「誤解なんです」と繰り返した。
 夕べのことを持ち出すのは自分の方からだと思っていた上條は、彼のこの反応に内心戸惑っていた。
「で何が言いたいんだ?」
「ですから、彼は私が呼んだわけではなく勝手に来て、それであのネクタイをしていたのも私と示し合わせたからではないということです」
 上條は首を傾げた。全く要領を得ない。冷静な口調だが内容は支離滅裂で、混乱しているまま喋っているようだった。
「まあ落ち着きたまえ」と上條は椅子に腰を下ろした。デスクを挟んで固い表情で突っ立っている部下がいる。
「君は誤解だというがね、あの男、例のネクタイの男だろう?」
 上條は昨日廊下で会った大男を思い出した。百八十を越えた長身で立派な体躯をしていた。少し色黒の凛々しい顔つき、上等のスーツ、ブランド物の時計、一昔前の細身のネクタイがまた逆に洒落ていた。軟派な感じはしなかったが、サラリーマンではない雰囲気を出していた、あの男。
「ネクタイを借りたのは確かにあの人ですが」
 新見は上條の言葉に口ごもる。
「ふん。では全然誤解ではないだろう。あの男と寝て、今回は職場に押しかけてきた奴と寝た。どこが間違ってる?」
 新見は上條の言い方に不快そうに眉を寄せた。上條は内心舌打する。不愉快なのはこちらの方だ。目の前の部下があんな男に組み敷かれるなど。
「君、あの時エレベーターでヤラシイ事でもしていたんじゃないかね。私と目が合って慌ててまた戻って、しばらく降りて来なかったな。まさかこの職場で股でも開いて誘っていたのではあるまいね?」
 きれいな顔は血の気が失せて真っ白になっていた。それは怒りの為だと上條は気づいていたが、言葉は止まらない。
「反論もしないのか。だから私は言ったのだよ、君には呆れたとね」
 何故反論しない?と上條は苛立った。まさか事実なのか。本当にこの職場の何処かでこの男が悶えて、鳴いたとでも?
 あのエレベーターでこちらを睨みつけてきた大男に組み敷かれる新見の姿が頭にちらついた。
蝋燭の火のようにゆらりと揺れる官能の炎が己の中にある。フラッシュバックのように頭によぎる妄想。自分が新見を組み敷く願望。
 ぞっとして、上條は机を蹴り飛ばした。
 大きな音が響き渡り、新見は肩を揺らす。
「以上だ。もう席に戻りたまえ。これ以上私を失望させるな!」

 新見はそれからと言うもの上條と目を合わせなかった。上條としてはありがたかった。今朝口を開いて自分も相当動揺していることに気づいたからだった。これ以上彼と関わると、きっと感情的になって取り返しがつかなくなるような気がしていた。
 営業の全員が外出し、上條がデスクで報告書に目を通している時に常務から電話があった。今月の営業成績についてのお小言だった。
 やっぱりきたか。
 一昨日に経理課に常務が向ったと聞いて、毎年の事ながら、そろそろ言われるのではないかと思っていた。
「申し訳ありません。しかし例年より訪問件数を増やすよう部下には指導しておりますし、事実新見に関して言えば昨年より多い数字を残しております。報告書を見る限り、脈がありそうなところも数件」と言ったところで、常務は思い出したように話題を変えた。
「ああ、その新見くんだがねぇ」
 ぎくりとした。
「どうも噂を聞いてねぇ。私は事実じゃないと信じているんだがねぇ」
 粘着質な言い方を常務はした。上條は冷房が効いている部屋にも関わらず、じっとりと汗をかいた。夕べのことの話題ではないはずだ。周りにバレるような不始末は、あの部下に限っては考えられなかった。
「君と新見くん、よからぬ関係なんだって?」
「は?」と上條は素っ頓狂な声を上げた。「あ、いえ、失礼しました。常務、今なんて?」
「だからね、君、新見君と付き合ってるっていう噂を聞いたんだよ。どうなんだね、そこんところ」
 隠さなくてもいいじゃないか、と下卑た笑いを混ぜて常務は言った。隠すも何も、と上條は顔を引きつらせた。「そんな事実はありませんが」
「またまたとぼけて。君もやるねぇ。愛妻家で有名だったのに部下に手を出すとは。いや、私は君にどうこうっていう訳じゃないんだよ。彼だったら私も手を出してしまいそうだからね。それにしても君のお気に入りを接待に使ってしまって、あの時は悪かったね。あ、それともそういう趣味なのかな、ははは」
 内線電話のランプは取締役室を示していた。その部屋には秘書課の面々も顔をそろえているはずだった。そんな大勢がいる前で事実無根を延々と垂れ流す上司に上條は憤慨した。
 今朝の新見絡みのゴタゴタの後だったのも影響があったのかもしれなかったが、上條は珍しく声を荒げて否定する。
「根拠の無い侮辱はやめていただきたい!」
 しん、と周りが静まり返った。電話の向こうでもそれは同じのようだった。しまった、と上條が横に視線を向けると、企画部の面々が何事かとこちらに好奇の目を向けていた。
「君、冗談にそんなに怒ることかね。あの噂、あながち嘘でもないということかな」
 常務の声質が不機嫌なそれに変わり、険悪な空気が流れた。上條は苦々しく顔を歪め、「いえ本当に事実無根でありまして、私も妻子持ちですので勘弁して頂きたく」と言葉を綴った。
「ああ、それは失敬したね。ま、君らの関係はともかくだ。噂が噂だからね、君が上げてきた人事の件、今回は見送らせてもらうよ」
「な、」
「だってそうだろう。こんな噂が立っているのに、君の口ぞえで新見が出世なんかしたら皆はどう思うかね。君が潔白なのは恐らく本当なんだろうが、ごり押しして通したとしても巧くいくまいよ。少しは頭を冷やすことだ、分かったかね」
 乱暴に電話が切られて、上條は震えた手で受話器を戻した。
 噂になったのはおそらく接待前の会議でふざけて手を繋いで歩いたせいで、その後に行った昼食や接待自体もどこかで漏れたに違いない。今まで噂になったことがない堅物の自分と、噂ばかりされている新見との関係は傍から見れば面白いものだったろう。尾ひれがついて勝手に独り歩きしているに決まっていた。
 ぎりぎりと歯軋りを立てて上條は頭に昇った血をおさめようとしたが、今回ばかりは難しかった。腹が立つことが重なりすぎた。
「くそっ」と上條は小さく己を罵倒し、爪が食い込むほど拳を握り締めたのだった。

 悪いことは重なるものである。
 いや、不愉快になることというのは重なるもので、苛立ちばかりを与えたこの日もようやく日が傾き終わりに近づいた時、最も上條を不愉快にさせるものが新見の手から渡された。
「なんだね、これは」
 上條は怒りで声が震えるのも隠さず、封筒を見据えた。退職届と書かれた白い封筒が目に突き刺さる。
「見ての通りです」
 新見は今朝とは違っていつも通りの口調で言った。その言葉からは感情が読み取れない。きれいな顔に冷静な目がのっている。
「何のつもりかと聞いている」
「ですから」
「見ても分からんから聞いているんだ、質問に答えたまえ」
 上條は声を荒げた。新見はその態度に少し瞳を揺らげると、逆に不愉快そうな顔を見せた。
「今朝のお話では、こういうことを希望されたものだと思いまして」
 静かだが怒りが混じった声を新見は発した。彼は以前自分が殴って以来、このように感情を露にするようになっていた。もちろん同僚や営業先では相変らずの愛想笑いだが、自分に対してだけ露骨に感情を表す。それはよい傾向だと上條は思っている。
 だが。
 まだ足りない。
 彼はもっと怒るべきで、もっと主張するべきだった。煽って煽って真実が出るものと期待していたというのに、いきなり一方的に関係を切ろうとするなど、許せるはずがなかった。
「君は私が言いたいことを一つも理解していないようだな」
 上條は迷うことなく退職届を破り捨てた。驚いて目を見張った新見に向って言う。
「君、今日は私に付き合いたまえ。私の腹の中を見せてやる。私が何に対して怒り失望したか教えてやろう」
 低く唸るように上條が言い、その雰囲気に呑まれたのか新見は呆然と突っ立ったままだった。ごくりと下がった溜飲を肯定と受け止めると、上條は店の名前を書いたメモを新見に渡した。
「ここに先に行って待っていたまえ。八時には行く」
 無言で新見はメモを受け取りスーツのポケットにねじ込んだ。そして戸惑ったように席に戻る。
 上條は自分達が好奇の視線に晒されていることに気づいて、机をどんと叩いた。耳をそばだてていたであろう数名が、びくりと肩を揺らした。
「くだらないことに聞き耳を立てる暇があったら仕事をしたまえ!」
 今日は全てにおいて本当に腹立たしい、と上條は頭をかきむしりたい衝動に駆られた。これもそれも全部新見のせいである。全部本音を言ってやろうと思った。愚痴り喚いてやろうと思った。上條は気づいていた。この苛立ちが新見のせいではなく、己の感情の未熟さゆえであることを。

新見は仕事を終えた後、上條の言われた通りメモの店にいた。退社する時に挨拶した上條は表面上は平静を装っていたが、明らかに苛立った瞳をしていた。
 新見が知る限り、彼がそんなに長時間一定の感情を引きずっていたことはなかった。だからこそ、この誘いは断るべきではないと腹を括った。
 店は小料理屋で、伊勢崎と泊まったホテルの地下にあった。外から下に降りる階段があり、入口がある。暖簾には「魚料理しおさい」と書かれていて半透明のガラスの向こうにサラリーマン風の客がカウンターで食事をとっているのが見えた。
「いらっしゃいませ」
 暖簾を潜ると、白いエプロンをした女将らしい女性が近寄ってくる。「お好きな席にどうぞ」と笑顔を向けられた。
「実は人と会う約束をしてまして」と告げると、「ああ、伺ってます。新見様ですね」
「ええ」
 新見は少し驚いた。同席するものがいるから席を二人分頼もうとしていたのに、予約されていたとは。
 女将は新見の動揺に気づくこともなく、奥にある席で足を止めた。目の前には六畳ほどの小上がり。
「どうも」と新見は靴を脱いで下座で胡坐をかいた。
「ご注文はお揃いになられたときで宜しいですか?」と女将に聞かれ、新見は「そうします」と頷き、障子が静かに閉められた。
 時計を見る。八時にはあと十五分程だ。
 ぐるりと室内を見渡すと、壁に小さな絵が掛かっているだけのシンプルなつくりだ。天井近くは仕切りが切れていて、周りの音が全部聞こえる。笑い声、話し声。遠くの方で女将の客を迎える声も聞こえた。
 手持ち無沙汰でメニューを見る。魚料理が多いが、日中用の定食メニューとして、かつ定食やしょうが焼き定食などもある。値段を見ると少々高めのランチといったところで、職場にも近いし、上條の行きつけの店だと想像する。
 八時を過ぎても上條は現れなかった。
 八時半を過ぎても現れない。
 心配した女将が「来られませんねぇ」と二杯目の茶を持ってきて言う。
 新見は半ば予想していたので「すみません、長々と注文もせずに」と店側の事情を気遣うと、女将は微笑みながら首を横に振って、また静かにその場を辞した。
 ようやく上條が現れたのは九時を回った所で、店内も客が減り、フロアの喧騒も落ち着いていた。遠くの方で「先程からお待ちでいらっしゃいますよ」と女将の声が聞こえたので、上條が来たと分かる。
 障子を開けて、正座して待った。姿を現した上條に「お疲れ様です」頭を下げると、彼は何ものってないテーブルを見て眉をしかめた。「先に喰っていればいいものを」
 そして女将にビールと焼き魚、煮魚、刺身等を注文して畳に足を掛ける。立ち上がろうとした新見を制して、上座に胡坐をかくと一つため息を付いた。
「常務っていうのはどうしてああくだらない話が長いのかね。こちらの用件など五分程度で終わるというのに」
 まず愚痴から入った上條に新見は苦笑した。
 仕事を終えて上條とこうして飲むのは久しぶりである。二人きりになったのは、アカシヤでの昼食以来だ。しかしあの時とは少し状況が違っていた。新見は脛に傷がある立場でここにいる。
 瓶ビールが来て、上條とグラスを合わせた。
「まずはお疲れ様」と言い、喉を潤す。ふと見ると、上條はもう一杯目を飲み終わって手酌で二杯目をコップに注いでいた。
 手を伸ばすと、しっしっと邪険に払われる。
「ホストじゃないんだから気を使う必要なんか無い」
 新見はむっとしたが、それ以上何も言わなかった。上條の癇に障る言い方は今に始まったことではない。
 それから上條は常務に対しての愚痴ばかり零した。酔っている訳ではないのだが、いつもに比べて随分多い口数に新見は戸惑っていた。
 しばらくして料理が来てみると、鮎の塩焼き、キンキの煮つけ、五点盛の刺身。
 新見は途端に嬉しくなった。鮎は久しぶりだ。キンキは冬によく食べるが今時期はとんとお目にかかれない。
「現金なものだな君。目の色が変わったじゃないか」
 新見の露骨な反応に上條は呆れながらもほっとした。先程まで塞いでいた顔が一気に明るくなった為だった。
 しかし直ぐに食べると予想していた上條に反して、新見は箸で鮎の胴体を潰し始めた。
「何やってる?」

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