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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。

12.二人の足跡

12-1/1

「おはようございます」
 そんな声で上條は窓の外を眺めていた視線を室内に戻した。
 声の主は新見で、すっかり普段通りの彼に戻っていた。茶を入れてくれた女性社員に笑顔で礼を言い、本日まわる企業をチェックしている。
 上條は夕べの彼を思いだしていた。泣いたり笑ったり、人を誘惑したりと、表情がよく変わった一日だった。どれが本当の新見なのかと考えるのはナンセンスだと思った。きっと全部本当で、ただ、珍しく感情に振り回されただけなのだろう。
 上條は再び窓の外に目を向けた。今日は雲一つない晴天だった。夕べの雨のせいで気温は朝から高かった。おそらく真夏日になることが予想されたが、朝から晩まで冷房に晒される立場としてはあまり実感はなかった。外気に触れるのは駅までだけで、後は電車内のクーラーで冷され、家のクーラーで冷されている。
 確かにおかしな世の中かもな、と上條は冷気に身を震わせたのだった。

 上條の仕事が終わったのは深夜だった。二日連続で早い時間に帰宅していたので、やり残しを処理しているうちにこんな時間になった。
 課の扉に施錠をしてエレベーターで階下に下りる。常に明かりがついているロビーに立ち、腕時計を見る。終電まで時間があることを確認していると、自分に近づく気配で顔を上げた。
「あんた、こんな時間まで働いてるのか?」
 上條は明るいロビーに立つ背広の男を見て目を丸くした。その男は新見に会いに来ていた大男だった。
「新見ならとっくの昔に返りましたよ」
 上條が不快な顔を隠そうともせずそう言うと、男は「知っているよ」と口元を歪めた。「今日はあんたに会いに来たんだ」
「私?」
「そう。どうだ?電車に揺られるより、車のシートの方が楽だと思わないか?」
 男はそう言うと、車のキーを見せ付けてにやりと笑った。
「断る、と言いたいところだが、どうせ君は電車で帰るなら帰るでどうせ付きまとってくるのだろう?」
「ご明察」
「嫌な男だ。では精々県外近くまで乗せて行ってもらおうじゃないか」
 上條はそう言うなりムッとした顔でロビーを出た。話の内容には察しが付いていた。男と自分の共通点など一つしかない。
 路上駐車してある場所まで案内されると、そこには紺色の外車が停まっていた。そのエンブレムはあまりにも有名だ。
「ポルシェとは恐れ入る。はっきり言って君にはあまり似合わないんじゃないのかね?」
 年は恐らく自分と同じぐらいだと上條は思っていたのでそう皮肉を言った。国産のセダンあたりが我々の年齢にはピッタリだ。
「まあむさ苦しい男が二人で乗る車ではないことは確かだな」
 男は気分を害した訳でもなく乗り込むとエンジンを掛けた。シートベルトを互いにしている時に、上條が先程から気になっていたことを聞く。「この車に新見も乗ったのかね?」
 しかし男の返事は意外なものだった。
「あいつは俺が車を持っていることすら知らないさ」
 車は静かに発進した。深夜なので交通量は少なく、タクシーのテールランプばかりが目立った。上條が自宅までの道を男に告げている最中に、最初の信号につかまった。男が少し窓を開けて、シガーライターで煙草に火を付ける。
「そういえば自己紹介がまだだった」と紫煙を燻らせて思い出したように男は言った。上條は口元を歪める。
「伊勢崎さん、でしょう?」
「おや、よくご存知で」
「他にも色々と知っている。君と彼との関係もな。変な駆け引きも気遣いも不要だ。私に話したいこととは一体なんだね?」
 伊勢崎はその上條の突っかかり方に、一つ顎を撫でた。信号が変わったのでアクセルを踏む。
「もうちょっと言い方ってもんがあるだろうが。会話を楽しむとかはないのかねぇ。モテないだろう、あんた」
「余計なお世話だ。私には妻子がいるんだ、モテる必要などない」
「そうか?妻子がいたってモテたいってのが男の心情だと思うけど?言い寄ってくるコがいれば、据え膳を頂く」
「汚らわしいな」
「それが男で、動物的本能だよ。不快にはなるのは勝手だが」
 ふん、と上條は鼻を鳴らした。「君の倫理観はどうでもいい。で、何が言いたいのか、さっさと言ったらどうなんだ?」
「ふうん」
「なんだ?」
「あんた、どうしてそう話を急ぎたがるんだ?そんなに新見の話題をしたいのかな?」
 伊勢崎は意味深な笑みを浮かべながら煙草を消した。その態度に上條は苛立つ。
「穿った考えはやめたまえ」
「穿った?それはこちらの台詞だよ。新見から何を聞いたか知らないが、歪曲して解釈してるように思える。そして俺に敵意があるのを隠そうともしてない。それは何ていうか知ってるか?答えは嫉妬さ」
 上條は嘲笑した。「何を言うのかと思えば」
「否定しないな?」
「馬鹿馬鹿しくてする必要もない。君こそ勘違いしているようだな。私は彼に対して何の感情も抱いてない」
「嘘だ」
「本当だ。少なくとも君と同じ種のものではない。現に私は彼に言ったよ。君がどんな男と付き合おうが関係ないってね」
 上條のその苛立った言葉に伊勢崎は隣を見た。そして気になったことを尋ねる。
「そんな話を新見としたのか?いつ?」
「昨晩だ。彼がらしくもなく退職届を持ってきたから一席設けて話を聞いた。その時に君との関係もそれとなく聞いた」
 伊勢崎は「へぇ?」と声を上げた。上條が隣を見ると意外にも口元が笑っていた。どうしてそんな表情になるのか理解に苦しんでいると、伊勢崎は灰皿に煙草を押し付けた。
「あんたの口調じゃ、あいつは退職にはなってないんだな。どうしてとめた?」
「やめて欲しかったのか?」
「いいやそうじゃない。あんたのイメージじゃ、去るもの追わずの感じがしたから意外だったのさ」
「君は誤解している」
「誤解?」
「君にとってはただの恋人かもしれんが、私にとっては優秀な部下なんだよ。営業成績はトップで彼が抜けると困るのだ。簡単に退職届けを出されて、はいそうですか、と受け取れるものか」
「簡単に出した?あの男が?」
 伊勢崎は笑った。「そんなはずないだろう」
「知ったような口ぶりだな」
「あんたが嘘をつくからだよ。あいつの性格は分かる。仕事にそれなりの誇りを持っていてプライドも高い。それが簡単に退職届けなんか出すわけがない」
「事実出した」
「ではあんたが原因だ」
「なんだと?」
「何となく、そんな気がする」
 上條が眉間に皺を寄せると、伊勢崎はそれを見て嬉しそうに笑った。「その顔じゃ、思い当たる節があるんだな」
「いちいち勘に触る男だな。ああそうだ。彼曰く、私が退職して欲しいような態度だったから出したんだそうだ。全くくだらない」
 上條がため息交じりに言ったその台詞を聞いて、伊勢崎の心中は穏やかではなくなった。彼の知っている新見という男は、人の顔色を伺って意見を曲げたりしないタイプのはずだった。
 冷静な感情に波風が立つのを自覚する。一昨日の暴挙を思い出して自嘲した。
「はは、これは参った」と思わず呟く。
「どうした?」
「俺の方があんたに嫉妬している」
 口元を歪めてそう言った伊勢崎の横顔を上條は見た。目つきが確かに先程までとは違う。
「真剣なんだな」
 上條がそう言うと、ちらりと視線が動いた。「なにが?」
「新見に対する気持ちだよ。今までおどけてたのに、彼のことを聞いた途端に顔色が変わった」
 伊勢崎は自嘲した笑いを顔にのせたまま、新たな煙草を咥えた。「根が正直でね」
 それから二人は無言になった。急に押し黙った伊勢崎との間の空気が重くなり、上條も口を噤んだ。窓の外の景色は郊外へ移り、街灯も少ない。
 何分経過したのか。伊勢崎が先程の煙草を灰皿で消すと、小さくため息を付いた。それは吐息のように微かに、力なく。おそらく本人の自覚すらないであろう本音に、上條は苦笑した。
「君は本当にバカが付くほど正直なんだな」
「まあ、愚か者であるのは確かだろうさ」
 肯定した声は知的な響きがあった。いや、現にこの男はきっと本来真面目で頭がよいのだろう。喋り方や仕草はふざけていても、端はしに知的さが伺える。途端に、上條は伊勢崎に興味がわいた。
「正直、どうして新見が君と付き合っているのか疑問だったが、何となく分った気がするな」
「ほう?」
「君は雰囲気を作るのが巧いんだ。営業向きだよ、彼が興味を持つのも分かる」
 仕事目線のそんな話に伊勢崎は呆れた。「それは褒めてない」
「褒めるつもりはない。現実を言っただけだ。彼と一緒で、一種のカリスマというか人間的な魅力がある」
「それは褒めすぎだ」
「だから褒めてない」と上條は苦笑した。少し和らいだ伊勢崎の態度を確認すると、小さく尋ねてみる。
「君は新見の事が好きなのか?」
「ああ」
 軽快だが淀みのない返事に上條の方が戸惑った。「男なのに?」
「好きに男も女も関係ない」
「ずいぶん簡単にいうんだな」
「正直者なのさ。先程の据え膳の話じゃないが、欲しくなったものは頂く主義でね」
「そこが引っ掛かる」
「なに?」
「君の言い方だと大して彼のことを好きだとは思えない」
「おいおい。まさか一途です、って言葉を期待しているんじゃないだろうな。残念だがこれは俺の考え方とあんたの考え方の違いであって否定されるいわれはないね。女も好き、新見も好き。そして今現在は、新見の方に天秤が傾いている。それだけの話さ」
「では天秤が逆に傾くこともあるわけだな」
 上條の声が低く険悪になるのを伊勢崎は感じた。しかし己の考えを曲げて伝える気はなかった。
「そうだな。俺は運命の人なんて信じない。何度でも好きになる奴は出てくるもんさ。それぞれの個性を持ってね。俺は天秤が傾き続ける限り、その人物と付き合うだけだ」
 伊勢崎の声もまた低く険悪なものだった。上條は、彼の苛立ちが自分に対してではないこと
を感じていた。おそらく彼の過去が言わせている。
「もしかして結婚していたことがあるのか?」
 途端、急ブレーキが掛かって上條の身体が前に引っ張られた。肩にシートベルトが食い込む。前を見ると、信号は確かに赤だった。隣の伊勢崎が鋭い視線を向けて言う。「あんたには関係ない」
 確かに関係ないな、と上條は思い、一つため息をつくと「すまん」と謝った。
「ずいぶん素直だな」
「私も君と同じで根が正直者なんだ。正直ついでに告白すると、どうも私は一言多いらしくてね。彼が退職届けを出したのも、きっとそういうことなのだ。知らず知らずのうちに人の傷口に塩を塗っている」
「知らず知らずっていうのが引っ掛かるが?」
 伊勢崎は視線を和らげると、苦笑いを浮かべてアクセルを踏んだ。
「まあ聞け。彼が退職届けを出した切っ掛けの話だ。彼は君との関係を知られて軽蔑されたくなかったんだそうだ。私は君の気配を知ってから揶揄ばかりしてきたからな。それで現場を押さえられて、本気で軽蔑されるのを恐れたらしい」
「それで退職届?」
 伊勢崎の納得できないような顔に上條は満足した。この男は本当に勘がいい。
「違和感を感じるだろう?あの男は君も知っている通り世渡りが巧い。私に軽蔑されたくなければ、それらしく誤魔化せばいいのだ。ところが彼はそれができなかった。最初は君のせいで混乱しているだけかと思ったんだが、彼は私のせいだと言った。そこで気が付いた。彼は私から逃げたかったんじゃないか」
「逃げる?」
「そうだ。私に投影した誰かの軽蔑から逃げたくてあんな行動に出た。そしてそれは引き止めて欲しいというシグナルでもあった」
 伊勢崎はやりきれない顔で頭を掻いた。きっと気づいただろうと思ったが、あえて上條はその横顔に言う。「きっとそれは、彼の父親だ」
 遠くの方で救急車のサイレンが鳴っている。久しぶりにすれ違った対向車のライトで二人は眩しくて目を細めた。
 ふいに、伊勢崎が呟く。
「あんたモテないだろう。そんなに人のプライベートに首を突っ込んで、真実を見抜いて」
 心なしか伊勢崎はつらそうな顔をしていた。上條は静かに自嘲して、目を閉じる。
「だから、君が私に嫉妬することはない。きっと彼は君のことが好きだよ。トラウマを抱えているのに、君とはきちんとそういう関係になれているのだから」
「それもまたコンプレックスゆえじゃないのか?」
「そうかもしれないな。きっと彼にはまだ何かある。まあ人間、過去には色々あるものだ。詮索は程ほどにした方がいいかもしれない。傷口に塩を塗る程度のつもりが、ナイフでえぐっているのかもしれないしな」
 上條は目を開けた。そして、自宅が近いことを伊勢崎に告げる。
 そこは住宅街で、静かだった。深夜なので明かりが灯っている家は少ない。何度か道を曲がって、上條は右手側に建つ一件の家の前に止まるよう伊勢崎に指示した。街灯から離れているせいもあり、辺りは真っ暗で闇に溶け込んでいるような二階建ての建物だった。表札には「上條」と書かれている。
「わざわざすまなかったな。こんな場所まで。そういえば君の用件を結局聞いていない。何の話だった?」
 車から降りてドアを閉めるときに上條は伊勢崎に尋ねたが、彼は首を振った。「もういいんだ」
「そうか?」
 再度礼を言って車のドアを閉じ、玄関に向おうと上條が歩き出した時、背中に声が掛かった。
振り向いて、自分の背後に視線を向けている伊勢崎に気づいた時、この男は勘がよかったことを思い出した。先手を打って上條は言う。「なにも言わないでくれ」
 伊勢崎は言われた通り口を噤んだ。そして、いたわるように笑顔になった。
「今度、飲もう」
「・・・ああ」
   *
 伊勢崎は煙草を咥えて静かに車を発進させた。
 上條の家は闇に溶け込み、一つも明かりがついていなかった。玄関に入る時に彼は鍵を開けて、ただいまも言わずドアを閉めた。
 彼の家には、誰かがいるような生気が感じられなかった。
「なにが俺と一緒で正直者だよ」
 伊勢崎はそう呟いた。
 新見が上條に求めるように、あんたも新見に求めているんじゃないのか?
 最後に上條に問いたかったことはそれだった。しかし問うのをやめた。どちらにしても我々の答えはもう出ていて、判断は自分でするものではない。
 皆淋しくて誰かに寄り添い、温かな体温を求め、癒しを求める。愛情を確かめ合って、この幸福は永遠だと思う。しかしそれは破綻する。
 妻を殴った時の手の痛みと、信じられないと言う顔でこちらを睨みつける視線を思い出した。
 もう二度とあんな思いはごめんだと思った。
 それから適度な付き合いをする癖がついた。
上條と違って、プライベートを詮索せず、深入りしないことに決めた。聞きたくないことには耳を塞ぎ、目を閉じた。その行為は、時に己を守り、時に気分を落ち込ませた。しかしどのような結果になったとしても、傷口は浅い。
「そうだ、俺は間違ってない」
 伊勢崎は自分を説得するように呻くと、迷いを振り払うようにアクセルを踏む。彼は胸の中に黒い霧を抱えているような感覚に陥っていた。方向感覚を失い、まるで毒が染み込む様な息苦しさ。
「なんで俺はこんなにイライラしているんだ!」
 信号にぶつかり急ブレーキを掛けると、伊勢崎は怒りの混じった手でハンドルを叩いて頭を抱えたのだった。

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