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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。

13.甘い果実

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 溝口は一つ伸びをすると、時計を見た。そろそろ昼というところだった。フライング気味だが、立ち上がって喫煙所に向う。事務所内で禁煙になったのも、確か夏で、いつもこの時期には何か改革が行われるのが常だった。今年は恐らく光熱費の削減にクールビズを執り入れるという噂だった。営業職以外の男性職員をノーネクタイとし、冷房の利用率を下げようというのだ。ノー残業デーを設けるという案も浮上しているとか。
 喫煙所は給湯室近く廊下に置かれたボロソファーで、特に囲いをしているわけではない。近くには自動販売機も置かれていて、昼食時には混雑する。嫌煙家からは給湯室の近くにこういう場所があるのはおかしいと完全禁煙を求める声もあるらしい。混雑しているところで紫煙を燻らすと、彼らの(彼女らの)無言の非難が辛いので、溝口はいつも早めに一服を済ますようにしている。
 いつものようにソファーに座り、ぼんやり紫煙を燻らしていると、普段ならこんな場所で見かけない男がやってきた。
 新見である。
「お疲れ様です」
 笑顔で溝口に挨拶して、新見は彼の隣に腰掛けた。
「煙草、吸ったっけ?」
 溝口が尋ねると、「いいえ」と首を振る。
「少しお時間頂きたくて」
 溝口は嫌な予感がして苦笑いする。
 上條と新見の会食を覗き見しに行ったのは、一週間前のことで、そのことについてリアクションがあると思っていた矢先だった。そんなことを口にすると、新見は首を振った。
「違いますよ」
「あ、そう?じゃあなに?」
「お話したくて」
「は?」
「機会があったら世間話でもしたかったものですから。お邪魔でした?」
 溝口は隣に座る男をまじまじと見た。こんなに近くで彼を見たのは初めてだったが、想像以上にきれいな肌をしている。長い睫毛、濡れた瞳。荒れてない唇。細い肢体、長い足。
 なるほど、と思う。本来ならテレビの向こうにいそうな造形美がこんな身近にいたら、誰だって舞い上がるかもしれない。
「なんです?」
 黙ったままの溝口に新見は首を傾げる。
「あ、悪い。見とれてた」
 詫びいれず本音を言った彼に、新見は苦笑いを浮かべた。「それはどうも」
「言われるの嫌い?」
「嫌いというか、」
「聞き飽きた」
 軽く図星を突かれて新見は絶句する。
 実は溝口も整った顔をしていた。茶髪気味の頭、垂れ目。いつも笑っているような作り。喋り方は軽快で威圧感がなく、心地いい。
「係長って意外と、」
「イイ男だろ?」
 そんな軽口に新見は笑った。「そうですね」
 溝口は新見より年上の三十前半で、出世頭の一人だった。先輩格の菅原や坂下が主任に留まっているのにも関わらず彼だけは頭一つ抜け出して係長というポストについている。軟派な外見通り飄々と仕事をする奴だ、というのは上條の評価だが、それは悪口ではなく褒め言葉で、新見自身、そんな彼に興味があった。一方、溝口から見た新見の印象は、とにかく目立つということだった。外見もさることながら、その動作一つ一つが目を引くものがある。彼が、派手な外見に関わらず真面目に仕事をするのも、意外性があって印象を強くしていた。
 喫煙所の近くにぞろぞろと社員が集まってきた。自動販売機を使う者、給湯室でインスタントラーメンを作る者。煙草を吸う者。
 溝口は腰を上げると、新見も立ち上がった。
「メシは?」
 気軽に溝口が聞けば、新見は外で済ます予定だったと言う。溝口は基本的に昼食は抜くタイプだったが、今日は新見に付き合うことにした。
「いいんですか?」
「まあ、たまにはね。って、奢らないぞ」
「おや残念」と新見は舌を出し、二人で笑った。

 昼食場所に選んだのはアカシヤで、二人とも日替わり定食を頼んだ。待つ間、溝口は煙草を吸う。
「そういえば、新見ってカラーコーディネイターの資格取ったんだって?」
「よくご存知ですね」
「知ってる知ってる。ウチの連中が、カラーシーツの販売に合わせて資格まで取った奴がいるって笑ってたから。そんな酔狂なことをしそうなのお前ぐらいじゃん?」
「悪かったですね」
 褒められてないと分かり、新見は苦笑した。
「まさか本当にシーツの為に取った資格なのか?」
「悪いですか?」
「いや、悪くねえけど」と言いながらも溝口は呆れた。確かに新企画として、和名のついたカラーシーツを開発した。繊維も新技術のもので、速乾性に優れ、色落ちしにくい構造だ。主に大量のリネンを扱う産業、ラブホテルなどをターゲットにした商品だったが、まさかその商品の為だけに資格まで取るとは。
「肌の色をきれいに見せるという話だったんで、営業でもそれを押していこうと思ったんですよ。無駄になるような資格じゃないし、プラスアルファとして取ったんですけどね」
「役に立った?」
 半笑いで溝口が突っ込むと、案の定新見は苦笑いを返してきた。
「企業相手にはあまり関係なかったですね。そちら方面の関心は結局コストですから。しかし、個人宅の営業では満更無駄ではありませんでしたけど」
 ふうん、と溝口が頷いたが、新見の喋り方に何か含みがある気がして、ちょっと興味がわく。
「なに、ナンパでも成功した?」
「え?」ぎくりと新見は固まった。
 図星かな?と溝口は思ったが、それ以上追求するのはやめた。本当はその相手が女なのか男なのか興味があったのだが。
「お待たせしました」と店員が二つの定食を持ってくる。本日はさば味噌定食で、食欲をそそる香りがしている。
「はい、どうもぉ」と溝口は楽しそうに定食を受け取って、箸を割る。久しぶりに昼食を食べるが、案外入る。いつもは朝食を大量に食べて、昼を抜き、夜は軽く。
「どうしてそんな食生活なんですか?」
 美味しそうに新見も食べながら尋ねてくる。
 理由は簡単だ。昼時までに仕事が終わらないからに尽きる。
「煙草を吸う暇はあるのにご飯食べる暇はないんですか?」
 呆れたようなその声に、溝口は頷く。煙草は一時という感じがあるが、食事は時間をとるようなイメージがある。
「食事ほど面白いことないと思いますけどね」
 新見はそう言ってまた食べるのを再開した。きれいな所作だ。箸の持ち方はもちろん、魚の食べ残しが極端に少ない。食べ終わった頃には、溝口の皿には魚の骨や皮が汚く残ったが、新見の皿は、まるで舐めたようにきれいだった。
「同じものを食ったとは思えないなぁ」
 感心して溝口が言い、新見は「そうですか?」と微笑んだ。
「なあお前って甘いものとか酒とかもイケるクチ?」
「まあ好きですけど。どうしたんですか突然」
 新見のその答えに溝口は駄目もとで提案してみることにした。実は、彼には少し持て余しているものがあった。実家から大量に送られてきた桃である。
「へぇ。羨ましいですね。旬の果物は特に美味しいから」
 新見はてっきりその桃が余っているので貰ってくれないか、という流れになると思ってそう口にしたのだが、溝口の口から出たのは意外な台詞だった。
「実はその桃でデザートとか何品か作ろうと思って。よかったら今度ウチに食いにこないか?」
 思わず新見は絶句してしまった。時間がないと言って昼食を抜く人間が、料理や菓子作りに興味がないというのは誤りだったらしい。よくよく聞けば、昼は忙しいから抜いているだけであって、食事に興味はあるらしい。しかも作る方が好きとは。
 新見は思わず喉を鳴らした。
 桃を使ったデザートといえば、桃のジェラート、タルト、デザートスープとか?
 勝手に想像をして口が緩んでしまう。
 その姿を見て溝口は笑いを堪えてもう一度尋ねた。「どう?」
「ぜひ伺わせていただきます」

 実際に溝口から新見へ声が掛かったのは、あれから数日たった週末だった。
「明日、大丈夫?」
 帰宅しようと腰を上げた時、溝口がデスク脇まで来てそう耳打ちしてきた。まわりにはまだ営業課の面々がいて、もちろん上條もデスクに座っていた。しかし、新見は嬉しくなって思わず「いいんですか?」と聞き返してしまう。
「もちろん。俺の方から誘ったんだから」
 溝口も笑顔で頷く。お互い意味深に視線を合わせて、楽しそうに待ち合わせ時間と場所を打ち合わせしていると、上條がわざと咳払いをした。
「おっと。じゃあ仕事に戻るとするよ。また明日」
「はい」と期待一杯に返事をして、新見は上條の冷たい視線に気づいた。しまった、と後悔しても時既に遅し。
「新見、こっちに来い」
 デスク前に立つと、上條はあきれ返った顔をしていた。
「君はちっとも反省しとらんようだな」
 要するに、噂が蔓延している中で、今度は企画課の係長と何をするつもりだ。と言っているのだ。
「嫉妬はみっともないですよ、課長」
「だ、れ、が、だ?」
 軽く冗談を言った新見を引きつった顔で上條は睨んだ。
「冷静に行動しろと言っているだろう。これ以上ある事ないこと噂されると、君以上に私が迷惑するんだ。自重したまえ」
「分かりました。が、今回は勘弁して頂きたく」
「なんだって?」
「溝口係長が私に桃のデザートを作ってくださるそうなので、断るとせっかくのチャンスが」
「チャンスというのは、仲良くなるチャンスか?」
「違いますよ。桃の旬が逃げると申し上げているんです。想像してみて下さい。暑い夏に食べる、キンキンに冷えたデザートを口にすると、ふわっと桃の香りが口に一杯に広がって」
 興奮したようにそう新見は続けているが、上條は遮った。放っておくとずっと幻の菓子の話ばかりをするような勢いであった。
「あーあー分かった。君を口説くには美味いメシかデザートがあればきっと十分なのだな」
 追い払うように手を振った上條を見て、新見はそっと彼に顔を寄せた。そして耳打ちする。
「例の噂の話、探りを入れてきます」
 急に冷静な声が上條の耳に届いて、彼は唖然と新見を見返した。顔は笑顔、瞳は冷静。
「君というやつは」
「デザートが楽しみというのも本当ですよ」とにっこり笑って見せたのだった。

 週末、新見と溝口は駅で待ち合わせをして、二人で溝口のマンションへ向った。途中酒屋に寄り一本のシャンパンを買う。
「もしかして?」と新見が目配せすると、溝口は「もちろんアレ」と頷き返した。
 アレというのはこの季節ならではの美しいカクテル。白桃のベリーニ。新見は家に向って歩いている最中、過去に一度だけ飲んだその味を話した。溝口は楽しそうに話す彼を見つめ笑った。食事の話をするときはまるで少年だ。子供が特撮ヒーローのことを延々と解説するがごとく楽しそう。
「お前はホントに食べるのが好きなんだな」
 溝口が新見の横顔にそう声を掛けると、彼は嬉しそうな顔のまま「はい!」と元気よく答えたのだった。
 溝口のマンションはフローリングの1DK。リビングダイニングには、食事用の丸いテーブルと椅子が三脚、ソファー、大きな液晶テレビ。
「適当に座って」
 溝口はソファーを指差すと、自分はエプロン姿になる。
「似合いますね」
「まぁね」と溝口はウィンクをしておどけて見せる。「仕上げちゃうから、ちょっと待ってて」
 彼はそう言うなり台所に立った。新見からは背中しか見えないが手際がいいことは分かる。テレビを見ようと一度リモコンに手を掛けたが、フライパンから出る音と、リズム感溢れるその動きに目を奪われる。そっとソファーから腰を上げ、溝口の背中越しに台所を覗くと、白い皿の上にのったピンク色のカッペリーニ。
「カッペリーニに桃っ?」
 あまりに驚いて新見が素っ頓狂な声を上げると、溝口は勢いよく振り返った。
「びびった〜。なんだよ、なんだって?」
「い、いや、桃のカッペリーニってちょっと想像が」
 ビジュアル的には美しい。淡いピンク色のソースに絡まった細い麺。上に乗る桃のスライス。
「お、もしかして初めて?やったー。驚け、驚け」
 溝口は新見の反応を面白がりながら、テーブルに完成した料理を並べていく。ちょっとしたコース料理だ。
「本当は一品ずつ順番に出したかったんだけど、一人で食わせるのもね。喋りながら食ったほうがメシは美味いし」
 その台詞に新見も同意。馴染みのイタリア料理店はあるが、一人で行くのは何か物足りないものだ。お喋りをスパイスにすると、尚美味く感じる。逆になる相手もいるが。
「さーて。どうぞ、どうぞ。初めて作ったのも結構あるけど、うまく出来たと思うぜ。全部食ったらデザートあるから。桃ばかりで恐縮だけど」
 二人は桃のベリーニで乾杯。そして新見は早速カッペリーニに手を伸ばす。目の前には頬杖をついて、にやにやと笑っている溝口がいる。一口食べて、やられた、と思った。
「・・ウマイ」
「だろ?」と得意げに笑う溝口に新見は感嘆した。
「トマトと白胡椒か。そうかぁ」
 肉料理やデザートのシャーベットまで平らげる間も、新見は気になった材料や味付けの質問を溝口にしながら一人で感心しきりだった。
「そういや新見は自分で作ったりしないの?」
 溝口は食後に煙草を咥えると、そう質問した。
「残念ながらさっぱりですね。これじゃいけないと奮起して何度かチャレンジはしたんですが、どうもイライラするし、なまじ食い意地が張っているせいか味に納得できず終いで、結局それっきりです。実家が古い考えの家でして、男は台所に立つなと言われて育ったものですから、その影響もあるのかもしれません。ま、負け惜しみですよ」
 そんな台詞に溝口は笑った。そして、新見の許可を再度とって煙草に火をつける。
 料理は二人とも満足いく量と味だった。ベリーニも甘いせいか、どんどん杯が進み、結局シャパン1本を開けてしまった。とくに新見の方が気に入ってしまい、最後の方では自分で桃の皮を剥いてピューレを作っていたほどだ。
「気に入ってくれてよかったよ」
「すみません、デザートだけのつもりがすっかりご馳走になってしまって」
「俺は最初からフルコースを誘ってたから、お前が食いしん坊で助かったよ。それより、ちょっと遅くなっちゃったな。引き止めて悪かった」
 電車でここまで来た新見を気遣ってそう溝口は謝った。時計を見ると、いつのまにか九時を過ぎている。終電までは時間はあるが、食事会にしては長く時間を掛けすぎたとは思う。
 新見も溝口にならって時計を見、想像以上に進んでいた時間に驚いた。楽しかったがこれ以上お邪魔するのも迷惑だと思い、挨拶をそこそこに腰を上げる。
 すると、自分の意思と違い、一瞬身体が横に傾いた。
「おい、大丈夫か?」
 溝口の心配した声に新見は我に返って「大丈夫ですよ」と笑顔を作った。しっかりしろ、と自分に叱咤し、玄関に向い一歩を踏み出す。
 溝口はそんな彼の後ろ姿を眺めながら心配そうに眉を寄せた。足取りはしっかりしているが、はたして大丈夫だろうか。

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