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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。

16.衝撃の事実

16-1/2

 その時伊勢崎は正直頭が真っ白で事実を受け入れずにいた。あるはずものがなく、ないはずのものがそこに存在していた時、瞬時に自分の妻が裏切ったことを知った。多くの男達がいる中で思わず妻を平手打ちする。
「こら、やめないか」とすぐに男達に羽交い絞めにされる。目の前には頬を押さえながら信じられないという顔をした妻が眉を吊り上げてこちらを見上げていた。

「イセさん?」
 伊勢崎ははっと我に返った。ドアの近くには訝しそうにこちらを見ている川村と三年ぶりに見た元部下、小暮が立っていた。仕事でもないだろうに、小さな身体に皺のない紺色のスーツを着、髪も固めて整っている。
「お久しぶりです、課長」
「あ、ああ」と伊勢崎はぎこちない笑みを浮かべた。自分の境遇もさることながら、この小暮もここ三年は散々であったはずだった。「元気そうじゃないか」
「ええ、まあ」
 小暮の方も伊勢崎の言葉に苦笑を浮かべた。そして思い出したように手に持っていた菓子折りを見せる。
「近くまで来たものですからご挨拶に」
 その言葉に伊勢崎は「またまた」と笑った。「何か言いたくて来たんだろう?」
「分かりますか」
「分かるさ。正直こんな場所に他の用事があったとは思えん。流行の店もなければお前のような若者が楽しむ場所じゃないしな」
「俺もう三十ですよ」
 小暮は自嘲気味に笑うと焦点を伊勢崎から川村に移した。派手な外見をしているが、どうみても高校生か大学生だった。顎とおでこにはにきびが出来て肌が荒れている。伊勢崎と川村の関係が図りかねた彼は小首を傾げながら言った。
「えーと、課長の息子さんかな」
 すると川村と伊勢崎の両方から同時に怒号に似た悲鳴が上がる。
「こんなデキの悪いオヤジを持った覚えはないっすよ!」
「こんなデキの悪い息子を持った覚えはないっ」
 あまりにも息が合っていたので小暮は失笑した。「分かってますよ。課長に息子さんがいるとは聞いてなかったし。ずいぶん親しげだからまさかと思っただけです」
 川村は伊勢崎と顔を見合わせた。どうやらからかわれたらしいとため息をつくと「どうぞ」と小暮を部屋に通す。「お邪魔します」と小暮は靴を脱ぎ、視線を部屋に向けると、かつての上司である伊勢崎は煙草に火をつけているところだった。
「ずいぶん変わられましたね」
 小暮は畳に正座して素直な感想を漏らした。
以前一緒に働いていた時の伊勢崎はスーツを着て働くエリートで、忙しい方が楽しいと言いながら常に動いていた印象があった。しかし今はどうだ。布団の上に胡坐をかきながら煙を吐き出した男は、体躯は相変らず立派だが、ランニングシャツを着て穴の開いたジーンズをはいていた。だらしない無精ひげ姿など今まで見たこともなかったのだが。
「変わった、か。変わったかもな。三年前に全てをなくして、今あるのは新しい環境だから。お前は?どうしていた?」
 伊勢崎が懐かしげに笑いながらビールの缶に灰を落とすのを見て小暮は事実を話そうか迷って視線を下げた。正直目の前のかつての上司は、小暮が会いたかった男ではなかった。
「お前なにか企んでいるだろう」
 大きく肩を揺らして小暮が伊勢崎と視線を合わせると、彼は昔と同じように瞳をギラつかせてこちらを見ていた。
「課長、実は」
 小暮が決心したように息を吐くと、伊勢崎は鋭く「シィッ」と言った。そして瞳を和らげると、近くに突っ立っていた川村に目を向ける。
「川村くーん、ちょっと外してくれるかな」
「えー」
「えーじゃないよ。これあげるから」
 小暮から貰った菓子折りを川村に渡して手を振ると、その態度に彼は憤慨した。
「なんだよ、勝手に呼びつけておいて今度は出て行けって。これだから大人は嫌いだ」
「お前さんだって成人してるじゃないか。大人の事情も分かってもいい年だよ。さあ行った行った」
 腰に手を当てて眉を寄せている川村の背中を伊勢崎は押す。玄関まで追い詰めると彼は鼻を鳴らした。
「もうビールの差し入れしませんからね」
「え」
「じゃあサヨウナラ」
「え、それはないよ。川村くん。川村くーん」
 ドアの向こうに消えた川村に向って未練がましく伊勢崎が言うのを聞いて、小暮がぷっと吹き出した。振り返ると笑いの混じった声で言う。
「本当に仲がいいんですね。ずいぶん年が離れているように思うんですが」
「うーん、まあ」
 川村を呼び止めるのを諦めて伊勢崎が元の場所に戻って胡坐をかくと、「友人みたいなものかな」と呟いた。
 ご冗談をという顔で小暮が苦笑すると、伊勢崎も口元を歪めながら独り言のように言う。
「隣の住人なんだがね。色々気を使ってもらってる。ありがたい存在だよ」
 優しい顔で言った伊勢崎を見て小暮は思わず「ああいうお子さんが欲しかったんですか」と聞いてしまった。言ってからしまった、と思ったが、目の前の伊勢崎は特に気を悪くした様子もなく「そうか。あれぐらいの子供がいてもおかしくないのか」と呟いて複雑そうに笑った。
 小暮は目の前の伊勢崎はやはり三年前とは違うと実感した。今の彼は達観したような諦めに似た何がある。
「俺は別にどうでもよかったけど、やっぱり悦子は欲しかったんだろうな。もし俺たちに子供がいたら何か変わっていたのかも」
 悦子というのは伊勢崎の元妻の名前だった。若いうちに結婚した彼らに子供は出来なかった。原因は伊勢崎にあると酔った時に小暮は聞いたことがある。そのことに随分悩んでいたのは妻の方であり、伊勢崎の方は仕事一筋で気にも留めてなかったとも。
「あの日、俺の書斎から出てきた書類を見たときに思ったよ。ああ、俺はこんな身近な人間に裏切られるのか。・・・いや、追い詰めたのは俺の方か」
 最後の紫煙を吐き出して、伊勢崎は短くなった煙草を空き缶に捨てた。小暮は彼の心情を思い項垂れた。実は伊勢崎がまだ知らないことを小暮は知っていた。重々しい口調で口を開く。
「課長。実は榊の奴が今度悦子さんと再婚するって噂が」
 伊勢崎は顔色を変えた。目は驚きというより榊に対する憎悪が宿った。しかし一瞬にしてそれは失われる。次の瞬間には彼は笑って「そうか」と一言だけ呟くに留まった。その態度が意外で小暮は声を荒げた。
「腹、立たないんですか?あの野郎が課長の奥さんをそそのかして、自分だけ!」
「もういいんだ」
「よくないですよ!俺は絶対にあいつを許さない。あいつが裏切りさえしなければ俺らは逮捕されなかったんですよ!」
 三年間忘れたかった現実が小暮の口から放たれた。伊勢崎は頭に反響するその言葉をかみ締めながら目を閉じる。
 あの日のことが鮮明に思い出される。日常の一ページとして埋没するはずだった休日の朝。チャイムが鳴り、玄関には厳しい顔をした男たち。目の前に掲げられた白い紙。裁判官の印章が鮮やかで目に焼きつく。
 ああ、許されるなら。
 妻を殴ったあの日に戻り、彼女に尋ねたい。
 君があんなことをしたのは、私が嫌いだったからか、それとも榊が好きだったからなのか。いつから私たちは赤の他人に戻ってしまっていたのか。
 目を開ければ、小暮が怒りに満ちた顔で伊勢崎を見つめていた。この男も逮捕後に妻に離婚され、今は孤独のはずだった。互いに過ごした三年は質が違っているようだった。現実を受け入れた伊勢崎と、理不尽な逮捕劇に憤慨し、受け入れることができない小暮と。
「俺、もう一回やります」
 伊勢崎は知らず知らずのうちに哀れみを混めた視線を小暮に向けていた。
「だっておかしいじゃないですか。何年も談合を主導してきた笹沼の野郎が何のお咎めもなしで、あいつに従っていた俺たちだけが裁かれるなんて。俺は絶対許さない。証拠を掴んで絶対にあいつを刑務所に送ってやる」
 とりつかれたように焦点の合わない暗い目をして小暮は言った。
 もし俺が。と伊勢崎は思うときがある。
 もし俺が中途半端な正義感など振りかざさず過ごしていれば、彼女と今も生活していたのだろうか。笹沼の片棒を担ぎ続け、お役所仕事を続けていれば榊に裏切られることもなく。
 伊勢崎は開け放たれた窓の向こうの青空を眺めた。蝉の鳴く声が響き、近所の子供の笑い声が聞こえる。
 ふと新見のことを思い出した。
 そうか。今がなければ彼にも出会ってなかったのか。
 運命というのは奇妙なものだ、と伊勢崎は自嘲気味に微笑んだ。そして知らず知らずのうちに唇の隙間から笑い声が漏れる。その声は不気味で呻いているようにも泣いているようにも聞こえた。小暮は怒りを忘れて、目の前で俯いたままの伊勢崎を眉を潜めて眺めたのだった。

その日の同時刻。笹沼は丹波の家を訪れていた。豪奢なリビングルームのソファーに腰掛けて待っていると、ポロシャツを着たラフな格好の丹波が現れた。市長時代のスーツ姿とは違って随分温和に見えると笹沼は思う。
「いやいや、待たせたね。引退しても忙しなくていけない」
 快活に笑いながら笹沼の向かい側に丹波は腰掛ける。そんな元市長の姿に笑みを浮かべると、笹沼は手に持っていた桐の箱を渡した。
「住宅管理機構の特別顧問就任おめでとうございます」
「耳が早いねぇ。こういうのは困るんだよ」
 丹波がそう言いながらも箱を開けると、彼の大好物である果物が色艶よく並べられていた。
「いやぁ相変らず君はセンスがいい」
 お褒めいただいてどうも、と笹沼は微笑み、続けてスーツの内ポケットから御祝儀袋を取り出す。
「遅ればせながら悦子さんの再婚、おめでとうございます」
「そっちの方もずいぶん耳が早いようだね」
 先程とは違って苦虫を噛み潰したような顔をすると、笹沼の御祝儀袋を奪うように受け取った。そしてイライラと煙草を咥える。笹沼はそんな彼の態度が不思議でならなかった。自分の部下である榊という男は真面目で仕事もできる。外見こそ少し華やかさに掛けるが婿としては申し分ないはずだ。
「新婿に何かご不満でも?」
「不満?そりゃあ、前の婿に比べれば不満だよ」
「それは」と笹沼は絶句してしまった。「伊勢崎に比べると不足でしょうが」
「ほら、君だって思っているんだろう」
 二人の脳裏に一人の男が思い出された。
 市の建設部下水道課の課長職を勤めていた男のことである。建設部長の笹沼の部下であり、その豪腕ぶりは印象深い。しかし、官制談合事件の当事者として逮捕、起訴された。刑法、競売等妨害罪で懲役一年六ヶ月執行猶予三年の有罪判決を受けた男である。
 彼は当時市長であった丹波の娘、悦子と結婚していたが、その事件の後破局。談合事件は笹沼、丹波の責任問題にまで広がったが、丹波にとってその事件は過去のことであり今思い出されるのは伊勢崎が優秀だったという現実のみであるらしい。一方、笹沼にしてみれば正直伊勢崎のことを持ち出されるのは居心地が悪かった。実際のところ彼は談合問題に関しては他人事ではなかったからである。否、丹波にとってもそれは過去の出来事だと一蹴できるネタではないはずだった。
「市長、もうあの男のことの話題は」
 どこで話が漏れるか分からないと笹沼が露骨に警戒した顔をすると、丹波は不満そうに鼻を鳴らした。
「第一君が下手を打つからああいうことになったんだ。一体どれだけの損失だと思ってるのかね」
 思い出したように丹波は言って吸殻をガラスの灰皿に押し付けた。丹波にしてみれば、談合が明るみに出たのは痛手以外の何物でもなかった。それまで地元企業を優先し、多額のリベートを受けていた彼にとってみれば大いなる収益減だったからだ。
「第一アレがなくなって一体誰が得をするのかね。零細企業にもきちんと仕事が回るようにしてやったほうが、地域社会の貢献になると私は思っているんだがね。まともにやっては中央の奴らに仕事を取られるに決まっている」
 憤慨やりきれないという風に丹波の愚痴は止まらなかった。それを聞きながら笹沼は内心穏やかではなかった。彼は、検察の監視が今だ続いているのではないかと警戒しているのだった。どこで情報が漏れるか分からないのだ。
 長年繰り返されてきた下水道工事入札に関する談合は、伊勢崎が課長職についてからも変わらず行われてきた。しかしながら直属の上司である笹沼も気づかない程度の緩やかな変貌をとげていたのだ。それは最後まで気づかれず繭から成虫になるかと思われた。
 ところがそこで唯一異変に気づいた人物が現れる。同じ課に勤めていた榊である。
 彼は、丹波の娘、悦子に密かな恋心を抱いていて、伊勢崎の言動の揚げ足をとっては悦に入る傾向があった。そして彼の観察眼はついに大きな情報を掴む。伊勢崎と小暮が密かに官制談合の内部告発を画策していることを発見したのだ。当然、伊勢崎を失脚させる為に榊は丹波にその情報をリークした。談合にどっぷり関わっていた丹波と笹沼は慄き、対策を練った。笹沼は榊を使い書類の偽装、また丹波側では悦子を利用して書類をすり替えた。かくして彼らが関わっていた書類は処分され、伊勢崎と小暮が密かに計画していた告発チャンスは破綻する。最終的に公益通報者保護法を利用して告発を実行したのは榊であった。これにより彼には罪が及ばず、もちろん証拠がない丹波、笹沼も同様の立場となった。結局立件されたのは、伊勢崎と小暮の二名であったのだ。
 笹沼は今日の日付を思い出していた。あれから三年が経過し、伊勢崎の執行猶予期間が終了する日。

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