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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。

16.衝撃の事実

16-2/2

 ぞく、と寒気を覚えて笹沼は微かに震えた。伊勢崎と彼の部下である小暮が自分のことを恨んでいない保障はなかった。彼らはどこかでまた画策し、自分や丹波を貶めようとしているのではないかという不安は尽きない。榊は悦子のことがある限り丹波を裏切ったりはしないだろうが、自分のことは分からない。処分を頼んだ書類の控えをとっていた可能性がないわけでもない。
 笹沼は落ち着き無く視線を動かした。今まで彼は何十年と談合を繰り返し、丹波にへつらい、家庭を守ってきた。こんなところで逮捕などされたら家庭崩壊は確実である。なにせ、伊勢崎と小暮の例を間近に見ているだけに、明確な恐怖であった。天下り先で老後安泰な丹波とは違って自分は何の保障もないのだ。まだ息子娘は学生で、これから大学への学費も掛かる。
「市長、榊のことは」
 くれぐれもよろしくお願いします、と暗に告げると、丹波は「分かっている」と不愉快そうな顔をした。娘婿とはいえ、そんな爆弾を抱えるハメになったことが不快でたまらないのである。彼は今更ながらどうして伊勢崎を味方にできなかったのかと悔やんでいた。義父に従順に従うフリをしながら虎視眈々と告発を狙うその様は知的で冷静だ。味方であればこれほど心強い人間はいない。丹波は伊勢崎のことを憎んではいなかった。結果自分に罪が及んでいないことで寛大だったのだ。事実丹波の立場は何ら変わっていない。最後まで市長の椅子に座り続け、天下り先も決まっている。告発のせいで下水道の談合に関しては手を引かねばならず特別収入は減ったが、住宅管理機構に就任したことによって、まだ建設課での影響力は行使できる立場にあった。ほとぼりが冷めたころあいを見計らって、笹沼と二人で再開させるのは容易い。そうすれば、彼にとって何もかも元通りなのだ。
「で、件の伊勢崎くんは今何をしているって?」
 明るい展望を予想している丹波は二本目の煙草をつけて尋ねたが、笹沼は露骨に眉を潜めてしぶしぶ口を開いた。あれだけあの男の話をするなと言っても丹波には無駄らしい。
「噂によりますと、アパートを借りて一人暮らしらしいです。あの頃の勇姿が嘘のように落ちぶれているようですが、相変らず女性関係は派手なようですな」
 相変らず、と笹沼がわざわざ言ったのは、悦子と結婚している間も彼が大層モテていたことへの皮肉だ。実際には特別な関係にいたるような女性などいなかったのだが、言い寄る女性は数多だった。一際印象に残っているのは園田という女で、彼女は伊勢崎と言わず、庁舎内の男達にまるで夢魔の如く立ち回り、親しくなった人間から情報を得て利益を上げ続けている。情報に対する嗅覚は確かで引き際が見事。事業拡大の為に身体を使うことに何のためらいもない女性だった。かくいう笹沼と丹波も毒牙に掛かったクチであるが、笹沼の方は利用されたとは思っていない。なぜならこうして伊勢崎の情報を得ているのだから。
「聞いた話じゃ仕事を辞めてからというもののあの女がパトロンになっているとか」
 そうかね、と丹波は不機嫌そうにそう相槌を打つ。元娘婿が他の女性と親しいというのはやはり愉快なものではないらしい。これで伊勢崎に関心を持つのを控えて欲しいものだ、と笹沼は密かに思っていた。
 その後、二三仕事の話をして、笹沼は丹波邸を辞した。ふと、そういえば園田と最近連絡を取り合っていないことを思い出す。予想以上に早く丹波から解放されたことから笹沼の中に下心が芽生えた。久しぶりにあの女を抱くのもいいかもしれない。
 車に戻って携帯に掛けると、園田は珍しくすぐに電話に出た。情報をエサに夜に会う約束をし、何気なく彼は伊勢崎のその後を尋ねてしまった。
「さあ」
「さぁ?」と笹沼は思わず声を上げた。彼女が退職後の伊勢崎のパトロンとなったのは、何か有益なものがあってのこそだと思っていたのだが。
「いやだ、そんなんじゃありませんよ。利益性じゃなくて単に身体の相性がよかったから付き合っていただけですし」
 あまりにも露骨にそんなことを言うので、笹沼は鼻白んでしまった。まるで自分とは仕方なく付き合っていると言わんばかりで自尊心が傷ついた。
「そんなことよりも笹沼さん」と園田は声のニュアンスを変えて言う。「あの人と関わるの、やめたほうがいいんじゃないかしら」
 笹沼はぎくりとした。「なぜだい」
「あの人と別れたのは私からなんですけど、あの人なかなか私との縁を切りたがらなかったんです。私に惚れているなんて自惚れた時期もあったんですけど、今考えるとそんな単純なものではないような気がするの」
「つまり?」
「あの人、私があなたと関係があることを知っていたんじゃないかしら。私は身体目当てで付き合っていたけど、あの人はきっと私を情報目当てで、いえ、違うわね。彼にモデルの仕事を斡旋したのは私からだったわ。ごめんなさい惑わすようなことを言って。それにしても別れ際の言葉にはぎくりとしたわ。普段はこちらを気遣う余裕がある男が急に低い声で言い放ったんだもの。今でも忘れられない」
 笹沼には分かった。きっとあの男は、自分のことを棚上げにして園田の立場を気遣ったのだと。彼女が自分に近づいてきたのは、おそらく情報を得る為だろうと予想しながらも彼は受け入れた。もしかしたら多少の情報のやり取りもあったのかもしれない。しかし、彼女は予想外に別れを告げる。自分と別れることで、情報屋としての立場が危うくなるのではないかと彼女に警告したのだ。
 笹沼がそう園田に告げると、彼女は少し考えるように沈黙した後笑った。
「ふふ。今となっては分からないし、知る必要もないことだけれど。あの人がどういうつもりで私と付き合っていたかなんて。ああ、そうそう。あの人の話題になったからついでにもう少しだけ。私がモデル業を斡旋してから、あの人色んなコと関係をもっているって以前お話しましたわね。それこそあなたの娘さんぐらいの年齢のコとか」
 笹沼は一瞬にして眉を潜める。ただの誹謗中傷ではないと分かっているので不愉快な話題であるが、続きを待つ。
「その後、ちょっとモデルのコと親しくなったので探りを入れたんですけど、売春というよりは買春と表現した方がいいお付き合いみたいでしたわ。幼少時代に色々あってモデルをしている子もいるらしくて、都合よく父親代わりになってくれる人が現れたというところかしら。金銭に関してはモデルの子が払って、あの人を父親として拘束する。・・・まあ、噂ですから、肉体関係があったかなかったかなんて、本人達にしか分からないことでしょうけど」
「それだけかね」
 伊勢崎が少女趣味ではないことが分かったところで何の足しにもならないと思っていると、話はまだ続くらしい。
「実は、あの人と関係を持っている女の子たちは十名弱いるようなんですけど、不思議な共通項があるの。誕生日になると、プレゼントのほかに一枚の封筒を渡してくるんですって」
「封筒?」
「そう。懇意にしているコから相談されて調べたんだけど、どうやらそれは書類の一部らしくって」
 笹沼の血の気が一気に下がった。園田はそんな彼の様子を知ってか知らずか淡々と話を続けた。
「渡す時、あの人こういったそうよ。
『この封筒を預かってくれないか。ずっととっておいても、なくしても構わないから。私の手元にはないほうがいいものなんだ』
 ねえ、笹沼さん。伊勢崎という人は賢いのか愚かなのか分かりませんわね。あなた方が談合で得た利益に関する書類を持ち合わせながら、検察に提出することなく、無関係な女の子に預けているのですもの。これは何を意味すると思いますか?いつでも制裁を与えられるという誇示かしら。それとも逃げかしら。私には分からないわ。ずっと上司だったあなたにはきっとお分かりなんでしょうね」

 一つ、ちりんと風鈴が鳴った。
 小暮が伊勢崎の家を辞してから一時間が経った。彼は真っ暗な部屋でいつも通り窓枠に腰掛けて外側に片足を垂らすと、煙草を吸っていた。
 三年ぶりに会う小暮は、以前の彼よりも執着心が強い男になっていた。笹沼と丹波、榊への恨みを淡々と告げ、伊勢崎にも協力するようにと説得を繰り返した。結局、温度差を実感したのか憮然とした表情で小暮は帰って行ったのだが。
 伊勢崎は思う。もし、丹波らを追及する書類を自分がまだ隠し持っていると知ったら、小暮はどうしただろうかと。彼なら意気揚々と検事の元に行き、立件の準備に動くかもしれない。彼は慎重とは無縁の男で直情的だ。そう考えると、今、書類が手元になくて正解だったかもしれない。万が一のことを考えて唯一別の場所に保管していたその書類には、丹波と笹沼が談合によって得た収益のことが記されていた。しかし、伊勢崎は最後まで公にすることを迷っていたのだ。義父である丹波を贈収賄事件で告発すれば二重の罪となる。ただでさえ逮捕となれば悦子にはショックだろうに、追い討ちを掛けることになりはしないか。
 そしてその迷いは、彼女に裏切られた今なお続いている。書類を手放せないのはそのせいだった。
 自嘲して伊勢崎は灰を窓の外へ飛ばした。
 街灯だけが地面を照らし、奥の道は真っ暗で闇に染まっていた。空は今日もスモッグのせいで星すら拝めず、彼は複雑な面持ちで外を眺めていた。ふと、奥の闇からギターケースを抱えた青年が姿を現す。金髪の猫背気味の若者を発見して、伊勢崎は「よお」と手を上げた。
 川村は窓際に腰掛ける伊勢崎に気づいたらしかったが、顔を上げるとすぐに眉を潜めたらしかった。そして足早にその場を通り過ぎていった。
 やれやれ、と伊勢崎は思ったが、昼間のことを思い出し、今日は仕方がないかと苦笑しながら煙草の煙を吐いた。
 しばらくして。
 どんどんと乱暴に玄関のドアが叩かれた。忙しないその音にすぐに川村だと気づく。
「開いてるぞぉ」
 のんびりとした声で伊勢崎が返すと、川村が腹立たしげに部屋に飛び込んできた。その剣幕に伊勢崎は慄き目を丸くする。
「ど、どうした?」
「どうしたじゃないよ!」
 川村は息を切らせたまま部屋の中央で仁王立ちすると、電気をつけた。急に明るくなった室内に伊勢崎が目を細めていると、川村は突然コンビニのビニール袋を差し出してきた。
「何それ」
「ビールだよ!こんな時間に部屋の電気も点けないで何やってんの!」
 伊勢崎はぽかんと口を開けたまま川村を見上げた。目の前の青年は眉を寄せてこちらを見ていた。どうやら彼は自分を心配してくれたらしい。不器用なその愛情が有り難かった。
 ビールを受け取って、手のひらでその冷たさを堪能する。窓の外の暗闇に比べて、この部屋の何と明るいことか。
 ああ。と伊勢崎は思わず片手で目を覆った。
 頭の中に巣くっていた過去の出来事がゆっくりと融解してゆく。俺は解放されたかったのではないか。自分が仕掛けたこの戦いに。
「イセさん。どうかした?泣いてんの?」
 乱暴だった口調を和らげて川村がかけてくる声を聞きながら伊勢崎は呟いた。「違う」
「ただ、疲れただけだ」

読了ありがとうございます!

硬い過去に付き合っていただきありがとうございます。事件の内容の細かい点については多分間違いがある気がします。なにせ専門家ではないもので。
ちなみに参考資料として、官製談合の主な事例と防止策公益通報者保護法(wikipedia)から情報をいただいておりますが、当然のことながら当小説とは全く関係ありません。

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