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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。
顔に白い布を掛けられた父の遺体を目の前にして新見の思考は停止していた。十年以上前まで一緒に暮らしていた父の印象といえば、自分を怒鳴りつけるか殴りつけるか、鬱陶しそうな顔をするかだった。
「穏やかな顔しているでしょう?」
新見の義母である汀子がそう告げた時も新見の耳に届いたかどうかは疑問で、事実彼は瞬きもせずに父を凝視したままだった。
目の前の父は寝ているかのようだった。鼻に白い詰め物がされて白い衣装を着て、髪も整えられていて。
死とは。
きっと触れたら体温など感じず冷たいのだろうと頭の端で理解はしていても、もし本当に冷たかったらどうしたらよいのかと矛盾したことが頭を駆け巡り、触れることすら憚られた。それは恐怖に似た何かであり、神聖な何かであるかのようだった。
汀子がそんな新見の様子を眺めて、理解したようにそっと顔の布を再び父の顔に掛ける。呪縛が解けたように新見は瞬きをし、隣の汀子と視線を合わせた。
「遠いところ疲れたでしょう。少しおやすみになったら?」
汀子という女性はいつも父の後ろで控えめに立っているような人だったのだが、今日の彼女は喪主で多忙であるのか、はたまた突然の夫の死に頭がついていっていないのか、ひどく冷静だった。
呆然としたまま部屋の隅で新見は膝を抱えていた。彼には兄弟はいなく、しかも勘当されてから十年ぶりの実家だった。座っている畳も懐かしいを通り越して落ち着かなく、家の空気も彼には馴染めなかった。
汀子は喪主として精力的に動いていた。傍らには、父の弟である真咲が付き添っていた。相変らずの痩せた体で、白い顔、神経質そうな瞳を抱えている。少し整えられた髪には白髪がまじっていて、十年という年月を表わしていた。
ふと新見は真咲と目が合った。
久しぶりだったので、新見が軽く会釈をすると、彼は相変らずの弱々しくも優しい笑顔を湛えた。
少し頬がこけただろうか。そんな感想を持つ。
そして、父から勘当される原因となった真咲に対して拒絶感を抱けない自分に、内心呆れてしまったのだった。
その日の夜は、父の隣に汀子が付き添い、客室で真咲と親戚数名が床についた。新見といえば、十年前まで自分の部屋であった二階の部屋に案内された。勉強机とカーテン、壁紙は以前のままだが、その他は違う様相を呈していた。相変らずの居心地の悪さを感じながらも、畳の上に敷かれた布団の上に新見は正座していた。
暗闇の中、電気もつけず。
明日が本通夜であったが、自宅葬ではなく、葬祭会館にて行われる。父が静かにこの家にいられるのもあとわずかだということである。
新見は目を閉じる。
思い出されるのは父の怒った顔ばかりだった。思えば母と離婚してから、否、彼女と生活している間でも父の自分を見る目は冷たく蔑んでいたように思う。しかし、ある年齢までは構ってくれてはいた。鬱陶しそうな顔をしながらも父として。
「男だったらイジメにあったぐらいで泣いて帰ってくるな。相手を殴り返すぐらいの甲斐性がなくてどうする」
はい、父さん。
「なよなよするな。顎を引いて背筋を伸ばせ」
はい、父さん。
「箸ぐらい正しく持て。食事中にテレビを見るな。正座して食べろ」
はい、父さん。
父は証券会社に勤めるサラリーマンだったが、細い体の中に凛とした芯みたいなものが一本通っていて、常に尊敬に値する人物だった。当時の自分はそんな父に認められたくて一生懸命だった。食事中足が痺れても我慢し、箸の持ち方も直した。巷で話題だったテレビ番組も見なかった。もし父に見つかって怒られたらと思うと恐怖だったから。色んなことに失敗しては父にぶたれて、でもそれは自分が悪いのだと責め立てる毎日が続いた。
いつか、父に褒められる為に。
*
「玲くん」
新見はそう呼ばれて振り返った。目の前には同級生の女生徒がいた。
「あのね、いつも思っていたんだけど」
彼女は新見の顔をちらちら見ながら、さりとて俯いたままぼそぼそと言った。
学校の廊下には二人だけで、他の生徒は皆下校してしまったようだった。日は傾いていたが、燦燦とガラスを通して二人を照らしていた。
夏だった。
「ねぇ、家で何かあるんじゃない?」
キーン、と新見の耳に耳鳴りが響いたように感じたが、それは空耳で、実際には甲高い蝉の鳴き声が響いているだけだった。彼が目を向けると、なるほど廊下の一つの窓が開いていて、近くに大きな木が緑色の葉を湛えて風に揺れている。
新見の目の前の女生徒は、彼の視線が自分を通り越していることに気づいて後ろを見る。そして何もないことを確認すると、もう一度向き合った。
「ね、先生に相談しよ?」
新見の視線は窓の外の木から外れなかった。彼の頭の中には「何を言っているんだろう」という疑問符。
「だっておかしいよ。いつも左の頬、ちょっと腫れてるでしょ?体育の授業で着替えるときも玲くんの身体、アザだらけだって」
ああ、と新見はようやく目の前の女生徒の言わんとしている事が理解できた。いつもの何の足しにもならない薄っぺらい同情だ。
左頬にある熱。違和感のある耳の奥。この痛みこそが己の過ちを反省させる。痛みが消える頃には自分は一つ成長する。それが分からないらしい。
「これは僕が悪いんだ。ごめんね、心配かけて」
新見は愛想笑いを浮かべると話を打ち切った。これ以上発展させる必要もなかった。同級生に同情される姿など何とみっともないことか。父に知れたら、また「情けない」と一喝されてしまう。
新見は気を引き締めると、凛とした面持ちで女生徒の隣を通り過ぎた。左頬の腫れは仕方がないにしても身体の痣についてはもう少し考える必要があると思った。着替える時に目立たないようにしていたつもりだったのだが、それでも分かる人間には分かるらしい。
これからはトイレだな。と新見は少しため息を付いた。周りさえ騒がなければ、こうやってトイレで着替えるようなこともなく、平和な毎日を過ごせるというのに。おそらく高校に進学すれば何かが変わるはずだと彼は期待する。義務教育だから皆世話を焼きたがるに違いない。
そんな風に彼は思っていた。
ところが周りの視線というのは予想以上に厳しく、厄介なものであったらしい。
数週間が経過したある日、新見は父に呼び出された。居間ではなく和室に呼ばれたことで彼は説教だと理解した。いつも通り襖越しに声を掛けて、畳に正座をする。
目の前の父は立ったまま。
「お前、私が殴るのを虐待だと思っているのか」
座った途端、そう頭上から声を掛けられた。新見が顔を上げると怒りに満ちたような顔にぶつかる。無意識に声が震えた。
「いえ」
「嘘をつけ。今日お前の担任と児童相談所のやつらが雁首揃えて家に来たぞ。お前が言ったからじゃないのか」
新見は「いえ」と再び言った。頭の中は恐怖心でいっぱいになった。殴られる恐怖、嫌われる恐怖、軽蔑される恐怖。それらが重なって真っ黒になった恐怖。
「嘘をつくんじゃない」
上から髪を?まれる。強制的にあげられた顔に容赦ない平手打ち。
「ごめんなさい」
言ってなどいないけれど、同級生に痣がばれたのがきっといけなかった。もっと慎重に行動していればこんなことにならなかった。父に殴られることもなかったし、誤解されることもなかった。
全部僕が悪い。
新見は父親に何度も殴られ、蹴飛ばされた。それは飽きるまで続く。しばらくすると頭の中では早く終わらないかなと思ってしまう。痛みとは間逆に冷静である己に嘲笑しくなる。
父の剣幕がようやく納まり、彼が部屋を出て行くと、新見は倒れこんだ古畳の目を眺めていた。そしてちょっと手で触って、い草を引っ張る。無意識だった。
あ、早く出て行かないと。
ようやく頭がはっきりしてきて新見は上体を起こした。座卓の向こうにある窓から赤い夕日が見えた。きれいだと思った。
口の中が切れたらしい。と新見は思いながらもふらふらと襖を開けた。父は殴り終わると、居間に向かって茶を飲むか風呂に入るかする。新見は廊下の壁に身体を傾けて、ずるずると重い足を引きずりながら階段に向った。部屋に戻ろう。勉強しないと成績がさがる。
時折彼は思う。
間違っているのは自分ではなく、父ではないかと。
しかしその次の瞬間、新見は己の弱さにウンザリする。逃げてどうする。責任転嫁してどうする。もしそうするにしても自分が精一杯やってからすべきではないのか。まだ甘えているんじゃないのか。努力すべき点はまだまだあるんじゃないのか。
そう、いつか認めてもらうんだ。父に。
お前はよくやった、と。
翌日、新見は担任の下へ直談判に行った。授業が始まる二時間前の職員室の前で来るのを待った。担任である佐伯が来たのは彼が待ち続けて十五分たった頃で、廊下に立つ青白い顔をした新見に驚いているようだった。
「先生、お話があるんですが」
新見の真剣な声と暗い目に鬼気迫るものがあったのか、佐伯は唾を飲み込むと生徒指導室に新見を案内した。
「昨日の件だな」
佐伯がそう切り出すと、新見は頷き、自分の考えを彼に告げた。堰を切ったように流れ出た。父を責める内容ではなく、庇う内容を。
そんな新見の言葉に佐伯は絶句し、そしてやりきれない顔をした。虐待をされているのに彼は被害者であることに気づいていないのである。まずはそれを理解させないと、と佐伯がやんわりと新見に言うと、逆に彼は悲鳴のような声を上げた。
「だったら僕が強くなる方法を教えてください。父に認められるにはどうしたらいいのか教えてください。できないのなら、父を責めるのをやめてください。何も知らない癖に分かったような口をきくのはやめてください!」
新見の叫びは間違いなく本心であり、救いを求める悲鳴だった。彼にとって父は絶対だった。強くて凛々しくて逞しい。それに引き換え自分のこの姿はどうだ。弱々しくて女みたいになよなよしている。殴られる度に痛くて辛くて逃げ出したくなる。弱い。何て情けない。
「僕は父のようになりたいんだ!」
焦点の合っていない目でそう堂々と宣言した新見を佐伯は怖々とした目で眺めた。それは純粋であり狂った姿だった。佐伯はこの目の前の少年が、もう自分には手におえないレベルにまで行ってしまったと思った。教育者として未熟である彼は、伸ばしかけた手を静かに下ろしたのだった。
それからというものの佐伯の新見に対する干渉は極端に少なくなった。学校で余計な神経を使わない分彼にとっては楽な一年を過ごす。この頃、父雄介も今の妻である汀子との出会い、精神的にもかなり安定していた。このタイミングは実に新見にとって幸運で、おかげで有名進学校への合格をもぎ取る。合格を聞いた雄介は大層喜び、新見にとって印象深く記憶に残った。
入学式にも雄介は自ら車を運転し、新見を学校に送り届けた。制服であるブレザーのネクタイが締めれない新見に対しても快く結び方を教えた。
常に顔がほころんでいる父の姿を見て、新見は心の底から喜びを感じた。ようやく実感した愛情をかみ締めるように毎日を過ごした。彼は楽観的ではなかったので、この幸福が長く続かないことは理解していた。だからこそしがみ付いた。この毎日をずっと覚えていようと祈るように眠った。
実際汀子がいつ雄介と再婚したのか、新見は分かっていない。気づけば彼女は家の片隅にいたというのが本音であった。
新見の実の母親は、水商売をしている女性で常に華のある女だった。離婚してから父は特に荒れたので、おそらく母のせいで自分は殴られていると新見は暗い憎悪を腹に宿らせることがよくあった。洗面台の鏡にうつる母と瓜二つな顔を見ながら、あの女のせいでこんな顔で、あの女のせいで父に殴られ、あの女のせいで。
「玲さん」
背中から声を掛けられて新見は振り返ると、いつの間にか汀子が後ろに立っていた。全然気づかなかったと彼は内心動揺した。それにしても地味な女性だと思う。顔も平坦で特徴がない。
「ご飯できましたよ」
「はい」
新見が愛想笑いを浮かべると、汀子は「早くいらしてね」と笑顔でその場を辞して行った。彼女は幸せそうだと思う。そして父も。相変らずの仏頂面の中にも愛情を感じる。今まではそれすらも探して探して、ようやく破片を見つけるくらいだったのに。
「僕は最低だ」
新見は顔を覆った。自分は汀子に嫉妬している。あの女より僕の方がずっと父と一緒にいるのにあんなに易々と父の側に立って。
「くそっ!」
中学時代とは違ったストレスで新見は苛立つと、洗面所に置かれていたものを力任せに横に払い落とした。床に落ちたプラスチックのコップは大きな音を立ててその身にヒビを入れた。
まるで自分の行為に傷ついた新見自身のように。