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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。

17.見詰め合った時

17-2/2

 新見はそんな自分の弱さを直すべく、高校時代は空手部に入部した。肉体的に強くなることで精神的にも鍛えようとしたのである。そうすればきっと汀子に嫉妬などすることもなく、周りにいらぬ同情を受けることもなくなるはずだ。その努力のかいがあってか高校三年になったとき、雄介の暴力はなくなった。一年の時から段々と少なくなってはいたが、三年の冬、ついに全くなくなった。
 最初はようやく父に認められたんだ、と喜んでいた新見だったが、次第に彼は別な可能性について憂慮することになる。ある日彼は食卓を共にしていて気づいた。
 父の目に僕は映っていない。
 どういうことだ、と彼は悩んだ。今までは暴力を受けながらも父の関心を受けている手ごたえがあった。しかし今はどうだ。まるで空気のようではないか。
 父は黙々と文句も言わずに汀子の食事を咀嚼し、彼女は黙って渡される茶碗におかわりの飯を盛る。彼らには繋がりがある。言葉はなくても会話がある。
 食事中の私語は禁止されている。まさか話しかけて無視されることはないだろうが、と新見は考えて箸を持つ手が震えた。
 もしされたらどうする。
 新見には試す度胸がなかった。どうしてこんなことになったのだ。強くなれば父から褒められて、認められるのではなかったのか。
 新見は分からなくなった。しかし周りに弱さを見せることはできなくなっていた。それゆえに学生としての彼は強く美しく、誰からも羨望の眼差しを受ける立場になっていた。
 そんな彼を眩しく感じていたのは何も学生ばかりではない。雄介の弟である真咲も新見の変化に目を細めていた。彼は画家であったが、絵だけで生活できるほど有名ではなかった。生活費がなくなると、雄介のもとを訪れては金をせびるのを繰り返すような男だった。しかし雄介自身は真咲の才能を高くかっていて弟に大層甘く、この日も三年ぶりに現れた真咲に対して笑顔で出迎え酒宴を開いた。昔話に花を咲かせて一泊していくのが叔父の通例で、翌朝には酒の席で巻き上げた金を持って行方をくらますのが常だった。
 真咲は雄介とは違って病的なほど色白で、繊細そうな外見をしていた。一度彼の絵を新見は見たことがあるが、風景画一つとっても細かく描写していて息苦しく、好きにはなれない作風だった。
「玲は強いな」
 ふと真咲にそう言われたのは、新見がこの叔父の為にいつも通り和室に寝具を準備していた時だった。雄介はこの時もう就寝していて、汀子はどこかに外出していて不在だった。彼女は夜中にいなくなることが度々あった。
「僕は強くなんかありませんよ」
 自嘲気味に新見は笑い、シーツを手に取った。真咲は逆側の端を持って引っ張ってくれる。
「随分会わないうちに逞しくなった」
 布団に対して対角線上に立って互いにピンとシーツを引っ張り合う間、彼は新見から視線を外さなかった。
「変わることが怖くないのか?」
 怖い?新見はこの言葉を不思議に思った。彼にとっては変化こそ未来への鍵だったからである。
「僕はむしろ変わりたい」
 自分に向けての決意であるかのように新見は言い、シーツの端を敷き布団の下に織り込んだ。
 そう、変わって認めてもらわねばならぬのだ。自分はまだ何か至らぬ点があるに違いない。それさえ直せば父は認めてくれるはずだ。高校に合格した時のように自分を見て、笑ってくれて、優しく、温かく。
「玲」
 新見ははっと顔を上げた。隣には先程まで向こう側にいたはずの真咲がいてこちらを見つめていた。
「やっぱりお前は強い」
 叔父の瞳には鈍い光が宿っていて、きっとあの息苦しい絵を描く時はこんな顔をしているのではないかと新見は思う。
 ああ、この人の絵が息苦しいのは妥協がないからだと思っていたのだけれど。
「お前も私を置いてゆくのだな」
 叔父の絵にある対象は全てが美しい。角度、色合い、全てが完璧で。それは散りゆく可能性がない造花の如く。
「叔父さ、」
 喉の奥から出た言葉は霧消してしまう。真咲の瞳の色はいつもにも増して暗く、濃かった。
肩をつかまれて布団に押し倒された時に新見は恐ろしくなった。
「こんなに筋肉をつけて・・・お前には似合わないよ」
 肌を撫でる冷たい震えた指。変化を否定する棘のある言葉。新見は上体を起こそうとしたが肩の一点を押さえ込まれていて動けない。真咲の筋張った腕に筋力など皆無であるはずなのに。
 焦りばかりが先走り、新見はこの時学校で習った体術の一切を忘れた。ただ子供のように足をバタつかせて顔を引きつらせた。
 怖い。
 新見は思わず客間の隣にある父の部屋に向かって手を伸ばした。部屋のドアまでなんと遠い。
 声を出せば、きっと廊下の向こうの父の耳に入るはずだと分かっている。しかし分かっているが故に声がでない。弱虫だと罵られるのが怖い。
 真咲の指は嘗め回すように身体を蹂躙する。太ももの付け根を撫で回して、深い一点に触れてくる。
「ひっ」
 新見の全身に悪寒が走った。胃から逆流する吐気。思わず口を手で押さえると、つんと鼻の奥が痛くなる。目頭が熱くなる。
 恐怖で震えるというのを新見はその時初めて経験した。叔父の腕を掴んで押し返そうとするがびくともしない。電灯を背後に受けてこちらを見下ろす虹彩に怯えた顔が映っていた。その顔は記憶にある母とそっくりで。
 喉の奥からひり付く様な悲鳴が駆け上がってきた時、部屋の襖が乱暴に開けられた。
 雄介がそこにいた。
「た、」
 助けてと新見は言いたかった。自分は被害者で父は自分を抱きしめて救ってくれると信じていた。
 しかし現実には、雄介は馬乗りになった真咲の後ろ襟を掴んで二人を引き離すと、新見の髪を鷲づかみにして頬を平手打ちした。
「この売女が!」
 どんとそのまま布団に叩きつけられて新見は呆然と天井を眺めた。視界の端では尻餅をついた真咲がいて、雄介は怒りで息を乱しながらこちらを見下ろしていた。
「に、兄さん」
 真咲が弱々しく雄介に言い訳をしようと声を出すと、雄介は先手を打って「お前は居間で休みなさい」と低音を発した。
 新見のまなじりから静かに涙が流れた。彼のシャツはめくり上げられ肌が露になり、下半身も乱れていた。そんな姿を軽蔑の篭った眼差しで雄介は一瞥すると、何も言わずにその場を立ち去って行った。しんとした空気が耳に痛かった。新見はようやく父の目に自分が映った瞬間に軽蔑されたことに絶望した。
 涙と吐瀉物の混じった鼻水が出て、頭も、?まれた肩も、なにより胸が痛かった。
「ぅ、ぅ、」
 しゃっくりに似た嗚咽が出てきた。新見は人生で初めて声を上げて泣いた。走馬灯のように色んなことが頭に浮かんでは真っ黒になっていった。自分が存在する意味が分からなかった。
   *
 ドアを静かにノックする音で新見は我に返った。暗闇の向こうのドアの隙間から細く糸のような光が差し込んできた。
「玲?起きてるか?」
 廊下の明かりの向こうに叔父である真咲が顔を覗かせていた。「ちょっといいかな」
 新見は腰を上げると、頭上の明かりをつけた。眩しくて目を細めながら「どうぞ」とドアを開けてやる。真咲は疲れた微笑を湛えたまま部屋に足を踏み入れた。
 新見が真咲に会うのもあの一件以来十年ぶりだった。昔も神経質で暗い印象だったが、今も大して変わっていない。年をとって出来た白髪と顔の皺でやつれた印象を受ける。
「急なことで驚いたろう?」
 真咲は新見が正座していた布団の向かいに座るとそう口を開いた。
 父雄介の訃報を聞いた時、新見はまさかと思った。正直おおよそ病気などというものに縁のない人だと思っていたからである。だが実際には肝臓癌に蝕まれていたらしく、汀子によると十年前のあの頃には肝硬変で苦しんでいたという。入退院を繰り返していたのはここ数ヶ月だったが、予定より早くあっさりと逝ってしまったと彼女は淋しそうに言っていたのだった。
「全然知らなかったのかい?」
「ええ。就職して汀子さんから何回か連絡を貰っていたんですが、僕が断ったんです。父に見つかれば迷惑をかけるから連絡してこないでくれって」
 新見は気づいていた。汀子の身体にも痣がある。それは自分と同じような理由でついたものだということも。自分は父に勘当されることで免れていたが、彼女は最近まで制裁を受けていたものと思われた。あの暴力を彼女は最期まで耐え抜いたのだ。
「強い方ですよ」
 新見が独り言のようにぼそりというと、真咲は分かっているのかいないのか「そうだね」と相槌を打った。
「でもね玲。汀子さんも急に兄さんを亡くして淋しいだろうし、今は気を張っているだけで本当は心細いと思うよ。強そうに見えるけど誰かが側にいてあげなきゃ」
 真咲は視線を下げたまま穏やかに言葉を綴った。「この葬儀が終わっても私はしばらくここにいるよ」
「え?」と新見は眉を潜めた。
 君はいてやれないだろう?と告げた真咲の言葉はもっともらしかったが新見にはわだかまりがあった。少し視線を落として物思いに耽る叔父を見る限り、あのことが幻のように思えてくるが、この温厚な男が変貌する姿を新見は知っている。鈍い光を宿した瞳。肩を圧迫するその細い筋肉。
 ぞっとした。
「玲?」
「触らないでくれ!」
 どうしたのかと指を伸ばした真咲に対して新見は思わず悲鳴を上げた。びくっと身体を硬直させた叔父はやるせないような表情をした。しまったと新見は口を閉じたが、そういえばあの時も叔父はこんな被害者面をしていたことを思い出した。金を借りに来る時も、自分の恥部に触れた時も。
「最初からこうやって突き放せばよかった」
 新見の口から本人が驚く程の険悪な声が出た。今まで自分と叔父はどこか似た弱さがあると思っていた。それは父に対するコンプレックスであり、だからこそ彼を否定できなかった。
 しかし今は。
「叔父さん、申し訳ありませんが葬儀が終わったらこの家を出て行って二度と来ないでいただきたい」
「な」
 真咲は新見の冷たい視線を受けて絶句してしまった。彼の中での甥はこんな目つきをする人間ではなかった。女性のように優しい容姿で人の痛みを理解できる少年だった。けれど。
「あなたにはうんざりなんですよ。どうせまた金がないんでしょう?父が死んで汀子さんにつけ込んで金をせびる気でしょうがそうはいきません。もうあなたの好きなようにはさせやしない」
「なんてことを。お前は私をそんな風にみていたのか?」
 真咲は傷ついた顔をしたが新見は眉間に皺を寄せて唇を力強く結んだ。酷いことを言っている自覚が彼にはあった。しかし彼は言葉を止めることができなかったのだ。ずっとあったわだかまりが爆発してしまった。何度も父から金を借りて行方をくらませて、毎回毎回会うたびに被害者顔で弱々しく鬱陶しい。怯えるように自分の肌に触れて、まるで現実から逃避するように必死で。冷たい指の感触。鈍い光を宿した瞳。自分を押さえ込む細い腕。
 虹彩に映った被害者面をした自分。
「僕は一生あなたを許さない」
 その時の新見の顔は泣き顔のように崩れていた。彼は気づいてしまった。

 あの時二人が見ていたのは「僕」ではない。

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