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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。

18.大切な人

18-1/2

 新見は車の緩やかな振動で目が覚めた。フロントガラスの向こうは暗闇で雨粒が激しく音をたてている。ぼんやりとした頭で視線を下げると、ネクタイを締めて上着を羽織っていた。
 ああ、そうだ。今日は入学式だった。
 その証拠に隣の運転席には父が座っている。黒いスーツで眼鏡をして眉間に皺を寄せている。ハンドルを握る左手の薬指に銀色の指輪が光っていた。
 汀子さんとの指輪かな。新見は霞が掛かったような意識の中そう思う。
「起きたのか?」こちらを見ずに父が言う。
「まだ着くまでに時間がある。寝てていいぞ」
「うん」
 思わずそう返事をすると、ぴくりと父の片眉が上がった。しまった、と新見は顔を強張らせて言いなおした。「はい」
 しばらく妙な空気が漂っていて居心地が悪かった。ずっと締め付けている慣れないネクタイのせいで息苦しい。
 それにしても。と新見は窓の外を眺めた。
 嫌な夢を見た。父の葬式の夢はやけにリアルで気分が悪い。焼却のときに立ち上った白い煙。灰に混じった白い遺骨。
 ぞくっと寒気がして両腕を抱くと、隣から「どうした?」と声が掛かった。
「寒いのか?冷房が効きすぎているのかもな」
 そう言って左手が前面の操作パネルに伸びてきた。骨ばった指。長く細い。この指が骨となって白く、石灰のような物体になるのか。そう思うと、新見は不思議な気分になった。死と焼却後の骨の姿がどうしてもイコールとして結びつかない。やはり突飛な夢を見たのかと視線を下げた。
 左耳の奥が痛い。ずっと耳鳴りが続いている。初めて殴られた時に風船が割れるような音がしたが、もしかしたら鼓膜が破れたのかもしれない。鼓膜は再生されるというけれど、あれ以来どこか調子が悪いのは事実だ。痣は日に日に薄くなり、痛みもなくなるけどこの不快感だけは何年たっても自分を苦しめる。
 父はどんな思いで自分を殴っていたのだろうか。教育?憂さ晴らし?それでも生きていて欲しかった。
 あれ、と新見は混乱した。死んだのは夢じゃないか。父はこうして隣にいるのだから。
 どうかしてる。新見は小さく笑うと、運転席に再び目を向けた。そして言わねばならぬ言葉を呟いた。
「父さん」
 呼びかけに父は小さく肩を揺らした後、「なんだ?」と返事をした。
「長生きしてください」
 そう、これが言いたかった。夢のように死んでしまって欲しくない。一時でも長く生きて欲しい。
 左手が新見の頭に伸びてきて、ぽんと優しく撫でられる。顔は相変らず前を向いて運転に集中していたけれど、声は穏やかに。
「着いたら起こすから、寝なさい」
「うん」
 新見は目を閉じる。ああ、しまった、またうんと返事をしてしまった。でも今日の父はとても優しい。普段ならこんな言葉遣い許されはしない。
 甘えていいだろうか。たった一日でもこうして触れてくれることを喜んでいいだろうか。
 できれば、この幸福がずっと続けばいいと思う。殴られないように勉強も運動も頑張れば、父はきっと今日みたいに僕を・・・。

「新見」
 苛立ったような声と肩を揺さぶられる振動で新見は目を開けた。目の前には上條が眉間に皺を寄せていてこちらを見ていた。
「課長?」
「よくもまあグウスカ寝ていられるものだな。そんなに疲れたのかね」
 新見は状況を飲み込むのに時間が掛かった。
 そうだ、今は出張中だった。
 瞬時にして記憶が蘇る。父の葬儀で忌引きをとって一ヶ月後、地方の営業先に上條と共に挨拶まわりをしている途中であった。ようやく最後の企業を終えたが、予定より時間がおしてしまい、本日一泊してから朝一で帰社することになったのだった。
 運転も新見と上條が交互にしていたはずで、今彼が愚痴を言っているのは、おそらく後半は居眠りが過ぎてずっと彼が運転する羽目になったことの嫌味であった。
「ど、どうもすみませんでした。明日は私が運転しますので」
 新見が冷や汗を流しながら詫びると、ふんと鼻を鳴らされる。
「当たり前だ」
 上條は不愉快そうな顔をしたまま運転席から後部座席へと身体を傾ける。後ろの荷物など降りてからとればいいものを、と新見がその窮屈そうな行動に呆れていたが、耳にはそういえば強い雨脚の音が響いていた。
 そこで思い出した。
 自分は先程まで夢を見ていた気がする。父の運転する車の助手席にいて、父に長生きするように告げた気がする。
 まさか。
「あ、あの、課長?」
「なんだね?」
 後ろの座席から自分の書類鞄と新見の鞄を手にとって上條は運転席に座りなおしていた。彼は鞄から折りたたみ傘を取り出している。
「あの、私、寝ている間に何か言いましたか?」
 新見が恐る恐る尋ねると、上條はちらりと視線だけ動かした。そしてふぅとため息一つ。
「寝言どころか鼾をかいていたよ。君、女性の前では寝ない方がいいぞ。きっと幻滅される」
 え、と新見が思わず口を押さえると、上條は「さあ行くぞ」と車のドアを開けた。ざあと激しい雨音が響き、彼は折り畳み傘を広げて外に出て行ってしまった。新見も慌てて後を追おうとドアを開ける。すると、運転席から回り込んだ上條が傘を広げて待ち構えていた。
「あ、ありがとうございます」
 ほらと渡された自分の鞄を手にとって、二人で小さい蝙蝠傘で雨をしのぐ。夏だというのに気温が下がって雨は冷たく、新見が思わず傘の中央へ身体を寄せると上條がぐいと背中を抱いた。
 初めて感じた細い筋肉に新見はどきっとしたが、上條はさっさと目的地にたどり着きたいのか「走るぞ」と言い出して抱き合うようにして二人で雨の中を駆け抜ける羽目になった。
 この時、新見は起き際だったのと周りが暗かったので気づかなかったが、先程までいたのはどうやらビジネスホテルの駐車場だったらしい。ホテルのロビーに到着した時には、上條の方はびっしょりと濡れていて傘をさした意味がないほどだった。
「君のせいでびしょ濡れだ」
 そんな風に嫌味を一つ言って上條は肩の水滴を払った。眼鏡をとってハンカチで拭く。
 細面の顔。一重の瞼。高い鼻。薄い唇。眼鏡がない上條の顔を見たのは新見は初めてで、思わず見詰めてしまった。
「なに見てる?」
 眼鏡を掛けなおして不愉快そうに聞いてきた上條に向かって新見は努めて明るく言った。
「見とれてました」
「馬鹿いってろ」
 呆れたようにそう返されて彼は傘と鞄を新見に預けると、チェックインの為にさっさとフロントに向ってしまった。
 新見が腕時計に目を走らせると、もう十二時をまわっている。ロビーにあるパンフレットを手にとってホテルの住所を確かめると、会社までまだかなり離れていた。これは明日の運転は結構疲れるかも、と新見が覚悟していると、上條が一本の鍵を手にこちらに戻ってきた。
「行くぞ」
 新見の手から自分の傘と鞄を受け取ると、彼はさっさとエレベーターに乗り込んだ。押したボタンは4階で、着いた部屋はツインベッドの入ったワンルームだった。
「シングル二つじゃ経費に足が出るのだ。我慢しろ」
 新見が何か言う前に上條が先手を取ってそう言った。そしてどっかりとソファーに座ってネクタイを緩め出す。普段見られないようなこの態度に新見は呆気にとられてしまった。上着を脱いでソファーの背に乱暴に引っ掛けた行為を見て、すかさずハンガーを取り出す。
「皺になるので掛けておきます」
「ああすまん」
 上條は横柄な態度そのままに足を組んでテレビをつけた。靴を足だけで脱いで、靴下も足だけで脱ごうとしているその行動に新見は思わず笑ってしまう。
「課長って意外と横着ですね」
「なに?」
 言っている意味が分からないのか上條はテレビを見ながらもその行動をやめない。片足の靴下が半分まで脱げたところで新見はしゃがみこんだ。
「課長、靴下を脱ぐときぐらい手を使ってください」
 やれやれと脱げかけた靴下を引っ張ってやると、すぽんと白い甲が露になった。爪が伸びている。思わず手の爪も確認すると結構な長さになっているではないか。苦笑いしながら新見は立ち上がると、部屋の隅に置いてあったルームシューズを上條の前に置いた。
「爪が伸びてますよ」
 言われてひょいと上條は手と足とを確認したが「大したことないじゃないか」と呟いた。その一言に納得できなかったのは新見である。
「課長、人の身だしなみには人一倍厳しいのによく言えますね」
 そう、上條は新見や他の営業マンの身だしなみについては酷く厳しかった。爪の長さはよく注意される項目で二番目が額に垂れる髪の毛だった。そういえば、今の上條は髪の毛も乱れていた。先程雨に濡れたせいもあるだろうが、形が崩れて前に全部落ちてきている。ずいぶん若く見えるなと新見は思いながら思わず上條の前髪に手を伸ばした。
「触るんじゃない」
 手を払われて新見は少なからず傷ついた。上條は乱暴に両手で髪をかき上げると、ぽたりと雨粒が垂れて横の顎をつたう。
「まだ濡れてますよ」
「君のせいだろう」
 間髪いれずにそう言われて新見は苦笑した。「どうも申し訳ありません」
 ふんと上條は再び鼻を鳴らすと、新見を無視して再びテレビに目を向けていた。どうやらこの時間帯にやっているニュースを見るのが日課らしい。難しい顔をしたまま画面を眺める上條を視界の端に捉えながら、新見も上着を脱いでクローゼットのハンガーに掛ける。ネクタイを取ってシャツのボタンに手を掛ける。
「シャワーでも浴びてきたらどうだ?」
 そんな声を掛けられて新見が顔を向けると、上條はテレビから視線だけ動かしてこちらを見ていた。
「課長より早く使えませんよ。お先にどうぞ」
「私はニュースを見てから入る。明日も早いんだ。今日みたいに居眠りされちゃかなわん。さっさとシャワーを浴びて寝てしまえ」
 こう言われてしまうと新見はぐうの音も出ない。営業先の挨拶まわりも自分はオマケのようなものであり、連れて来られた理由なんてドライバーとしてぐらいだったのに、それすら満足にできなかったのだから。
「ではお言葉に甘えて」
「ああ」
 上條は素っ気無く頷くと、再びテレビに集中し始めた。新見はふうとため息を付くと、ベッド際にある備え付けの浴衣を手に取った。
 ユニットバスのドアを閉めると、急に疲れが肩に掛かってきた。どうやら自分は知らず知らずのうちに緊張していたらしい。思い起こせば上條とこんなに長時間一緒にいるのは今回が初めてなのだった。
 熱いシャワーを浴びながら、新見は以前退職の相談をした時のことを思い出した。嫌味ばかりの上司だと思っていたが、自分のことを高くかってくれていることが分かって嬉しかった。また自分に少しばかり特別な感情を持っていることも。
 新見はあの時の上條のキスを思い出した。ストイックなイメージがある彼とは想像できないほど欲望に満ちていた。
 もう一度したいな、と新見は純粋に思った。けれどきっとしてくれないだろうなというのも頭の端で分かっていた。自分は彼に何を求めているのだろうかと本気で考えた。伊勢崎と違って性欲がもたげたりしない。溝口と違って快楽を求める相手でもない。
 ふと夢の中で父に頭を撫でられた記憶が蘇った。新見は無意識に微笑んでいた。あの瞬間、自分は確かに幸せだったな、と。

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