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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。
新見がベッドに入ってから小一時間が経過し、深夜一時を回った時に上條はようやくソファーから腰を上げた。素直に横になった部下を気遣って部屋の電気を消して音量を下げたテレビを見続けるのはかなり苦痛であった。上條も慣れない相手に気を使いすぎて疲労していたのだった。
シャワーを浴び終えてバスタオルで頭を拭いていると、暑さで寝苦しいのか新見の掛け布団がベッドからずり落ちていた。ベッド際のランプで仄かに照らされている彼は、背中を丸めて膝を抱えるように眠っていた。
上條は今日の車内での出来事を思い出していた。余計なことをした、と彼は後悔していた。寝ぼけていた新見など気遣う必要などなかったのだ。
新見の父親が急逝して、彼が忌引から戻ってきた当初は、ふとした時に塞ぎこむことがよくあった。身内の不幸では堪えるのが当たり前だが、それにしても様子がおかしく気になっていた。元々挨拶回りの予定があったので、新見の気分転換代わりにドライバーとして連れていくことにしたのだが。
「失敗だったかもな」
上條はそう呟いて、眠っている新見の布団を直してやった。ベッドの端に腰掛けて、少し湿った髪を掻き分けるように撫でてやると、突然手首を?まれる。
驚いて目を見張れば、新見が身体を起こして苦笑してきた。
「やっぱり課長だったんですね」
どうやら頭を撫でたばかりに、今日の車中の出来事が夢ではなかったと彼は気づいたらしい。「狸寝入りとは恐れ入った」
「どうして言って下さらなかったんです?」
「なにが?」
「寝ぼけるな、と」
新見の自分を見詰める目は真剣で、上條は誤魔化す気が失せた。堂々と彼の頭を撫でると、「私も父親だからな。息子にあんなことを言われちゃ、邪険にできない」
「息子、ですか?」
新見が口元を歪めると、上條は対抗するように薄い笑みを浮かた。「違うのか?」
しばらく二人は見詰め合っていた。それは駆け引きにも似ていたが、先に視線を外したのは新見の方で、彼は俯くと自嘲したように言った。
「私の父は大変厳しい人で、死んだ今になっても実は信じられないんですよ。あの怒鳴り散らしていた人がもうこの世にいないなんて。学生時代など私の中で父は絶対で、本当に盲目的でした。いつも毅然としていて芯のある人で憧れの存在だったんです。それに比べて母ときたら、派手で下品でがさつな女でした。私は母が大嫌いで父が別れてくれて清々していたんですけど、原因はどうやら母と叔父との浮気だったようなんですよ」
口元を歪めて笑った新見の話を聞いて、上條は露骨に眉を潜めた。
「はは。笑ってしまいます。母が出てってから父はますます自分に厳しくなって時には鼓膜が破れるくらい殴られたことがあるんですけど、要するにただの憂さ晴らしだったわけです。それを私は長年の間、厳しくも愛情だと錯覚していたんですから本当に馬鹿みたいです。父に認めてもらいたくて身体を鍛えたこともあったんですよ。すると暴力はぱったりです。今思えば、父より私の方が腕力がついたから殴るのをやめたに違いないんです。するとどうなったと思います?あろうことか再婚した女性に暴力を振るっていたんですよ、あの人は。結局、母を忘れられずにいるんです。家族に八つ当たりして、身の回りの世話をさせて、こき使って、散々迷惑を掛けて、さっさと身勝手に死んでいきました」
新見はそこまで言って声を詰まらせた。目頭が赤くなり頬を涙が伝っていった。
「課長」と新見は上條を見詰めた。
「私たちは、愛されていたんでしょうか?」
上條は分かっていた。今自分が肯定しようと否定しようと、目の前の男は結局、愛されていたと信じているに違いなかった。上條は新見を乱暴に引き寄せて頭を抱いた。新見はそのまま上條の胸で静かに泣いた。肩を震わせるその姿は、いつもの職場で見る余裕のある部下ではなかった。しばらく二人はそうしていて、新見は上條の腕の中で泣き付かれて眠りに落ちた。胸の中で力を抜いたその身体を上條はベッドに寝かしつけて、頬についた涙の後を拭いてやった。
子供は親を選べないとは言うが、と上條は頭を抱えた。自分も子供を持つ親として考えさせられる部分は大いにあった。自分たちの行為が子供に影響を与えるというのは分かってはいても、その時の自分の感情に振り回されてしまう弱さがある。自分とて例外ではない。
自責に塗れたため息を付くと、上着の中に仕舞いっぱなしの携帯が鳴った。時計を見れば深夜二時を回っている。こんな時間にかけてくる人間は一人しかいなかった。
「遅くにごめんなさい。今家?」
ひそひそと声を潜める妻の声は、きっと眠りに付いた子供を気遣っているに違いなかった。
「・・・出張先だが大丈夫だ」
上條も声を潜めてそう答える。新見のベッドに腰掛けて、眠りについている彼の頭を撫でながら。
「相変らず仕事が忙しいのね。・・・祐樹と幸が寝てるものだからあまり大きな声で喋れないの」
「・・・ああ」
「ねえ。一ヶ月前に送った書類の件だけど、まだ出してないの?」
上條は頭を撫でる手を止めた。一ヶ月前に受け取った封筒は薄く、何が入っているのかは開封しなくても想像が出来た。二年前から別居をしている妻から一方的に送られてくるものといったら一つしかない。上條は離婚には反対だったので何とかやり直せないかと話し合いを続けたが、彼女の意志は変わる様子がなかった。自分は家族を幸せにするために家も買ったし、経済的に困らないように一生懸命働いてもいる。子供も妻も愛している。一体何が不満なのだ、と訴えたが、彼女は泣きながら言った。「あなたは何が悪かったかすら分かっていないのね。そして変わろうと足掻いてもくれないんだわ」
話し合いは平行線だった。何が悪かったのか理解できない上條と、そんな彼に絶望する妻と。
「来年、祐樹が小学校に上がるのよ。こんな中途半端な状態にしておきたくないの」
「・・・ああ」
上條は凡庸な返事を繰り返した。
分かっている。きっと妻の中ではもうケリがついていて復縁の可能性がないことぐらい。書類整理さえ終われば完全に彼女は前を向いて歩いていくに違いない。彼女に言ってしまおうか。紙切れ一枚でも自分は君と繋がっていたいのだと。子供達の成長を一緒に見届けたいのだと。
今更だと言われることは分かっている。彼女らに本気で向き合って会話したことなど皆無なのだから。先ほども祐樹が小学校に上がると聞いて、もうそんな年齢になったのかと驚いたものだった。自分がいくら愛していても行動に移さなければ伝わらない。会って会話して、笑って泣いて、一緒の時を過ごすことを己は怠ってきた。分かってくれている?何と自惚れていた事か。
「すまなかった」
上條は初めて妻に謝った。ふと口からこぼれた言葉だった。そんな彼の態度に妻は恨みがましく言葉を吐いた。「もっと早くその言葉が聞きたかったわ」
そうだなと上條は自嘲した。口先だけの謝罪は何万回もした。もっと喧嘩をして、怒鳴りあって、喚きあって、妻の文句を聞いてやればよかった。溜まっている有給をとって、子供たちともっと遊んでやればよかった。誕生日にロウソクを立てて毎年祝ってやればよかった。父の日に書いてくれてた絵の感想を直接言ってやればよかった。妻に仕事の愚痴をこぼせばよかった。
しかしもう遅い。
「明日家に戻ったらサインするよ」
上條が呟くようにそう言うと、電話の向こうの妻は絶句したようだった。しばらくして静かに「そうして」と声が聞こえた。
二人はしばし無言だった。この沈黙の意味を上條は考え、事態の好転に期待する自分の浅はかさに嘲笑った。
肩に携帯電話を挟めて、左手の指輪に手を掛けた。すっかり手の一部になっていたそのプラチナを外してその輪を覗き込む。結婚した当初は、こうやって覗き込んだ先には明るい未来しか見えていなかったのに、今は暗いホテルの一室か。
浮かぶは先ほどから自嘲ばかり。
手に持つ携帯もいつの間にか切れていて、単調な電子音が流れている。切り際、上條は妻とどんな言葉を交わしたのか覚えていなかった。なんだかこの部屋のように全てが闇に紛れたようでどうでもよかった。
握っていた指輪を手のひらの上で眺めて、そしてゴミ箱に狙いを定めると腕を振り上げる。
ふとベッドに寝ている新見が寝返りを打って、我に返った。振り上げた腕を戻して頭を撫でると、細い髪が指に絡まって滑り落ちる。
夜遅くに帰宅した時、こうやって子供達の寝顔を見るのが習慣になっていたことを思い出す。今日の彼のように涙の跡がある日もあれば、楽しそうな顔の時もあった。隣で眠る妻の顔はいつも疲れていて、食卓に並べられた食事はラップが掛けられ、いつも冷たかった。
上條は立ち上がってハンガーに掛けられたスーツのポケットに指輪と携帯をしまった。泣いて喚き散らしたい気分だった。しかし涙は出ず、胸の奥にやりきれない想いばかりが渦巻いていた。感情的になるには今日は色々あり過ぎていた。
上條は新見のベッドの傍らに腰掛けたまま頭を抱え、長い夜を過ごしたのだった。
新見が目を開けると、上條はもう起きていてソファーに腰掛けてテレビを見ていた。夕べの居眠りのせいもあり、彼が慌てて時計を確認するとまだ朝の五時だ。
「お、おはようございます」
上半身だけ起こして挨拶をする。まさか五時で遅いと言われないだろうなと内心不安であったが、上條はテレビに映っている時間を見て「随分早起きだな」と皮肉を言った。
「課長こそ、」と新見は口を開いたが、ふと上條の格好が浴衣のままであることに気づいて眉を潜めた。「まさか、寝てらっしゃらないんですか?」
もともと健康的な顔はしていないが、神経質そうな目尻の皺に影ができ、隈もある。上條は口元を歪めながら伸びをした。そして呻くように言う。
「数時間は寝たさ」
「ベッドを使わずにですか?」
ふと新見が隣を見れば、乱れ一つない。ベッドカバーもそのままで腰掛けた形跡すらない。
「そっちのベッドは使わなかった」
「そっちの?」
新見はその妙な言い方に首を傾げ、そして夕べの自分の失態を思い出した。
「まさかずっと私についていてくれたわけじゃないですよね?」
「そこまでお人よしじゃない」
ぴしゃりと言われて新見は逆にほっとした。しかしそれと同時に疑問が涌く。まさか昨日からずっとテレビを見ていたわけであるまいな。
「ちょっと眠れなかっただけだ」
疲れたように否定されて新見は申し訳ない気持ちになった。おそらくは自分があんな態度をとったから気を使わせてしまったに違いない。甘えすぎたと反省する。
「まだ時間がありますし、少し眠られてはいかがですか?二三時間たったら起こしますよ」
新見のそんな提案に上條は視線を遠くに送ってしばし考えたようだった。そして凝った首を回すと「そうだな」と腰を上げた。いつもの上司らしくない素直な態度に違和感を覚えていると、自分がいるベッドの布団がめくられて狭い隙間に上條がもぐりこんできた。
「あ、あの課長?」
あまりにも予想外の行動だったので新見は動揺した声を上げたが、上條は飄々と眼鏡を外してこちらに傾けてくる。
「八時になったら起こしてくれ」
「え、ええ」
呆然と受け取ってベッド脇の棚に置くと、隣の上條は益々身体を寄せてくる。そして目を閉じながらも眉間に皺を寄せた。
「狭いし、暑いし、君くさい」
新見はその言葉に苦笑した。
「嫌でしたら隣のベッドへどうぞ」
「嫌とは言ってない」
「そうですか?」
「そうだ」
目を閉じながら口元を歪めた顔を見ながら、新見は笑ってしまった。どういう心境かは分からないがこんな上司を見ることは滅多にない。
新見は座ったまま隣に眠る上條の髪に触れた。夕べは触らせてもくれなかったのに、今は抵抗する様子がない。額に掛かっている黒い髪をかきあげてやると、指の間でするりと髪が逃げてまた額に落ちてしまう。
「触り方が生意気だな」
上條がそう嫌味を言い、左手で新見の手を止めた。手首をつかまれて苦笑したところで違和感に気づく。左指に夕べまで光っていた指輪がなくなっている。
このせいか。
新見は気づいて眉を潜めた。上條は愛妻家として有名であったが現実は厳しいようだった。いったい何が原因なのかは分かりようもないが、彼がほぼ毎日始発で来て終電近くに帰宅していたのも無関係ではあるまい。疲れた顔で仕事をしてこんな面倒な部下を持って。
新見が上條の目尻にキスをすると、ゆっくりと上司の瞳が開いてこちらを見た。
「キスの仕方が生意気だ」
「慰めて欲しいのかと思いまして」
そう微笑んだ新見に対して上條はシーツに頬を付けたまま失笑した。
離縁に関することがよほど堪えたのだろうと、彼の手をとって指輪があった薬指の付け根を慰めるように撫でてやると上條は微笑みながらこちらを見上げてくる。
傷を舐め合う事がいいこととは思わないけれど、どうして人は弱くなると温かみを求めてしまうのか。
上條は知っているのだ。今、体温をより求めているのは自分のほうだと。その証拠に彼の手は新見の手を力強く握り返し、離そうとしない。
それがまるでエールを送られているようで。
握られる痛みに涙が出た。
もう過去を引きずるのはやめにしよう。
だって僕は今。
こんなにも愛されている。
了