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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。

19.絶対の力関係

19-2/2

 上條は自分のデスクで弁当を食べていた。右側に新聞を置きながら、味の濃いコンビニ弁当にうんざりしている時に電話が鳴った。昼にくる電話は珍しくないが、ランプがついているのは部下のデスクの電話であり、上條は眉間に皺を寄せた。普段営業課の人間が昼時にいないことは総務課は把握しているはずだが。
 お茶で口の物を胃に流し込み、自分のデスクで電話をとる。
「はい、営業課」
 名前など名乗らなくても登録番号通知で上條が取ったことは総務課にはわかるはずだった。
「川村様という方から新見さん宛てに外線です」
「どこの会社の?」
 上條が当たり前のように企業名を確認すると、電話口の女子社員は口をつぐんだ。その態度に上條はとんとんと指でデスクを叩く。
「君、会社名ぐらい、」
「おそらく、個人のお客様だと思いますが」
「個人?」
「はい。あの、不在なんですよね?それでしたら私の方からお断りしますので」
 上條は首を傾げた。どうも女子社員の態度がおかしい。先ほどから落ち着きがない。
「代わりに私が用件を聞こう。繋ぎたまえ」
「えッ、繋ぐんですか?」
 素っ頓狂な声が返ってきて上條は益々不信感が募った。第一、営業課に掛かってきた電話なのに上司たる自分に繋ぎたがらない理由はなんだ。
「なにか問題でもあるのかね?」
「あ、えーと。いえ、ありません」
 ようやく観念したのか、女子社員は少し声を落として返事をすると「お繋ぎいたします」と告げた。
「お電話代わりました」
 納得いかないまま上條が電話口で言うと、今度は相手側が絶句したようだった。いったい何だ?と思いながらも「申し訳ありません。新見は只今営業に出ておりまして、代わりに私上條がお伺いいたします」と事情を話してやる。
 すると、ごそごそと電話の向こうで話し合う声がする。声質からして若者のようだった。営業先でこんな若者を新見が相手にしているとは思えない。なるほど、イタズラ電話のようだから女子社員が接続を拒んだのかと上條が納得していると、「あのーいつ頃戻られますか?」と若者がおずおずと尋ねてくる。
「申し訳ございません。本日は営業に回っておりまして、直帰となっております。本人と連絡がつくのは翌日になるのですが、よろしれば伝言を承りますが?」
 本当は夕方には帰社する予定だが、こんな相手にまともに付き合うこともあるまい。上條がとりあえずメモを引き寄せてペンを握ると、電話の向こうの若者は困ったように誰かに相談している。
「どうする?いないって。え?なに?ちょっと自分で言ってよ。イセさんの方が慣れてるでしょ」
 イセさんという言葉に上條は片眉を上げた。イセと聞いて伊勢崎という大男が頭に浮ぶ。なるほど。以前ここに押しかけたぐらいだ。こんな突拍子もないことをやりそうな相手ではある。
「間違いでしたら申し訳ないのですが」と上條はワンクッション置いて確認することにした。
「もしや伊勢崎様の使いの方でしょうか?」
「え、あ、はい。そうですけど、何で」
 知ってるんですか?と若者が言いかけた時に上條は鼻で笑ってしまった。
「あ、いえ、失礼しました。川村様、私、営業課長をしております上條と申しますが、もし宜しければ伊勢崎様と代わっていただけないでしょうか。きっとご用件を承れると思うのですが?」
 上條が嘲笑を浮かべてトゲトゲしくそう告げると、相手の若者は素直に従ったらしい。上條の耳に次に届いた声は、記憶にあるものよりずっと軽薄なものだった。
「よ、よぉ。元気そうじゃないか」
「よう、じゃない。君はどこまで非常識なのかね?君自身が電話を掛けてくるなら分かるが、全く無関係な少年を捕まえて何をさせているのかね。全く呆れる」
「ま、まあまあ」
「まあまあだって?フン、君のやることが突拍子もないことは今更か」
 やれやれと上條は肩に電話を挟みながら箸を持つ。 
「新見なら営業に行ってるよ。夕方には帰ってくる予定だからアカシヤでコーヒーでも飲みながら待っていちゃどうだね。ここには来るなよ。ただでさえ目立つ新見が、君がくるとますます目立つ」
 上條が弁当を食べながらおざなりに喋っていると、気配の変化に気づいた伊勢崎が呆れたように言う。
「あんたずいぶん態度違くないか?」
「そうかね?これが地だ。君に気遣う気がないだけさ。それよりいい加減会社経由で連絡を取り合うのはやめてもらえないかね。携帯番号ぐらい知ってるだろう」
「ま、知ってはいるんだが、電話っていうのは繋がってナンボだろう。ここ二ヶ月以上連絡がないってのは・・・」
 そこで上條は箸を止めた。連絡がつかなかった原因はもちろん新見の実父が急逝したからだが、そのことを伊勢崎が知らないことに正直驚いていた。これは思っているより進展はしてないのか?と上條は訝った。無意識に新見の中に入る隙間を探している自分に呆れ自嘲する。
「おい?」
「いや、すまん。彼がなぜ君に伝えなかったのかはさておき、少なくとも連絡がつかなかった理由はあるから心配するな」
「それは俺にとっても納得できる事情か?」
「そうだな。少なくとも私は納得できる。あの夜車で話したことを覚えているか?」
 伊勢崎が沈黙したのを確認し、上條は彼が何らかの理由を思いついたことを知る。あの夜、上條は、新見の中にあるファザーコンプレックスの可能性について話したのだった。
「なにがあった?」
 一転して真剣な声色に変わった伊勢崎の態度に上條は安心させるように笑ってやった。「心配せずとももう浮上している。詳しい話は本人に聞きたまえ」
「そりゃあ聞けりゃあね、聞くさ」
「どうした?」
 上條が弁当を食べるのを再開しながら事情を聞くと、伊勢崎は詳細をぼかしながらも説明してきた。電話の向こうにいるであろう先ほどの若者は関係性を知らないらしい。意見の食い違いが原因で喧嘩したという胡散臭い言い草に上條は噴出してしまった。あまりにも大声で笑ったせいで、数名の社員が目を丸くして上條を見詰めた。その中には当然溝口も含まれていて、彼は上條のこんな砕けた態度を見るのも初めてだったし、大声で私用電話をしているのを見るのも初めてだった。
「おい笑いすぎだ」
 憤慨した伊勢崎の声を聞きながら上條は口を無理やり閉じた。「いい年して何をやってる」
「そりゃあお互いさまだろ」
 やり返すように伊勢崎に言われて、上條は苦笑いをしながら左手を見た。指輪を外して一ヶ月経ち、ようやく跡が薄くなってきた。見た目ほど心の跡は消えてはいないが。
「そうだな。お互いさまだ。左手の薬指がずいぶん軽くなったよ」
 上條のそんなボヤキに伊勢崎は絶句したようでただ「そうか」とだけ呟いた。雰囲気が暗くなったので上條はあえて明るい声を出す。
「そういや飲みに行こうと約束していたな。私は口約束はしない主義なんだ。きっちり日にちを空けておいてくれよ。もちろん驕りで」
「分かったよ」苦笑紛れの返事を聞いたところで、上條は伊勢崎がまだ何か言いたそうだと気づいた。昼休みの残り時間を確認しながら弁当を掻き込み、言葉を待っていると、ようやく声が聞こえた。
「なあお前さんの部署にさ、係長っているか?」
 一体何の話だ?と上條は首を傾げる。「いや」と否定した後で、噂のせいで新見の昇進話が流れたことを思い出した。あの一件がなければ新見こそが係長になっていたところだ。
「そ、そうか?ハハ。いやぁ、何か新見の知り合いでイケメンの係長がいるって聞いたもんだからさぁ。あいつの友人ってあまり聞いたことないだろう?どんなヤツかなって気になって」
 嫉妬して、の間違いだろう。と上條は思う。伊勢崎の声は軽い。なるべく後ろの若者に気づかれないようにと気を使っているのが分かる。本当は押し殺した声で尋ねたいに決まっている。
顔のいい係長だと?そんなヤツは一人しかいない。
「役不足だ」
 上條は低く声を出した。伊勢崎の本音を代弁するが如く。
「なんだって?」
「釣り合わん、と言ってるんだ」
 お前までそれを言うのかと伊勢崎はハハと空笑いをした。二三挨拶代わりに言葉を交わして、もう昼休みが終わるからと上條は電話を切った。
 先ほどから左頬に感じる視線に苛立ちを感じ、上條はクルリと椅子を回転させて企画課の方に背中を向けた。自分がどんな顔をしているかなど鏡を見るまでもなかった。

「只今戻りました」
 新見が帰社したのは五時半を過ぎたところで、丁度終業間際だった。いつも通り営業日誌を受け取って彼の報告に耳を貸す。
「分かった」と頷いて、席に戻っていく新見の姿を見ながら上條はどうすればいいか迷っていた。まず何から話すべきか。伊勢崎から心配した電話が来ていたことを話すべきか。もしかしたらアカシヤで待っているかもしれないと?
 それとも自分が溝口に対して驚くほど感情が動いたことを話すべきか。伊勢崎に対しては比較的冷静に対応できたというのに、今回はセーブが効く気がまるでしなかった。ふいに溝口と二人きりになってしまったら殴りかかりそうで自分が怖い。
 とにかく冷静になるべきだ、と上條は持て余した怒りを抱えたまま席を立った。廊下を歩いて男子トイレに入ると、洗面台の水で顔を洗う。鏡に映った自分の目つきにぞっとした。
 結婚という楔が外れた途端にこのザマか。
 上條はハンカチで顔をぬぐって眼鏡を掛けると自嘲し、一つ深呼吸してトイレを出た。
 大分気持ちも落ち着いて廊下を歩いている時に新見の姿を見つけた。見れば周りには誰もいない。声を掛けるなら今しかないと思い、上條は口を開きかけたが、彼は上條に気づくこともなく資料室に入っていってしまった。何となく肩透かしを食らった気分だったが、そういえば先ほどの営業日誌に新製品の説明書の不備についての記載があったことを思い出した。
 またあとにするか、と上條は腕時計に視線を落とした。伊勢崎のことだからきっともうアカシヤにいるかもしれない。新見に残業でもされたらあの男に何を言われるか分かったものではないなと苦笑しながら席に戻る。忙しなく時間を確認しながら自分の仕事を進めていたが、ふとじっとりとした不快感が上條の身体を襲った。
 ゆっくりと視線を巡らすと、企画課の溝口が席にいない。一体いつからだ?喫煙所か?否、トイレに向う途中で喫煙所の様子など一望できる。彼の姿はなかった。
 勝手に体が動いた。
 上條は静かに立ち上がり、営業課を出て、資料室の前に立った。麻痺したように真っ白になった感情を抱えたままドアノブに手を掛けた時、するりとそれは回った。
「おっと」と驚いた顔の溝口と目が合った。手には資料の束が握られており、仕事をしていたことは一目瞭然だった。やましいことなど一つもなかったろう。
 しかし同じ視界の中に、キャビネットから資料を取り出そうとしている新見の姿が映ったときに上條の中で何かが焼け焦げた。
 三十年以上誤魔化してきたんじゃないか。家庭だって作ることができたじゃないか。
 走馬灯のように自問自答する声が走り去る。
「あの、課長?」
 目の前の溝口は道を塞いで動かない上條をぽかんとした顔で眺めていた。その時、ああなるほど、と溝口に対する怒りの原因に行き着いた。物事を深く考えずに倫理感を無視するその単純さに腹が立ったのだ。その若さに嫉妬したのだ。
 上條は自嘲して、溝口が手に持っている資料を叩き落した。ファイリングされていた書類が散らばり、溝口は慌ててしゃがみこむ。
 なにするんですか、と溝口の口は動いたが、声は出なかった。見下ろしてくる上條の目つきが明らかに淀み、曇り、鈍い光を放っていたからだった。
「ホント、君じゃ役不足だ」
 薄く笑って上條はそう言い、溝口を突き飛ばして資料室の中に入った。後ろ手でドアの鍵を閉めると、ぼんやりと埃っぽい空気の向こうに新見が立っていた。
「課長?」
 不思議そうに首を傾げて新見は上條を見詰めてきた。それはそうだった。管理職の人間が入ってくる場所ではない。
 上條は足を進めた。彼の心の中では気が早やって駆けているも同然だった。一歩一歩近づいて手を伸ばした。
 飛びつくように新見を抱きしめた。驚いて身を固めた新見の頬を両手で挟んで口付けをする。
その性急な行為に混乱したのはもちろん新見自身で、一体何が起こっているのかと眩暈がした。
 上條のキスは情熱的で、あの小料理屋の一件を思いださせた。舌は容赦なく自分の舌に絡みつき、舐られる。
「ぁ、あふ」
 熱い吐息が首筋に移動して噛み付くように首筋を吸われて、新見は我に返った。
「ダメですよ、課長。それ以上」
 頭を押し返すと、意外にも薄く余裕のある顔が返って来て新見はどきりとする。しかし声は低く湿っていた。
「もう君を信用しない」
「え、」
「あの時、会社では私だけだと言ったのに裏切ったな?よりにもよって、あんな男に体を許して」
 新見は言われて上條のこの行為が嫉妬から来たものだと理解した。しかし彼は溝口とのことはバレていない自信があった。現に溝口との行為は会社内では一切していない。もともとお互い社交的で通っている二人だ。仲良くなったとはいえ、特別な相手だと誰も思わないだろう。
「課長、誤解ですよ。係長とはご飯は一緒に食べましたが、特に何も」
 そう言い掛けてギクリとした。
「私を、なめるな」
 嫉妬よりも激しい感情で睨みつけられて新見は自分が選択を誤ったことを理解した。恐怖が快感を呼び起こし、彼は震えた。
 上條は新見を壁に押し付けて口付けを続けた。湿った音が耳に届いて下半身が熱くなる。上條のそれも固くなっているのが分かった。
 新見のネクタイを上條が解き出し、開いた襟元から鎖骨に唇が下りて来た。
 まずい、と新見は息を荒げながら思う。自分はもう止まらないし、上條も止める気は全くないのがいけない。今は終業時間を過ぎたばかりで多くの人間が社内に残っている。伊勢崎と行為を交わした状況とはまるで違う。しかも先ほどまで資料室には溝口がいた。いくらなんでも長時間鍵を閉めたままで上條と二人きりだと行為がバレバレだ。
「ぁ、うっ、あ、」
 乳首を柔らかく吸われて新見は声を上げた。快感でもう現在の状況がどうでもよくなってきていた。上條にはもっと深く自分に触れて欲しかった。自分の肌を唇でなぞって自分の肉棒を直接さすって欲しかった。もう布越しじゃ物足りない。
 思わず新見が我慢しきれなくなって自分のベルトに手を掛けた瞬間、スーツのポケットに入っていた携帯が鳴った。
 この資料室では本当によく携帯に邪魔される、と新見が頭の端で苦笑していると、目の前の上條も我に返ったようで行為を止めた。お互い見詰めあって、どうしようかと思案しているのかと思ったら、意外にも上條はあっさりと身体を離してきた。
「ヤツはスーパーマンだな」
 言っている意味が分からなくて新見が携帯を見ると、ディスプレイには伊勢崎の文字があった。そういえば、電話をすると言っていてしばらく忘れていたと苦笑いしたところで、音楽が止んだ。
「エスパーというなら分かりますけど、スーパーマンってガラの人じゃないと思いますが」
 ポケットに携帯を戻しながら上條に言うと、彼は自嘲したように笑った。
「スーパーマンだよ。私を止めてくれた」
 その言い方に新見が見返すと、上條は穏やかな笑みを浮かべて改めて新見の頬を優しく撫でる。襟元の乱れを直されて、睦言でも言われるのかと思っていると、予想外なセリフが上條の口から告げられた。
「彼がアカシヤで君を待ってる。さっきの電話は私への牽制のつもりなのさ。さぁ行き給え。私はしばらくここで頭を冷すとしよう」
「行っても、いいんですか?」
 新見が名残惜しくて思わず聞くと、上條はそんな態度を予想してなかったようで目を丸くした。しかし次の刹那には余裕ある笑みを浮かべて言い放った。
「私はあの男に嫉妬したりしない」
 そうさ。上條は思う。
 あの男と自分では、新見の愛し方が違うのだ。

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