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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。

3.うららかな昼下がり

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 新見が会社のドアに手をかけた時、それに鍵が掛かっていないことを不審に思った。
 なぜなら昨日帰る時きちんと施錠した記憶があったからだ。
 早朝7時越。
 新見はゆっくりと深呼吸してドアを開けた。
 事務所のブラインドは全て開けられていて、役職デスク近くの窓から、町並みを見下ろす背中が見えた。見慣れた黒のスーツ、きちんと整えられた黒髪。
「おはようございます」
 新見はこんなに早い時間に会うとは思わなかった直属の上司に向かって声を掛け、自分の席についた。ワンテンポ遅れて上司は振り返る。
「おい、なんだ早いじゃないか」
 営業課長である上條は眼鏡越しに新見を見つめた。「君、こんな時間にくる電車は利用してないだろう?」
「昨日はホテルに泊まりましたので。今日の会議の報告書が終わってないんです」
 まだまとめるべき書類が山程あったが、彼の心には余裕があった。書類を一揃え机の上に出すと、微かに笑い、上司に目を向けた。
「そんなことより課長も随分お早いご出勤ですが?」
「君、それ嫌味かね」
 予想通り上條は片眉を上げて、新見を睨み付けた。彼が家族の為に郊外に家を建て、通勤電車が限られていることは社内では有名な話だった。本来、一番早く来、一番遅く帰るのがこの男なのだ。しかし話には聞いていたが、ここまで早いとは新見は思ってもみなかった。お陰でせっかくネクタイを調達したのに、それが裏目に出てしまった。途中で変えることも考えたが、そんなことをしては余計に不審感を煽る。
 ただでさえ上條は、故意かどうかは不明だがセクハラ紛いの行為を煽ってくる。これが本当に客と寝たとばれたら、どんな反応するだろうか。目が覚めてまず考えたことを反芻し、彼は再び自嘲した。
新見は口先に笑みを湛えたままペンを握った。彼の優先事項は、目の前の書類を片付けることで、課長をからかうことではなかった。これがきちんとまとめられなければ、営業課として二人揃って槍玉に挙げられることになる。
 一体どれくらいの時間が過ぎたろうか。新見がふと我に返ったのは、始業時間を過ぎ、女性社員がコーヒーを持ってきた時だった。
「ありがとう」と少々状況を把握できずにぼんやりと受け取ると、何気なく壁の時計に目を向けた。もう三時間が経過していた。
 会議まであと一時間。
 やれやれ、とコーヒーに口をつけながら、ずっと横に立ったままの女子社員の視線に気づいた。
「似合わないかな」
とネクタイに触って苦笑しながら言う新見に、少し照れたように彼女は笑う。
「あ、違います。珍しいなって。新見さんってわざとブランドものをしない感じがあったんで・・・あ、もしかしたらプレゼントとか?」
 女はやはり鋭い。新見は思わず苦笑した。
「実はそうなんだ」
「あーやっぱり!もしかして例の彼女ですかあ?あの美人の」
 園田のことだった。たまたま彼女との会食中に、同じ会場で同僚たちに出会ったことがあった。もちろん建前は恋人同士だったので新見は堂々とそう紹介した。
「まあね」
今回も彼の口から出た淀みない返事に彼女は複雑な笑みを湛え、視線を落とす。
 女性というのはどうしてこうも詮索好きなのか、とようやく踵を返した女子社員の背中を見送りながら新見は思う。ストレスを感じて軽く首を回すと、上條と目が合った。
 単なる偶然だろうか、それともこちらを観察していたのだろうか。新見はいい気がしなかったが、とりあえずほぼ完成した書類を持ち上げて「大丈夫です」と微笑んでおいた。すると、彼は頷いた後、顎で新見を呼んだ。
 嫌な予感がした。
「なんでしょうか」
 上條のデスク前に行き尋ねたが、彼は手を組み、黙ったまま、新見の頭から胸元までを眺めた。そして視線が何往復かした後、首元でそれは止まった。
「君、ネクタイが曲がってるよ」
「え?」と思わず下を見た時、ぐいっとネクタイを引っ張られ、上半身が下がった。
「男と寝たな」
 鼻先で囁かれたその台詞に新見は驚いたが、表情には出さなかった。出たのは冷静な声。「まさか」
「相変わらず嘘が下手だな」
 涼しげに上條は付けたし、ゆっくりと立ち上がった。そして徐に新見のネクタイの結び目を解いた。
 抵抗しても無駄と判断した彼は、素直に顎をあげて、上條のやりやすいようにシャツの襟を上げる。
「嘘が下手だなんて、私に言うのは課長だけですよ」
 現に新見は平気で嘘をつく。そして騙し通して来た。集まってくる女を巧くあしらっているうちに嘘が巧くなったのだ。ばれない自信も彼にはあった。例え誰であろうと。
 上條は笑ったようだった。
「この太さで一重の結びは野暮ってもんだ」
 薄い唇に笑みを浮かべたまま淡々と上條は新見のネクタイを結び直す。
 こんな風に人にネクタイを結んでもらうのは、面接の時父親に結んでもらって以来だな、と新見はぼんやり思った。考えてみれば、上條は年齢的にあの時の父親と同じ年だった。
 上條はネクタイを結び終えると、新見のシャツの襟を正した。
「ありがとうございます」と礼を言いながら、上條になぜバレたのかが理解できた。昨日とネクタイが違うことなど、いくらでも言い訳が効くが、問題はその種類だった。彼がいう通り、このネクタイで一重の結びは野暮なのだ。細いネクタイが流行っていたのはいつなのか。恐らくは上條が一番よく知っていることだろう。
「それにしても、本当にそのケがあったとはね」
 上條は腰を下ろすと、嘲笑しながら新見を見上げた。「これで話が早くなったよ」
 妙な言い回しに新見は眉をよせる。いつものセクハラなら、こんな言葉は続かないはずだった。
「実は今日の会議、グループの人間が来ることになっている」
「グループ?」
「おや、君は知らなかったのかな。ここは単なる個人企業ではないんだよ。ある会社の融資を大部分受けてここは存在している」
「その融資先の人間がいらっしゃると?」
 新見はそう言いながら疑問に思う。そんな重要な会議にどうして一営業員が出席するのか。素直に上條に問うと、
「君は重役の間でも評判なんだよ。綺麗な男がいるということで」
「まさか」と新見は彼らしくもなく顔を曇らせた。
「そのまさかだ。君には会議の後の接待を頼みたいのだ。できるな?」
 接待、その言葉のいやらしさは明快だ。融資先の人間がどんな性格かは不明だが、この言い方からするとそのテの男というのは理解できる。
「会議の後は食事だ。社長と常務、そして私と君。君も相当舌が肥えているようだから礼儀も心配ないだろう。上の人間と会食できる機会なんてないぞ。君もいい経験をするだろうさ」
 よくもまあ言える、と新見は眉間に深い皺を寄せた。その珍しくあからさまな表情に上條は驚いた。
「そんなに嫌がることもないだろう。君らしくもない。そういうことを淡々と可愛げなくこなすのが君という人間だろうが」
「課長は私を誤解してらっしゃいますね」
「そうかね」
「そうですよ。残念ですが私はそのケはまるでありません。ホテルに別の男といたのは認めますが、課長が想像するようなことは全くありませんでした。なんでしたらその相手に確認していただいても結構ですが?」
 新見はそう言って、伊勢崎の番号を表示した携帯を傾けた。
 しばらく二人は睨み合っていたが、先に折れたのは上條だった。
「どうしてそう嫌がる?私はただ接待しろと言っただけだ。酒でも傾けてそのツラを拝ませてやればいいじゃないか。君はどんな穿った考えをしているのかね」
「穿った考え?」新見は思わず笑みを浮かべた。「男といたと知って好都合とおっしゃったのは課長ですよ。そういわれれば誰だって警戒します」
「警戒すればいいじゃないか」
「なんですって?」
「警戒すればいいといったんだ。誰も最後まで接待しろとは言ってない。それが理想ではあるが、不快な思いをさせずにやり過ごすことぐらい君には容易いだろう。もし接待が失敗したところで、私と君で責任を取ればいい話だ。君は己の首で、私は最悪減給で」
「つまり私は失敗すればクビなんですね」
 分かりきったことだが、新見は聞き返した。この会社に未練などないが、この不景気、手に職もない人間が渡り歩くには少々分が悪い。
「最悪の場合にはな。融資が止まったり減ったりした場合はその可能性はある。まあ心配ないとは思うがね」
「随分気楽なおっしゃりようだ」
「それはそうだ」上條はにやりと笑う。「私はどれだけ君がこういう場に強いかよく知っているつもりだよ。採用を決めたのは私だということを忘れるな」
 新見の選択肢は最初からないようだった。そういうものだと彼自身理解していた。会社の歯車に否定の意志があっては全体が機能しないことを。嫌ならやめればいいのだ、単純なこと。
「最後に一つ」
 会議に備えて机を整頓し始めた上條に向かって新見は問うた。これは実は彼が最も聞きたかったことだった。
「私を推薦したのは課長ですか?」
「この接待にかね?」
「そうです」
 上條は新見を見上げた。長い睫毛の下の瞳は何を求めているのか判断しかねた。
「推薦したのは常務だ。まあ私も了承したわけだからかわらないが」
「そうですか」と新見の形のいい唇が呟いた。
 一体何が聞きたかったのだろう、と上條は思ったが、現実が彼を我に返させた。
 会議まであと二十分と迫っている。
 書類をまとめて席を立つと、新見も理解して自分の席で書類を整頓し始めた。
 新見が思っている以上に、上條は新見自身のことを高く評価していた。セクハラ紛いの評価しかしないのは、上條ではなくむしろ上層部の方で、だからこそ彼はこの公式の場で新見を出したかったというのが真相だった。会議に接待がくっつくと聞いたのは、直前のことで、知っていたなら彼は新見をこの場に出したりしなかった。いつもセクハラ紛いのネタを振っていたのは、探りをいれるためだった。新見が否定する度にほっとしていたのだが。
 上條は先ほど新見が見せた携帯を思い出した。番号だけで相手の名前など出てなかった。つまりは登録する価値すらないということだ。
 そんな男と。
 上條は知らず知らずのうちに、乱暴にデスクの引き出しを閉めると、イライラした足取りで部署を後にしたのだった。

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