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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。
会議室はひどく暑かった。テーブルはロの字に組まれていて、前にはホワイトボードとスクリーンが置かれていた。右前にはテレビもある。
新見は入ってすぐクーラーをいれ、正面にひらける窓から青空を眺めた。いびつな形の雲が広がっている。出勤した時はすがすがしい気候であったが、おそらく見た目以上に気温は上がっていると思われた。
「おい、始めるぞ」
彼が振り返ると、気づかぬうちにメンバーが揃ったようだった。上條は窓側の椅子に腰掛、乱暴に書類を広げ始めていた。新見は彼に倣って隣に座り、他の営業3名は彼らの向かいに腰掛けた。
会議は三部構成だった。
午前中は営業会議、午後は全体会議。そして夕方は外部の人間を交えた報告会。拷問のような時間が続いた後、最後に彼を待っているのはセクハラオヤジの接待である。
うんざりしながら、新見は他の営業たちの報告に耳を傾けた。
営業は上條を含めて五名である。
普段は個々に動いている為、組織的には繋がりが弱いのが営業である。月に一度の報告会議は全体の売上に対する意識と他の営業の仕方を学び反省する貴重な機会でもあった。
ところがその重要性を認識できてない人間がいる。ここに上條の頭痛が治まらない原因がある。
「報告は以上だな」
今回もまた彼はため息をついて、冷たい視線を三名の新人に向けた。毎回毎回会議の度に同じようなことを言っているような錯覚を彼は覚えていた。いや、実際に繰り返しているのではないか、幻ではなく。
上條は眉を吊り上げて、個々の報告に対する注意を丁寧に行った。視線こそこちらに向いているが、脳まで声が届いているかどうかは甚だ疑問だった。彼らは途中採用の即戦力として採用されていたので、皆新見より年上であったが、上條に言わせれば即戦力どころか足手まといだった。他の企業の営業畑にいた人間のはずだが、どうやらそのスキルはいかにサボるかに集約されていたようである。この根底を叩きなおすのには時間が掛かるということは彼にとっては承知の上だった。それが自分の仕事であることもである。しかし、毎回これではうんざりしてくる。
上條は散々同じようなことを繰り返した後で、時計を見ると十二時を回っていた。少しは前進しているのだろうか、と彼は最後に部下を一通り眺め見た。会議の内容よりも昼食時間が気になって仕方がないような顔ぶれが並んでいた。しかし、唯一目つきが違う男が一人。新見だった。
無表情ながらも上條には彼の感情が手に取るように分かっていた。嘘が下手だと先ほど言ったのもそのためだった。
上條は新見以外の人間に解散を命じた。まるで追っ払うように手を動かしたが、彼は自分の心理を隠すつもりもなかった。正直疲れていた。
「私もいないほうがいいんじゃないですか」
新見は上條の心理を理解してそう声を掛けた。午後の会議には自分と上條が出席するが、昼食時間まで二人でここにいる必要はないのだ。それどころか、職務以外ではなるべく関わりたくないというのがお互いの心理のはずだと思っていたのだが。
「何か言いたそうだったから」
「なんです?」
「腹を立てていただろう、君」
図星をさされて新見は絶句し、視線をそらした。
営業成績がよいのは、多くの取引先を持っている新見一人である。その中の多くが園田を仲介としているが、彼はそんな付き合いの取引が長く続かないことを知っていた。切っ掛けはあくまで切っ掛けとして、彼は独自の営業を展開し、園田抜きでの信用を獲得してきたのだ。今では、その切っ掛けすら頼らないように、個人の訪問販売にまで手を広げた。
それなのに他の同僚はそんな努力の気配すらない。それどころか売上は外見を利用したものだと陰口を叩いている。確かに持って生まれたこの外見を新見は利用していたが、度の過ぎる行為はしていない。恥じるようなことは何もないはずだった。
「やっぱり気にいらないだろう?」上條は薄笑いを顔に貼り付けて新見の顔を覗き込む。
「君とて、仕事をとるために股を開いてるっていうのに」
新見は上條を睨み付けた。彼のセクハラには慣れていたが、今日は特に癇に障った。おそらくは、今までは噂に過ぎなかったことが具体的な影が出てきたからこういう言い方になったであろうことは簡単に想像できた。昨晩は疲れに任せて行った行為だと自分の中で納得していたが、傍から見ればそんなことは関係ないのだ。事実は事実、それしかない。
あの男が電話さえしてこなければ。と新見は怒りの矛先を伊勢崎に向けようと思ったが、そんなことはできようはずがなかった。切っ掛けは彼でも、誘ったのは自分だったからだ。
背中からきつく抱きしめられた暖かさと強さを思い出した。振られたその身代わりとしてあんな風に抱いたのだろうか。
それだけ好きな相手がいたのだろうか。
嫉妬ではなく純粋に彼は伊勢崎が羨ましかった。自分もいつか、あんな風に好きになる相手ができるのだろうか。自ら触りたいと思う相手、抱きたくて仕方がないと思う相手、一緒にいて幸せだと思う相手。
園田?
そう思って自嘲する。彼女と一緒にいると飽きないが恋とは違う。伊勢崎もそうだ。彼らは気持ちの良い距離を自動的にとってくれている。だから付き合いが楽なのだ。自分を甘やかして追い詰めない人種。つまりは大人なのだろう。
「おい新見、聞いてるのか?」
ふと呼ばれて我に返る。眼鏡越しにこちらを見つめる冷たい目。
「どうして課長は」と口を突いて出た。
「なんだね」
「そう私を不快にさせます?」
相手を怒らせるようなことを織り交ぜた会話を意識的にしてくる上條は、たしか伊勢崎と似たような年齢のはずだった。なのにどうしてこうも違うのか。
「それはこちらの台詞だよ。君は突っかかってばかりでこちらを不快にさせている」
「そんなことはありません」
「その言い方が私を馬鹿にしていると言っている」
上條のそんな視線を受けて、新見は心外だった。確かに上條に対してはいい印象を持っていないが、自分ばかり悪いような言い方は卑怯ではないか。それとも何か。他の客と同じように、園田を相手にするがごとく接すれば機嫌がよくなるのか。
こうやって微笑んで、見つめてあげればいいのか?
急に態度が変わった新見を見て、上條は戸惑った。隣にいる男は片肘をついて、ささやかな微笑をこちらに向けていた。その視線はまるで恋人でも見るような、と考えて彼は動揺した。新見の顔があまりにも近いことに今更ながら気づいたのだ。
完全なる造形美。
長い睫毛、鼻梁。計算づくの口角の上がり具合。穏やかな瞳。きめ細かい肌。
面接の時に誰もが感じたことだったが、新見は独特の雰囲気を持っていた。メスがオスを引き寄せる香りにも似たそれ。下半身を段々熱くさせるもの。
瞬間上條の頭を支配したのは、彼自身が新見を抱いている光景だった。自分の猛ったものを新見の熱い粘膜の中に突き刺して・・・。
ぞっとした。
気づけば彼の右手は、新見の左頬を平手打ちしていた。
「な」
あまりの驚きに新見は呻くことしかできなかった。何の兆候もなく急に左に衝撃がき、頬の痛みが現実だと訴えていた。一体どうして自分が殴られたのか全く理解できなかった。
呆然と殴った上條を見詰めると、彼もまた放心していた。
新見は痛む頬を撫でながら、驚いたものの殴られたことに対して怒りがわかない自分に戸惑っていた。どうしてだろうと痛みのリズムに合わせて考える。
そして気づいた。
もしかしたら。
もしかしたら上條が自分に対して欲情しなかったことが嬉しいんじゃないのか。彼が他の人間と同様に自分の容姿に執着するなら殴るなどありえないことだ。
自分はこの容姿ではなくて、仕事を彼に認めて欲しかったのではないか。彼がセクハラ紛いのことで揶揄するのが悔しかったのではないか。
新見はようやく今までのイライラした感情の正体に気づいて、その安堵と意外性に笑い出した。
「おい、何を笑っている」
傍から見れば、叩かれて笑い出すなど気でも違ったように見えるのだろう。それがまた新見には愉快だった。
「やっぱり課長は課長でほっとしましたよ」
「からかったのか!」
「いえいえ。これからも宜しくお願い致しますよ課長。残念ながら股は開きませんがね」
そんな何気ない新見の台詞と表情に上條は驚いた。彼はこんなに表情を崩して笑う男ではないはずで、いつもどう自分が見られているかを考えて行動し、表情をつくるような狡猾な男であったはずだった。それがどうしたことか、今はまるで少年のように無邪気に下品に笑っている。
でも一体どうして?
上條は自分が殴ったことに動揺し、彼のこの態度で混乱した。しかし事態が悪化ではなく好転したのだけは確信できた。なぜなら顔を崩して笑う彼が、以前にも増して魅力的に思えたからだった。殻を破って見せたその顔を、心の底では待っていたのかもしれない。
「おい、いつまで笑っている?」上條が苦笑して言った。「そんなに笑ったら綺麗な顔が台無しだ」
「はは、そうですね。こんなところ誰かに見られたら頭がおかしいと思われますね」
「そうだ。職場内ではいつもの君でいたまえ」
「分かってますよ。今日の接待では巧くやります」
「・・・そうじゃなくてだな」と頭痛を抑えて上條が言う。そんな彼の反応に親しみを込めて新見は微笑む。不器用だが、自分のことを心配しての数々の皮肉だったのかもしれないと、今までの仕打ちをようやく理解できるような気がした。まあ元来のSという可能性の方が高いが。
新見は壁掛け時計を見上げた。休憩時間はあと三十分しか残っていなかった。
ふむ。
妙案を思いついた新見は、笑いを堪えつつ提案してみた。
「課長、昼にしませんか?」
「うん?」上條は突然の台詞に警戒することなく、腕時計に目を走らせた。
「そうだな。長丁場だし食べておいたほうがいいだろう」
「では奢りですね」
新見は立ち上がって、わざと赤くなった頬を擦った。上條は苦虫を噛み潰したような顔で彼のことを見やった。
「君はずいぶんとタチの悪い男だね」
「おっと、そうなれと仰ったのは課長ですが」
そう返す笑顔は悪戯小僧のようで。
「さあさ、立って立って」と新見は上條の腕を引っ張って立ち上がらせ、二人分の書類を持って手を引いた。
会議室を出てすぐに女子社員数名とすれ違う。彼女たちは手をつないで歩く二人を好奇にまみれた目で眺めた。
「君、私に恨みでもあるのかね」
ずっと手を握って放さない新見に向かって彼は言う。すると新見は爽やかな笑顔を向けた。
「おや、見られてしまいましたね。でも私たちがこういう関係だというのはいずれバレることでしょうから」
上條は唇を震わせた。この性悪は一生治らないらしい。
「君、私にヘンな噂が立ったらただじゃおかないからな」
「男と不倫もオツなものだと思いますが?」
新見は余裕を持ってそう言った。いつもやり込められているのだからこれくらいはさせていただかないと、ストレスがたまって仕方がない。
「私は君とそういう関係にはなってない!」
上條が怒りに任せて手を引き剥がしたその慌てぶりに、新見は腹を抱えて笑ったのだった。
了