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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。

4.弱い心

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 深洋リネンという、実に湿っぽい名前が新見の勤める会社だった。
 経営に関わる部門はS生命のビルにあり、リネン等の製造に関しては郊外に工場があった。今後の社の方針としては、コストの低い海外に生産を回すか、それとも国内の下請けに持っていくか、はたまた営業支店を増やして全体の利益を上げようと考えるか。
「さてな」と上條は眼鏡をちょっと直すと、新見の疑問を受け流した。
 社内においては少々不思議な組み合わせの二人が廊下を歩いていた。いや、課が同じなので一般的には一緒にいてもおかしくはないのだが、実際彼らが並んで歩くなど今まで一度だってなかった為、周りの職員たちは好奇の目で眺めた。新見の手を振りほどいた上條だったが、皆の見る目は繋いでいてもいなくても大差ないということを彼は気づかなかった。彼らは翌日には実に色っぽい噂が立つことになる。もちろん新見にしてみれば狙い通りだったが。
「時間もないし、アカシヤでいいか」
「奢って頂けるのに贅沢は申しません」
 そんな調子のいい返事に上條は不機嫌そうな顔をした。
 S生命6Fが深洋リネンで、営業課、総務課等各部署が並んでいる。それは廊下を挟んで完全に独立しており、他の部署の干渉はほとんどないが、唯一昼食時間は比較的交流が生まれる。このビル隣にあるレストランアカシヤは、そのボリュームと種類の多さで彼らの行き着けとなっていた。
 ビルを出て店まで足を運ぶと、一般的な昼休が残り三十分を切った為か、がらりと空いていた。S生命の職員であろう数名と外から来たらしい男性が二名、そして新見たちだけである。
「いらっしゃいませ」と、もう顔見知りのウエイトレスが笑顔で二人のテーブルに近づいてきた。
「やあどうも。あと二十分ぐらいで社に戻らないといけないんだが、一番早くできるのは何かね?」
 上條はメニュー表を見ることなくそう尋ね、ウエイトレスも慣れたようすで答えた。要するに事前に準備してある出前販売用のものならすぐ持ってこられるという返事。サンドイッチにサラダ等。
「そばとかは?」
 上條が難しい顔で聞き、「少しお待ち頂ければ」と彼女は笑顔を返した。
「じゃあすまんが、かけそばを」
 そう言って上條は新見を見た。彼は向こう側に座るサラリーマン2人を見ているようだった。
「さっさと決めたまえ」とちっともこちらを見ない新見に上條は言う。彼は少し嬉しそうな顔で振り返る。
「課長、あの二人見てください。あんなに食べてお腹壊さないんでしょうか?」
 上條が目を向けると、サラリーマンらしい二人連れの前には空になった皿が何枚も並んでいた。まだまだ小休止らしく、コーヒーとケーキを前に雑談をしている。上條たちのテーブルからは、一人の男の顔が見えた。彼は無精ひげにワイシャツ姿。そでをまくっていて、逞しい腕が覗いている。背中を向けているもう一人の人物は皺一つないスーツを着ていて、対照的な雰囲気の二人だった。
「おい、あんまりじろじろ見るんじゃない」
 まだちらちら見ている新見の態度に上條がそっと言うと、注文を待っているウェイトレスも困った顔をした。
「おい、君もそばにするぞ。いいな?」
 一向に返事がないので、上條が店員に気をつかって勝手に注文をした。要するに腹に入れば何でもよいに違いない。現にずっと彼らを観察して随分と楽しそうだった。
「君ね。覗き趣味も大概にしたまえ」
 上條が腹を立てて言うと、新見はぱっと身体を戻した。随分素直だな、と上條が不審に思っていると、例の二人連れの一人が洗面所へと席を立ち、彼らの横を通っていったのだった。スーツを着ている方である。
「痩せの大食いとはよく言ったものだと思いませんか?」
 仕事の話でもするような顔をして新見は上條に言った。彼は表情と会話の内容が一致しないことがよくあった。おそらく無意識のうちにそういう癖がついているのだろう。傍から見て話の内容を気取られないように、だ。
「君はいつもああやって人のテーブルをじろじろ見る癖があるのかね」
 呆れて上條が言えば、いつも通りの否定の返事。
「まさか」
「だったらどうして今日に限って」
「照れてるからに決まってるじゃないですか」
「は?」
「課長と二人きりで、少し落ち着かなくて」
「おい、冗談はよせ」
「そうですね、冗談はそろそろやめにします」
 新見はそう言って最後の笑顔を上條に向けた。大体愛想よくするのは女性相手だけで十分である。そろそろ課長で遊ぶのもやめにしないと調子に乗ってしまいそうだった。
「私が少し気になるのは、彼らの食べ方がどうも事務的に見えるものですから。食事は元来楽しむものです」
 氷の入ったお冷に口をつけて新見は言う。笑顔は消え失せ、いつもの能面のような顔に戻った。
「皆が皆君みたいな発想ではないだろう。私だって、昼食なんて腹を満たせればいいと思っているしな」
 急に愛想がなくなった目の前の男に少し寂しい思いもあったが、これ以上からかわれるよりはマシかもしれないと上條は思う。おそらく笑顔でいる方が、我々の関係においては不自然であろうことは納得できた。
「そういうレベルは超えているように見えるんですが・・・」
 新見はそう呟いて視線を落とした。彼らが気になりはするものの、それはただの個人的な好奇心によるもので仕事に関係するものではなかった。上條と職務上でここに座っている以上、これ以上は控えるべきであった。
 男の一人が洗面所から帰ってくる時に、二人のかけそばがやってきた。どんぶりを受け取りながら、新見はそっと男の横顔を観察した。男は上條より少し年下のようだった。髪は自然に撫で付けられていて、靴も服装も一流品だというのは一目瞭然だった。既製品らしい微妙な崩れがなく、関節部分がきちんと彼の身体にフィットしていた。
「いいスーツですね」
 思わずそう新見は言った。
顔を彼の方に向けたのは、上條と男の両方だった。丁度上條の背中側を通りすぎようとしていた男は、新見を見下ろす形になり、上條は正面から彼を見据えた。
「何言って?」と上條が続けようとしたが、新見の視線が上にあるのを見ると振り返った。そして先ほどの大食漢の片割れだと知るや、顔を元に戻して新見を睨み付けた。
「私のことですか?」と男。
「ええ」と新見は笑顔で返す。「申し訳ありません、不躾に」
 男は穏やかな笑みを浮かべた。
「いえ、構いませんよ。スーツを褒めていただいてありがとう。実は今日仕立ててもらったばかりでしてね。私も気に入っているんです」
 新見は少々見とれた。今までに会ったことのない人種だった。あくまでも上品で穏やかな雰囲気を持った男で、笑顔も嫌味ではなく自然で好感が持てた。
「失礼ついでに宜しいでしょうか?」
「どうぞ」
「よろしければどちらでお仕立てしたのかお聞きしても宜しいでしょうか?」
「おい、君。百年早い」
 上條は男が答える前に仏頂面で切り捨てた。新見はその台詞に思わず苦笑いしたが、彼とて自分の身の丈には合っていない質問だと理解していた。こういうものはもっといい大人にならないと似合わないというのは百も承知。ただ彼は本能が働いただけである。高級品を購入するであろう、顧客の。
 ふ。と男は微笑んだ。
「構いませんよ。あなたのようないい男ならもっと似合いそうだ。ただすみません。私も正式には知らないのです。友人から紹介してもらった所でしてね。ほら、あそこにいる」
 男はそう言って元々座っていたテーブルを見やった。無精ひげの男は煙草を美味そうにふかしながら、時々コーヒーを飲んでいた。
「えーと」と新見は言葉を詰まらせた。
「失礼ながら、あの方のスーツも」
「ええ、同じ場所での仕立てです。そうは見えないでしょう?」
 男は愉快そうに笑ったが、新見はどう反応すればよいか困った。向こうの男は、上着を背もたれに掛けて、襟も何も構ってはいないようだった。
「はは、呆れるのも無理はありませんよ。彼は着崩す天才ですから」
男はそこまで言うと、「今聞いてきてあげましょう。ただ、彼は天邪鬼ですから素直に教えてくれたら、ですが」
 そう頭を軽く下げると、席に戻っていった。
「おい、君」
 顔を戻すと、そばを前にした上條は相変わらずの難しい顔で新見に言った。
「君は誰にも構わずああいう風にナンパしているのかね?」
「まさか」
 新見は割り箸を割って、すっかり延びてしまったそばを頬張った。
「君のまさかは聞き飽きたよ。君の上司として初めて君の商売顔を見せてもらったが、やっぱり色目を使っているじゃないか。まさか、ああいう風に行き当たりばったりで商売しているわけじゃないだろうな?」
「まさか」と新見は繰り返したが、伊勢崎のパターンはそういえば今と似たようなものだったなと自嘲した。
 上條はその曖昧な新見の返事に納得しないような顔をしつつ、同じく伸びたそばを頬張った。
 五分もしないうちに二人はそばを平らげ、上條は時間を確認すると新見を即した。新見はそっと例の男達を見やると、無精ひげの男と視線が合った。先ほどの遠目から見た雰囲気とは違い、随分尖った視線だった。まるで威嚇するような。
「おい、行くぞ」
 上條のその声で呪縛がとけたように新見は立ち上がった。急に寒気がして震えた。
 新見自身よく分からない、もやもやした感情を抱えつつ、会計の終わった上條について店を去ろうとした時、「ああ、ちょっと待った」と声が掛かった。上條が外に出てしまったのを視界の端に捕らえながらも新見が振り返ると、先ほどの男が駆け寄ってきていた。
「もう行くのですか?」
「あ、すみません。休憩時間がもう終わってしまうもので・・・やはり無理でしたか?」
 新見は努めて正面の男に神経を向けようと思ったが、どうも向こう側にいる無精ひげの男が気になって仕方がなかった。
「いや、大丈夫ですよ。きちんと名刺をもらってきました。店を気に入ってくれれば、私も嬉しい」
 男は愛想良く笑い、名刺を二枚新見に渡した。一つはテーラーのもの、もう一つは。
「あ、そちらは安藤・・・彼のです。もし機会があれば連絡してあげてください。あなたのことが気に入ったようだから」
「気に入った?」と新見は聞き返して、遠くの安藤を見やった。笑顔をこちらに向けていたが、先ほどより視線が冷たかった。
「そうでしょうか?」
 ぞっとして思わず本音を言うと、男は微笑んだ。
「大丈夫ですよ。彼は敵意のない相手に攻撃はしない男です。躾はきちんとされています」
 穏やかな言葉だったが、言葉が独特だった。同世代の友人を捕まえて「躾」という言葉など使うだろうか。嫌な気配を初めて正面の男に感じた。
「私は残念ながら名刺を持っていませんので、彼の名刺の裏に名前を書いておきました。今度飲みにでもいきましょう」
 新見は微かに震える指を叱咤して裏返すと、綺麗な字で「深町」と書かれていた。その下には携帯番号。
「情報交換といってはなんですが」
「はい」
「お名刺頂いて宜しいでしょうか?お近づきのしるしとして」
 新見は慌てた。いつもの彼なら反射的にしている行為のはずだった。
「これは気づきませんで」
「いえ、こちらこそ不躾にすみません」
 新見の出した名刺を丁寧に両手で受取、深町は名前を読み上げた。
「ニイミ・・・レイさんとお読みしますか?」
「いえ、玲と書いてアキラと読みます」
 声まで震えたのを新見は喉の奥で感じた。どうしたことか、正面の人間が怖かった。
「なるほど。よい名前だ」
 男は新見の名刺を見て最終的にそう笑った。
どうしてこんなに不気味さを感じるのだろうと疑問に思っていると、ドアが開いて上條が戻ってきた。
「おい何やってる、行くぞ」
「は、はい」と新見は辛うじて返事をすると、彼の後を追って店を出た。背中に優しい声で「またお逢いしましょう、玲」と聞こえたのは、気のせいだと思いたかった。新見はとんでもない相手と関わったことを肌で感じていた。そっと袖を捲ると、夏の暑い盛りなのに、鳥肌がたっていた。

店を出ると上條から色々詮索された新見だったが、口にする気分にはなれなかった。藪を突付いて蛇を出す、ではないが、心理的にはそのような気分だった。
 しかしその不安など、彼は十分後にはすっかり忘れた。会議につぐ会議で、彼はいつも以上に神経を研ぎ澄ませていた。彼自身、会議というのは嫌いではなかった。嫌いなのは資料作りであり、情報が得られるこのような場は何度出席してもあきることはない。
 営業全般の成績を上條が発表したとき、現場の状況として新見が答える立場となった。予定外の流れであり、そんなことの資料は用意していなかったが彼にしてみれば願ったり叶ったりだった。こういう場こそ、現場の状況を上層部に伝えられる唯一のチャンスだと思っていたからだ。おそらく八割以上は聞き入れられないとは分かっていても。
新見は周りの面々に臆することなく、立て板に水のごとく喋りだした。資料など彼には不要だった。商品の詳細から営業の流れまで彼の頭にはきっちり納まっているからだ。だからこそ視線が下がらなかった。美しい容姿をさらけ出し、堂々と解説するその姿勢に上層部は色めきたった。特に接待要員としてしか見ていなかった常務が感心して顎を撫でた。
上條としては、してやったりといった風で口角を上げる。彼の本来の目的は、新見の本来持っている実力を正しく上層部に示すことだった。彼らは、新見の整った外見にしか関心がなく、上條がいくら褒めてもあの外見に絆されてと相手にされなかったのだ。
「上條君」と上座に座る常務がこっそりと呟く。
「彼はいいね」
 上條に否定する理由はなかった。
「はい。優秀な部下です」
 この日に初めて新見が外見以外で評価されることとなった。決してそのことは本人の耳には入らないことだったが。

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